※本の再録


 金曜日の夜。次の日が休みだということと、珍しく早めに帰れたこともあって、私は夕食を終えても浮ついた気分が胸に残ったままでいた。
 こういう時に私がすることは決まっている。さっさとやるべきことを終えた私は、テーブルの上にいそいそとマニキュアのたくさん入ったケースを置いた。どれにしようかとしばし逡巡したのち、いくつか気分に合った色を取り出してみる。ちょっとビビッドめなピンク。テラコッタ。カーキ。ミルキーなブルー。あと、逆にヌーディーなベージュとか。
 ……うーん、決められない。こうなったら周助くんに選んでもらおうか。
 私がそう思った瞬間、周助くんがひょい、とテーブルの上を覗き込むように顔を出した。「塗るの?」と、端的な問いかけが降ってくる。
「周助くん? そのつもりだけど。どうしたの?」
 周助くんは「気になって」と隣に座り、テーブルに並んだ色とりどりの小瓶を一度見て、「というか、気になってたから、かな」とにっこり笑った。
「えっと、マニキュアが?」
「うん」
「それは……どういう観点で?」
「なんとなく?」
 周助くんは掴み所のない笑みを浮かべている。ただの気まぐれに言っているだけなのかもしれないと考えた後、彼のセリフを思い返して、そうではないことに気がついた。促すように首を傾げて周助くんに視線を送ると、周助くんは私と同じだけ首を傾げる。意図は伝わっているはずだから、わざととぼけた仕草をしているのだろう。
「いつも塗ってるから、ボクもやってみたいなって」
「やるって……どっちを?」
「どっちでも。晴の好きな方がやりたいな」
 私はしばらくためらってから、「じゃあ……塗ってもらってもいい?」と言った。元々塗るつもりだったし、周助くんに色を選んでもらうつもりでもあったからだ。私が机の上のマニキュアの瓶を指して「周助くんの好きな色選んでいいよ」と言うと、周助くんは「うん」と笑った。

 周助くんが手に取ったのは、私が最初に出していたミルキーブルーだった。少し紫のかったくすんだ色味で、花のようにも雲のようにも見える。瓶を回すと小さな偏光ラメがちらちらと青く瞬くのが美しい。私は「結構薄いから、もしかしたら二回塗った方がいいかも」などと色々と口を出しながら、座っていた椅子を横に向けた。テーブルを挟むよりも、隣の椅子同士で向かい合った方がやりやすいだろうと思ったのだ。
 周助くんは手に取った小瓶に目をやって、「分かった。やってみるね」と素直に頷いた。そのまま視線をテーブルの向かいに向ける。自分の分の椅子を持ってくるつもりなのだろうと思ったのもつかの間、周助くんはなぜかそれをせず、椅子に座る私の手を跪くようにして取った。そのまま有無を言わさず流れるような仕草で右手の人差し指に刷毛を落とし始めるので、私は思わず困惑の声を漏らす。
「え?」
「うん?」
「……周助くん、多分、椅子に座った方がやりやすいんじゃないかな」
「でも、もう塗り始めちゃったし、特に塗りづらくないから」
「はあ……」
 釈然としなかったが、取り立てて騒ぐほどのことでもないのは確かである。塗ってもらっているのもこちらなのだしと、私は大人しくされるがままになった。

