※本の再録



 できるだけなんでもないふうに迎えたかったのに、結局知らされた到着予定時刻の三十分くらい前から、そわそわとリビングと玄関を往復するのがやめられなかった。
 仕方がない。だって、四ヶ月ぶりだ。丸々ひとつの季節を、先輩抜きで過ごしたのだ。

 プロのテニスプレイヤーはひとつところにとどまっていられない。大会が絶え間なく、しかも世界各地で開かれているからだ。それはもちろん分かっていた——なんなら、先輩がプロになる前から調べていた。それに、ネットニュースでも本人からも、向こうであった出来事や活躍は聞いていた。
 けれど、だからこそ、あの時は見栄を張って言わないでおいた「ギリギリ」が、ひとりで過ごす冬の寒さと共に骨身に染みてたまらなくなって、この部屋のためにインテリアに詳しい先輩が選んだ家具とか、世話を任されたサボテンたちとか、そういうものを見るたびに、先輩の体温が恋しくて仕方がなかった。
 正直、あんなことを言ったのをすごく後悔した。いや、私が先輩のテニスを応援しないなんてことはありえないから、どうやったってこうはなっているだろうと思うけど、それにしたってキツかった。
 この四ヶ月、通話では伝わってこない体温やら匂いやらを求めて、先輩の残していった服を羽織ってモーニングコーヒーを飲んでみたり、わざわざ先輩の部屋に行って眠ってみたりと、およそ本人に言えそうもないことばかりしていたのを思い返して、一人で気まずくなる。……いや、先輩は多分喜ぶと思うけど、私のしょうもないプライドが許さなかった。
 そんなわけで私は先輩が帰ってくるのが待ち遠しくて、待ち遠しく思っている自分が恥ずかしくて、しかもなんだか緊張してしまって、落ち着きなく部屋を歩き回ってみているというわけなのだった。
 先輩を空港まで迎えに行かなかったのは、この状態の自らを、先輩はともかく周囲に見られたくなかったというのが理由である。……会えたらどうなるか分からないし。うっかり外で泣いちゃったりなんかしたら、恋人と感動の再会を果たして号泣する女として周囲の記憶に残りかねないし、もっと運が悪かったらそのシーンが週刊誌に載る。それは絶対に嫌だった。
 自分でも長いこと付き合ってるくせに素直じゃないなと思うことはたくさんあるけど、先輩のことを心の底から……その、愛しているというのは本当だ。でも、私が先輩に向ける想いを知っているのは、先輩だけでいい。他人にはそれを許したくなかった。

