冬の屋上庭園には物好きしかいない。たとえば、俺とか。
仁王も暖かいうちはここでサボったりしていたみたいだけど、快適に過ごせなくなってからは、また別の昼寝場所を見つけたみたいだ。最近はめっきり見かけない。
俺も別に、これといって用があるわけじゃない。なんとなく。草花の世話をよく焼いていた時期が終わったから、じゃあもう来なくていいねと思うのは、味気ないように思ったから、一応。
そんなぼんやりとした気持ちでここに来ても、やっぱり冬の屋外はそれなりに寒い。呑気に昼寝なんかしたら風邪をひきそうだ。
だから俺は結局惰性でここに来て、まあ一応、やることがないこともない土いじりをした後は、屋上の風に吹かれながらぼんやりと暇を持て余すことになっていた。
教室に帰ってしまえばいいんだけど。でも、なぜかここが気になる……というと、大袈裟か。
一人になれるから……庭園の植物が気になるから……ずっと通っていたから。
自分で挙げてみるが、どの理由もしっくりこない。
でもいいか。理由なんてなくても。そこまで真剣に考えることでもないから。
そう結論づけて続けていた昼休みの習慣に、やっとそれなりに意味が生まれたのは、彼女がやってきてからだった。「いつも通り」に新たな要素が加わっただけで、いつも通りなのには変わりないけど、それはそれでいい。
○ ○ ○
「満谷さんって、部活やってるの?」
そんなわけで、いつも通りの屋上庭園。天気は晴れ。風が少し吹いているけど、凍えるほどではない。
ベンチの隣、少し間を空けて座る満谷さんに、何の気なしにそう聞いてみる。満谷さんは怪訝そうに唇を少し歪めた。
「やってますけど……」
「ふうん。何? いや、当てたいな。まだ言わないで。そうだな、茶道部とか?」
「違う……。幸村先輩が私のことをどう思っているか、今ので分かった気がします」
「それってどういう意味?」
「吹奏楽です」
「へえ。意外。楽器は?」
答えになっていないよ、と突っ込めばよかったかな。にしても吹奏楽か。意外と言えば意外、納得と言えば納得な、絶妙なラインの答えだ。
「……トロンボーンです」
「へえー」
「興味あります?」
「あるよ、もちろん。意外だっただけじゃないか」
寒い時期、ベンチは自分のいるところしか温かくならない。俺は指先で、ベンチのまだ冷えているところをさぐった。ひんやりとした感触が新鮮で、温まったところからつい手をずらしたくなるのだ。
そうして、「トロンボーンかあ」と繰り返した。隣の満谷さんが、ちょっとだけみじろぎする。
「幸村先輩、トロンボーンがどの楽器か分かるんですか?」
「わかるよ。クラシックは結構好きだから」
「へえ……」
「意外?」
「いや、イメージ通りです」
「なんだ。つまらないな。そうだ、満谷さんは、テレビでやってるオーケストラの番組とか見る?」
「まあ、それなりに、ですかね」
「俺は見るんだけど、この間、好きな曲をやってて嬉しかったんだ。録画しておけばよかったかも」
「そうなんですか」
「ちなみに、俺はブラームスの交響曲第四番が好きだよ」
付け加えると、案の定「はあ」と、気のない返事が返ってきた。
「私は……春の猟犬が好きです」
「ふうん」いろいろと意外だ。けど、重ねて言い過ぎるとかわいそうかなと思って、話を進めることにした。「それって、ちょっと前まで吹部が練習してた曲じゃなかったっけ?」
「はい。発表があったので……。私は、好きな曲が吹けて楽しかったです」
「よかったね、せっかくの好きな曲にうんざりしないで済んで」
「はい。……でも、あの、練習の時に、みんなこの曲のことを『犬』って呼んでて」
「犬……」
思わず繰り返してしまった。「猟犬とかじゃなくて、犬なんだ」