     ◇ ◇ ◇

 こうしていると、周助くんの伏し目がよく見える。羨ましくなるくらい長いまつ毛と、それに遮られた瞳。私の手を片膝をついて取ったまま、周助くんは真剣な面持ちで私の指先に色を乗せていく。口角は僅かに上がっていて、動きに合わせて髪の毛が揺れた。
 ここがただのマンションのリビングなのが気にならなくなるくらい、その姿がなんだか絵になっている。冷蔵庫のモーター音がやけに気になるなと思って、息をつめてしまっていたことに気がついた。
「……なんか照れる」
「そうだろうね」
 私の呟きに、周助くんは私の爪から目を離さないまま事もなげにそう返した。うやうやしい手つきで支えられた指がくすぐったい。
 私は目を逸らすこともできずに周助くんのことを見下ろしていた。
 リビングはピントがぼけて完全に背景になり、代わりに周助くんのことが細かいところまでよく見えるようになってくる。
 部屋着の薄い生地越しに見える肩のラインも、蛍光灯に照らされた髪の毛の色も、私よりよっぽどきれいな指先も、そこから伝わるさらさらした肌の感触も、私より少しだけ低い体温も、もうとっくに慣れているはずなのに、無性に鼓動が早まる。
 綺麗だ、と思った。こんな綺麗なものが自分のために神経を研ぎ澄まして動いているのだと思うと、なんだか不相応な気がして、私はもう一度息をぐっと詰める。
 ……か、彼氏に傅かれてあからさまにどきどきしてしまった。
 周助くんの発する雰囲気にあてられたのか、普段考えないようなことを考えてしまったのが悔しくて、気を紛らわすために、周助くんが左手の中指を塗り終えたタイミングでおもむろに「上手だね」と褒めてみた。
「そうかな? ありがとう」
「周助くんが器用なのは知ってるつもりだったけど、ほんとになんでもできちゃうんだね。それとも、お姉さんのを塗ったことがあったとか?」
「姉さんが塗ってたのは見たことあるけど、塗ったことはないな。というか、塗らせてくれなかった」
 左手の小指を塗り終えた周助くんは、「やってみて姉さんの言ってた意味が分かったよ」と、ようやく私をちらりと見上げた。薄い青紫に染まった私の左手をわざわざ両手で支えて、満足げに笑う。
「ボクの女王様」
「……」
 なるほど……そういうつもりだったのか。初めに半ば強引にこの体勢を取られた理由が分かった。私は「……ちょっと、やめてよ」と顔をしかめる。
 周助くんは「そう言われても、難しいかもな」と飄々と言いながら刷毛を瓶に戻した。「いつも思ってることだから」
「うわ……」
「晴は嬉しくないの?」
 嬉しくないの、とは。
「嬉しい嬉しくないというよりは、めんどくさい。周助くんの甘え方が……」
 私の言葉に、周助くんはきょとんと私を見上げた。「え?」
 え? って何。わざとやっているならともかく、甘えている自覚がなかったらどうしよう。いや、でもこれを突っ込んだら負けな気がする。
「いや、もういいや」
「ふうん?」
 私が無理やり話を切り上げようとすると、周助くんは面白くなさそうに眉を上げて私の表情を観察した。それから一度マニキュアの瓶に刷毛をつけて、つきすぎたマニキュアを瓶のふちで落とすと、私の手をわざとらしく取り上げる。
「晴だってその気だったくせに」
「その気って……どの気のつもりで言ってる?」
 しまった、耐えかねて突っ込んでしまった。相手をしないようにしていたのに。
 こういう趣旨のはっきりしない問答において、周助くんは水を得た魚のようである。案の定、私の返しに周助くんはくちびるをにんまりと吊り上げた。いつもより幾分子供っぽい笑みだ。私はそれを見て眉間の皺を深くする。周助くんの言い分を借用するなら、私たちの今の体勢はちょうど女王と女王に忠誠を誓う騎士のようだけど、それにしては二人とも粗が多すぎると思った。
「ボクに跪かれてちょっと嬉しかったでしょう」
 周助くんはにんまりしたまま、そうのたまった。
「う〜わっ……」
 粗どころの騒ぎではなかった。もはやドン引きである。爪を人質(?)に取られていなかったら、勢いのままにのけぞっていた。照れるとか言わなければよかった。本当に。
「嫌なんだけど、ホントに。調子に乗りすぎ」
「そうかな。でも、ドキドキしてたよね」
「してない」
「してたよ。バレバレなんだから、嘘なんてつかなくていいのに。ああほら、動かないで、ズレちゃう」
「…………」
 本当に一発ひっぱたいてやろうか。
 周助くんはそんな私の心境を知ってか知らずか、心底楽しそうに私の爪に色を重ねている。ムラなく丁寧に塗られたおかげで、私の爪はつややかに光を反射していた。
「楽しい?」
 投げやりに問いかけると、周助くんは「もちろん」と下を向いたまま微笑んだ。
「晴はボクの世界の中で一番綺麗で素敵だから。晴と一緒だといつだって楽しいけど、今日は格別だね」
 もう私には文脈が理解できない。ひとまず「意味わかんない」とぶっきらぼうに言い捨ててみるが、もちろん効果はなかった。周助くんは私を上目遣いで見つめると、また声を漏らして笑い、唇を開く。なめらかに響く声が、いつもと違う場所から響いてくる。
「ふふっ。つまり、僕も晴に跪けて嬉しいよ、ってことだよ」
「跪かれておろおろする私を見れて楽しかった、の間違いじゃなくて?」
「まあ、そういう面もあるかも」
 周助くんはそう悪びれなく言いながら、全ての爪に色が灯った私の手を満足そうに観察した。「綺麗な色だね」
「え、うん、そうだね」
 私が反応に困ってなんとも言えない返答をすると、それを合図にするかのように周助くんはすっと立ち上がった。そのまま、「はい、終わり」と持っていた小瓶をテーブルの上にことりと置く。視界が周助くんでいっぱいになる。私は少しの間爪に塗られたミルキーブルーを眺めて、それから、おもむろに口を開いた。
「……周助くん」
「何?」
「今度は周助くんに塗ってあげるよ」
 私は周助くんを見上げて言った。周助くんは、そんな私を見て「楽しみだな」と目を細める。
 ……彼が私の爪を塗りたくなった気持ちが、分かったような気がした。
 周助くんにとって一番素敵なものが私だとするなら、私に傅かれる周助くんはきっと、この世のものとは思えないくらい美しいに違いないのだ。





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