 握りしめたままのスマートフォンを傾けてロック画面を確認すると、思いの外時間が経っていてばくばくと心臓が跳ね出した。な、なんでこんなにドキドキしてるんだろう。今から先輩にしようと思っていることのせいだろうか。何回もこうしたい、というか、こうしてあげたいと思い返してイメージトレーニングはばっちりのはずだけど、いざ実践となると、わざとらしくないだろうかとか、おかしく思われないだろうかとか、色んなことを考えてしまう。たった一言ですむことなのに。いや、たった一言だからだかもしれないけれど。
 聴覚が過敏になっていたせいか、普段なら全く気にならない程度のはずの音を、私の耳はしっかりと拾った。スーツケースの音だ。……もしかして、いや、もしかしなくとも、……。や、やばい。
 エレベーターのある方から聞こえてきていたその音は、私の思っていた通りに、私のいる玄関の前で止まった。それから、わずかな間。そのあとに、かちゃ、と、鍵穴に鍵が入る音。かちゃん。小さな音をたてて、鍵が回されて、扉が開く。ようやく暖かくなり始めた春の夜の、やわらかい風が吹き込んできて、頬を撫でる。私はそれを吸い込んだ。吸い込んで、それで、
「晴ちゃん」
 ­——先輩が私の前で笑っている。後ろから春風を受けて、さらさらと髪を揺らして、私の名前を呼んで、笑っている。
 ……ねえ、本当に、勘弁してよ。なんだか、それだけで泣けてきちゃったじゃないですか。
「せんぱい……おかえりなさい」
 万感の思いをこめて、できるだけ素直に笑って、言う。おかえりなさい。この一言を、絶対にあなたに伝えたくて、ずっと待っていた。
「……、うん、ただいま」
 先輩は目を伏せて笑った。もしかしたら泣きそうなのかもしれないと、少しだけ思った。その表情の余韻が消えないうちに、先輩は、ごく自然に廊下から玄関へと足を踏み出してドアを閉め、玄関のぎりぎり、私が立ち尽くしていたところまであっという間にやってくる。先輩がこんなに近くにいることになんだか慌ててしまって、脚がぴくりと震えた。
「晴ちゃん」
 ぎゅう。
 ふわふわ、きゅうきゅうと、幸せな気持ちが湧き上がってきてから、先輩に抱きしめられたことに気がついた。こんなに長い間離れていたのに、私の背中に回る腕の力加減はあの時のままで、いよいよ我慢が効かなくなって、私も全力で先輩を抱きしめ返した。私は手加減なんてしてやらない。コートに顔をうずめるために目を閉じたら、じわりと熱い涙がにじんでしまったけれど、もう全部コートに吸わせることにする。私はすん、と短く鼻を啜るように息を吸って、返事なのかどうかもわからない、「うぅ」という呻き声を出した。それに応えるように、先輩は片手を私の頭に伸ばして抱くと、ぽんぽんとあやすみたいに撫でる。同時に、少し腕の力が緩んだ。今はもうなりふりかまっていられなかった。私は深呼吸をすると、そのままの勢いで、先輩のにおいを吸い込んだ。
 まっさきに飛び込んでくる、春の初めのにおい。それから、あんまり嗅ぎ慣れないコートのにおいの奥底に、知らない土地の雪のにおいがする。
「むこう、寒かったですか?」
 と、コートに顔をうずめたまま聞いた。
「うん。こっちは暖かいね。コート、いらなかったかも」
 先輩は、少しだけ涙声になってしまった私の声には触れることなく、私を抱きしめたままそう返してくる。
「もうそろそろ春ですから」
「そうだね。空港を出たら、風がもうすっかり春の空気でびっくりしちゃった」
「ん……」
「でも、晴ちゃんは結構あったかい格好だね。寒かった?」
「……もう寒くないよ」
 先輩は小さな声で、「そうだね」と言った。多分私の考えてること、全部伝わっちゃっただろうな。照れ臭くて、でも嬉しくて、私はまた「ん」と「う」の間くらいの声を返した。
「ごめんね、寂しい思いさせて」
「……、いや、別に……」
 寂しくないです。大丈夫です。そう言おうとして、やめた。その代わりに、うんと素直になってやることにする。
「ウソです。寂しかった。泣きました。三回くらい」
 先輩の反応を待たずに、全部を言い切る。「今を入れたら四回です。……だから、ちゃんと責任取ってください」
「責任?」
 先輩の声が少しだけ低くて温かい響きになった。優しい、慈しみを込めた声音だ。先輩が私を甘やかす時の声だ。
「そうです」
「……そうだね。君を泣かせたのは僕なわけだし」
 それを最後に先輩の言葉は途切れた。代わりに、またぎゅっと腕に力が入ったかと思うと、先輩は頭を私の首筋にするりと寄せる。
 どれくらい経っただろうか。ふいに——というか、やっと腕が離れた。先輩は片手を開き、握り込んだままだったらしい鍵に視線を落とした。「これ、使えて嬉しいな」
 合鍵。通話で先輩が、お守りがわりにしていると言っていた小さなそれ。照れ隠しに「なくさないでくださいよ」とからかうと、先輩は「なくなさいよ、晴ちゃんのところに帰れなくなっちゃう」なんて言って笑っていた。先輩がこの家に帰ってくるための小さなお守り。
 きっと、私たちは同じ想いでいたのだ。胸の奥があたたかさにじわりと滲む。
「私も……先輩におかえりなさいが言えて、嬉しいです」
 だって、先輩の帰る場所は私の隣だから。
 うぬぼれでもなんでもなく、私がいるから、先輩はここに帰って来たのだ。