「略すにしても、はるりょとか、猟犬とかでいいと思うんですけど……。私はタイトルも好きだったので、『犬』なんだ、って思いながら練習を……」
満谷さんは眉を寄せた。控えめな表情ながら、もやもやしています、というのが完全に顔に出ていて、おもしろい。
犬か。たしかに一番風情がない言い方かもしれない。せっかくの春と猟が剥ぎ取られて、かわいそうに。頭の中にすかんぴんになって震える犬の姿が浮かんだ。
「ところで、何か良いことでもあったの?」
満谷さんが、表情を妙なところで固まらせたのが分かって、「今日はよく喋るなと思って」と付け足した。
実際、初めて会った日に比べると、相当会話が続いている方だったから。
「いいこと……、はい、まあ、多分」
「気になるな。何?」
「今練習してる曲が、やっとそれなりに吹けるようになったので、それかもしれません」
「君って、結構部活が好きなんだね。もっと早く聞いておけばよかった」
「そ……そうですか。この話、楽しいんですか?」
「うん。親近感が湧くな、やっぱり」
満谷さんがどうでもいいことを話すのは珍しいから。なんだ、部活の話でいいんだ、と、肩透かしを食らった気分だ。
「幸村さんは確か……テニス部の部長でしたよね」
「実質はもう違うけどね。俺たちは引退してるから」
「よく、走ってる時に見えてました。テニスコートの近くを通るので」
「そうだったんだ。走り込みとかするんだね」
「一応……、テニス部に比べたら、走ってないも同然だと思いますけど」
「そうなんだ。ところで、やっぱり初めてここに来た時は悪いことがあったのかい?」
「……」
「満谷さんは素直でいいね。分かりやすい」
冬の日差しに照らされて、黙り込んだ満谷さんの不満げな顔が無駄に情感をもって見える。それがおかしくて口角をあげると、満谷さんはますます微妙な表情で俺(正確には俺のネクタイあたり)から目を逸らした。だんだんこの後輩の喋り方が分かってきた。
何か話したいことがあるなら話していいよと勧めると、大体の場合話さない。とはいえ、反発しているというよりは、どう話せばいいかが分かっていないだけみたいだ。そういう時、話を変えるか、勝手に進めるかしても、特に気にせずそれに合わせてくる。
というか、機嫌が悪くなると、それを言葉で伝えることなく、ふてくされたように黙り込むくせがあるから、わかりやすい。
この基準にのっとって考えると、出会った時はやはり相当機嫌が悪かったのだろうとわかる。
きっとあの時は、ここに逃げ込みにきたんだろう。屋上庭園に詳しくないと、いざという時の避難先としてここがあまり向いていないことを知らないのだ。暖かい時期なら仁王もいるし、俺も昼休みに来る。良いところなんだけど、その分一人にはなれないんだよね。あと、今の時期は風が冷たいし。
あの時に比べれば、今日は機嫌が良さそうで何よりだ。そう思って、「褒めてるんだよ?」と、たっぷりの間の後にそう追加する。
「褒め……そう、なんですか?」
真面目に悩んでいるようだったので、「そうだよ。俺の言うことが信じられないのかい」とにっこり笑ってやると、「そう言われると、なんか、怪しいんですけど」と、ややたどたどしい返事が返ってきた。
「ひどいなあ」
「なんていうか、幸村先輩は……、ちょっと意地悪……なんじゃないでしょうか。あの時は何も聞かずに、今突っ込むとか……」
「俺にしては優しくしてる方だと思うけどな。とりあえず、言い返す元気が出たみたいでよかったよ」
そう言ってベンチから立ち上がる。立ち上がったせいで、風を全身に受けるはめになって、体がきんと冷たくなる。
時計を見て、そろそろ解散の時間なことを察したらしい。
満谷さんも、「それを自分で言ってる時点で、あんまり優しくないと思います……」とぼそぼそ言いながら、持っていたブランケットをたたみ始めた。