     ◇ ◇ ◇

 先輩が洗面台で手を洗って、大きなスーツケースとコートを自室に置いて戻ってくるのをリビングで待っている。
 先輩の部屋は、部屋の主が四ヶ月も留守にしていたにしては、おそらくかなり綺麗に保たれていると思う。……というのも、私がよく先輩の部屋に出入りしていたからなのだが。今思い返すと恥ずかしさしかない過去の自らの行動にやや頬を熱くしながら、はやる気持ちを抑えるためにソファに置かれたクッションを抱きしめてみた。……物足りない。さっき、ほんものを抱きしめてしまったから余計に。でも、やっぱり少しだけ落ち着く……。

「僕にしてくれていいのに」
 びく! と腕から背筋が大きく震えて、私はクッションを床に取り落とした。振り向くと、いつのまにか先輩がリビングのドアの前で微笑んでいる。み、見られた。
「せ、……先輩」
「ほら、おいで」
 先輩は腕を広げて私を呼んだ。愕然とした表情で立ちすくんだ私は、数瞬ののち、結局抗えずにぺとぺととフローリングを歩いていく。先輩の目の前で一度立ち止まり、それからとすんと体重を預けるようにして先輩の胸に収まった。先輩は私の背中に優しく腕を回す。さっきよりも余裕があるみたいだ。コートを脱いだ先輩の柔らかなシャツの生地が、その腕の動きに合わせて微かな音を立てた。
 私はその音に耳をすましながら、「別にハグがしたかったわけじゃ……」などと、もぞもぞと小さな声で弁明をしようとしたけれど、多幸感に侵されていつもの調子が出なかった。顔に当たるベストの感触が心地よくて、無意識に額をすり寄せる。
「そうなの? でも、僕がしたくなっちゃったから。あんなにかわいいところ見せられたら、ね」
 意地悪だ。というか、そういえば先輩は意地悪な人なのだった。三ヶ月前に離れてからずっと、私を不安にさせないために、ことさら優しく接してくれていたことを今になって実感する。
「先輩」
 呼んでから、顔を上げる。先輩は微笑んだまま、「うん?」と私と目を合わせた。それをいいことに、私は少しだけ背伸びをして、顔を傾けて、先輩とくちびるを触れ合わせた。……ちょっと乾いているけど、やわらかくて、なによりあたたかい。このままずっと触れていたいくらいだ。伏し目がちにまぶたを上げると、先輩が目をまん丸にしているところがちらりと見えて、嬉しくなった。
「びっくりした?」
「……うん」
 かわいい。……うん、だって。私は「ならよかったです」と笑って、先輩から離れた。私は先輩のかわいいところに弱いのだ。
 気が済んだ、というか、恥ずかしい言い方をするなら充電ができたのだろう。急に頭が回るようになって、くるりと視線を動かし、上の方をぼんやり見ながら思考を巡らせる。
 お風呂はもう沸かしてあるから、いつでも入ってもらえる。来るまでにご飯は済ませていると聞いているけど、空港から家までそれなりに時間がかかっているはずだから、追加で何か食べるだろうか。私はそんなことを思い浮かべながら、先輩に尋ねようとした。
「えっと、先に何か食べますか? それとも、お風呂だけ入りま、……。あの…………。ちが……、違いますからね」
 …………完全にやらかした。今度は真面目なことを考えすぎた。先輩と話すときは気を使わないと、こういう言い回しを見逃してくれるような人ではないのだから。先輩が「じゃあ、晴ちゃんにしようかな」とかそういう訳のわからないことを言い出す前に、全力で訂正した。
「違うの? よかった、プロポーズの先を越されたかと思ったよ」
 案の定先輩はいつもの笑顔でそんなことを言ってくる。なんだ、プロポーズって。さすがの私でももうちょっとしっかりしたプロポーズができると思う。……というか、先を越されたって、するつもりがあるんだろうか? いやまあ、世間的に見れば全然あっても良いんだろうけど。あっても……。そっか、ありえるんだ……。
 ドツボにはまった思考がぐるぐると私の頭を取り巻く。先輩の思い通りになってなるものかと、ばっと赤面を手で隠して、「何言ってるんですか。……で、どうするんですか? 一応何かは作れると思いますし、お風呂も沸かしてあるんですけど……」とむりやり話を進めた。
「お腹空いてないから、大丈夫だよ。お風呂入ってくるね」
「はい」
「寂しくない? もう一回抱きしめておこうか?」
「……。だ、大丈夫です!」
「今ちょっと考えたね」
「考えてない!」
「ふふ、はいはい。早めにあがるから」
「普通にゆっくりしてきてください!」
 くすくす笑う先輩をリビングから追い出して、ふん! とソファに座って、少ししてから、なんだか懐かしいやりとりだったなと思い返した。いつもの感じだ。それがやっぱり嬉しくて、結局クッションを抱きかかえながら、先輩が戻ってくるのを今か今かと待っている。我ながら素直だと思う。悪く言えば単純だ。根がこれなのだから、いつも先輩にいいようにされるのも納得である。私は顔を隠すように、もぞりとクッションに頬を埋めた。

     ◇ ◇ ◇
 
 さすがに同じミスを続けて繰り返すことはなかった。お風呂のドアは結構わかりやすい音がするので、今度はちゃんと気づいてクッションを離すことができたのだ。なんとなく、そのまま先輩のたてる物音に耳をすましてみる。しばらくの間の後、ぺたぺたと素足がフローリングの上を歩く音。一度自室に向かって、それから洗面所に戻ってきて、戸棚からドライヤーを取り出す。戸棚が閉まって、今度はこちらに向かってくる。リビングのドアが空気をかき分ける音がする。
 そのタイミングで私は顔を上げて、入ってきた先輩を見た。髪の毛はまだしっとりと湿ったままで、首にタオルをかけている。片手にドライヤーを持っているところから察するに、このままリビングで髪を乾かすつもりなのだろう。ソファに座ったまま先輩を見上げて、「ん」と空けておいたソファの半分を視線で促すと、先輩は頷いて、私にぴったりとくっつくようにして座った。ふんわりと温かさと石鹸の香りが漂ってくる。
「近いんですけど」
「近いところに座ったからね」
「なんか熱いし……」
「お風呂入ったからね」
「どいてくれないんですか?」
 どう考えても近すぎるのだが。せっかくそれなりに余裕のある広さのソファなのに、先輩は明らかにソファの半分よりこっち側に座っていた。なんだか追い詰められている感じすらする。
 そんなわけでわりと直接的に苦言を呈してみたのだが、先輩は首を傾げて「どいてほしいの?」と微笑むだけだった。
「いや、普通に……邪魔じゃないですか」
「僕はそうは思わないけどな」
 これはアレだ。先輩のいつものアレだ。先輩は私との会話をわざと長引かせて、それをなんだか楽しんでいる時がある。からかっているというか、じゃれているというか。私のそれなりの年数蓄積された対先輩の経験上、こうなったら下手に言い返さないに限る。そう結論づけて、「先輩、私とくっついてたいんだ」と、ややじとりとした目のまま先輩を見た。
「そうだよ」
 やけに重みのある肯定。の後に、のしりと体重をかけるように抱きしめられる。
「ちょ……、湿る」
 反射でかわいくないことを言ってしまったけど、先輩はお構いなしだ。先輩のちょっと長めの髪のせいで、私の肩がじっとりと湿ってくる。慌てて先輩の背中をぽんぽんと叩いた。
「先輩、あの、分かった。分かりましたから、一回離れませんか? くっついてていいから。ね?」
「……」
 先輩は渋々顔をあげる。ちょっと眉を寄せて、不満げな表情だ。
「ほら、私髪乾かしてあげますよ。で、乾いたらまた抱きしめていいですから」
「……ほんと?」
 わあ。重症だ。いや、私も人のことは言えないんだけど、先輩がここまでなるのを見るのは久しぶりで、なんというか、自分のことを棚に上げて、おお〜……となってしまった。「ほんとですよ」とこくこく頷いて、先輩からドライヤーを受け取る。それから、湿っていつもよりも暗い色をした髪の毛を、先輩の首にかかっていたタオルで包み込むようにして水分を取った。

 ドライヤーをかけているときは風の音が邪魔して話せないから、その分できる限り優しく、半分頭を撫でるためのようなつもりで髪の毛を乾かしていく。大人しくされるがままになっている先輩は、なんだかいつもより子供っぽい。しかしそれでも、先輩の髪がさらさらとドライヤーの風に揺れるようになる頃には、先輩の機嫌はある程度元に戻っているようだった。
「先輩、どうですか?」
 ドライヤーのスイッチを切って、手櫛を通しながら聞いてみる。
「うん、……ありがとう」
 と、いつものように返事はしたものの、ドライヤーをかけるためにややできていた距離はあっという間に詰め直されてしまった。「晴ちゃん」と、小さな声で名前を呼ばれる。
「はい」
「周助って呼びかた、まだ慣れない?」
「えっと……先輩って呼ぶ方が、好きで」
 唐突な話題にぱちぱちと瞬きをしながら、返事をした。
 だって、名前だと直接的すぎる気がするのだ。先輩、と彼のことを呼ぶときですら、甘えるような響きだったり、愛しさだったりがでろでろに出ていて、自分でいたたまれなくなったりするのに。
 私の考えを全て見透かすような目で、先輩は私のことを見つめた。指が伸びてきて、私の髪の毛をくるくる、さらさらと弄ぶ。
「照れちゃうから?」
「う、……は、はい」
「そう」
 先輩の指先がぴたりと止まって、私の頬にそっと添えられた。
「でも、今日は周助って呼んで。寝るまでだから、いいでしょう」
 こういう時の先輩の瞳は、優しい色をしているはずなのに、どうしてか有無を言わさぬような力がある。私はせめてもの抵抗として目を逸らした。
 先輩が、私に名前で呼ばれるのが好きなのは、さすがに知っている。
 二人きりの時に度々言われてきたし、その度に多少の照れはありつつも応じてきた。普段から名前で呼べないのは、完全に私個人のしょうもない理由のみが原因なので、断れるわけもない。
 ただ、いつものお願いの仕方と少し違う雰囲気に、なんだか気圧されてしまったのだ。
 だから、「なんで……」などと、反論にもならないセリフを呟いてみる。
「僕が嬉しいから、かな」
「そ、うですか。……じゃあ、仕方ないですね」
 仕方ないも何もないのだが。「周助さん」とつぶやくと、またぎゅっと抱きしめられる。さっきよりも腕の力が強い。容赦ない……ように見えて、ぎりぎりのところまで、だ。そう思い至って、私は「あは」と笑いを漏らした。
「どうしたの?」
「同じようなこと、前にもあったなと思って。ほら、……周助さんが、プロになる前に、私に話してくれた時」
「ああ」
 ほんとだね。
 先輩は端的に、でも優しくそう言って、また黙り込む。いつになく静かな先輩の姿を見て、私はなんだか余計なことを喋りたくなってしまって、小さな声で色々なことを言ってみた。
「私、周助さんに抱きしめられる時の力加減が好きです」
「そう」
「でも、もっと強くてもいいのに」
 ふ、と笑いに似た息をついて、先輩は私の耳元に口を寄せた。「いやだよ、優しくさせて」低い声。どうやら、おしゃべりに付き合ってくれるらしい。
「私は優しくなくてもいいのに?」
「うん」
「いじわるですね」
「僕がいじわるなのは……君ももうとっくに知ってると思ってたんだけど」
 頭がわずかに動いて、先輩の髪の毛がさらりと首筋を撫でる。くすぐったさと愛おしさに口角をあげて、「そうですね」と返事をした。
「周助さんも、私がいなくて寂しかったよね」
「見ればわかるでしょう」
「ふふ、うん。周助さんらしくない。だから、すごく嬉しいです」
 ふいに腕が離れて、先輩は私のことをじっと見下ろす。その視線の色になんだか覚えがある気がして、私は小さくみじろぎすると、先輩のことをちらりと見上げた。
「するの?」
 と、目を合わせて聞いてみる。すると先輩は、少しだけぎらぎらとした瞳のまま、つとめて優しげに笑いながら、「しないよ。がっついちゃうから」と私の頭を一度撫でた。
「ふーん」
 なんとなく面白くなくて、先輩のことをじっと見つめると、「何?」とくすくす笑いが降ってくる。でも、笑い方もいつもと違う。どこか夢見心地の、ふわふわした笑いだ。
「余裕だな〜と思って」
「余裕がないから我慢してるんだけどね」
 我慢できる時点で余裕はあるんじゃないか、と少しだけ思ったけれど、言わないでおく。別にしないならしないでいいのだ。ただ、もう少しだけくっついていたい気分なだけで。
 私は「ん」と先輩のおでこに唇をくっつけた。それから、なだらかな曲線を描くまぶたの横とか、お風呂上がりでほんのり赤く染まった頬とか、鼻とか、耳とか、とにかく色んなところにキスを落とす。
「こら。……あんまりかわいいことしないの」
「私を泣かせた責任、取ってくれるんじゃなかったんですか?」
「また泣かせちゃうから」
 ふふ! と、軽く吹き出してしまった。先輩は案の定分かりやすく拗ねた声音で、「言わせておいてその反応はないんじゃない?」と唇を結ぶ。
「ごめんなさい、ふふふ!」
 ニヤニヤが止まらなくなってしまった。
 大事にされているな、と思う。もちろん悪い気はしない。
 今日はこのくらいにしておくか、と調子に乗ったまま考えて、「周助さん」と名前を呼んだ。
「キスだけ、もう一回してほしいです」
 今度は先輩が私にキスする番だった。いいよ。と返事があって、ぬくもりが唇に伝わる。触れ合うだけのはずなのに、どうしてかお互いがじわりと溶けるような心地がする。もっとこうしていたいな、と思ったくらいのタイミングで、そっと唇が離された。
「……もう寝ようか」
 ね、と言い聞かせるような響きで囁かれて、気恥ずかしくなる。「周助さんがそうしたいなら」ともごもご言うと、先輩はすっと立ち上がり、そのまま私を抱きかかえた。……抱きかかえた!?
 ふわりと宙に浮く感覚にぎょっとして、「う!?」と声が漏れる。思わず身をよじりかけたが、先輩の腕が思いのほかしっかりと私の身体を支えているせいでできなかった。横に視線を向ける。それから上を見る。先輩はにっこりと笑って私を見下ろしていた。
 これは……お、お姫様抱っこだ。なんで!?
「あ、あの、ほんとにやだ……!」
「今日の晴ちゃん、こんなに甘えたなのに。いやなの?」
「恥ずかしいです!」
「いいじゃない、恥ずかしくて」
 必死の訴えだったのに、するすると受け流されてしまった。……暖簾に腕押し。昔国語の授業で習ったことわざがぱっと脳裏によぎって、「うああ」と意味もなく呻いた。
 私が抵抗を諦めて先輩の肩に手を回すと、先輩は軽々と私を抱き上げたまま、ちょうど開きっぱなしになっていたドアからリビングを出る。偶然だとは思いつつも、もしかして最初からこのつもりだったのか、などと訝しんで、ご機嫌な横顔をまた見上げてしまった。
 そのまま私の部屋に向かおうとする先輩の足を、「待って……あの、すみません」と制する。歩みを止めた先輩の肩に少し力を入れて、顔を寄せた。
「周助さんの部屋で、一緒に寝てもいいですか」
 もちろん。歌うような声が降ってくる。先輩の優しい声が、ふわっとベールみたいに広がって、私たちを覆ってくれる。私は、熱い頬をごまかすように、そっと目を細めた。

     ◇ ◇ ◇

 暗い部屋の中、わずかな明かりと体温だけを頼りにベッドの中でひそひそ話すと、なんだか世界がこのやわらかいふとんの中だけになったみたいだ。多分、部屋が暗いからだけではなく、もっと魔法じみた何かが理由で、そう感じている。私は枕から頭をずらし、先輩の胸元にもぐりこんで、小さな声で名前を呼んだ。
「周助さん……」
「なあに?」
「明日、出かけられますか」
「うん。どこにでも」
「じゃあ、私、ぬいぐるみ買いに行きたいです」
「ぬいぐるみ? いいね。もしよかったら僕に選ばせてくれる?」
「そのつもりです」
「ありがとう。じゃあ、僕にプレゼントさせてね。ちなみに、どういう子が欲しいの?」
「……周助さんの代わり」
「えっ」
「周助さんがいなくて辛くなった時に、抱きしめる用」
「……!」
「なんなら、周助さんって名前をつけます」
「やめようそれは、二人で別の名前考えよう。ね?」
 妬いちゃうから、それは。さすがに。
 めずらしく本気で焦った様子の先輩に、私はなんだか無性におかしくなって、厚すぎた布団を引き寄せてくすくすと笑った。





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