※本の再録
明日から夏休みなんて、全然実感が湧かない。ここから十分間の休み時間が終わったら、あとはほとんど消化試合みたいなホームルームをして、そうしたらもう本当に夏休みなのだ。
配布された宿題のプリントの量など問題外らしく、教室は明らかに浮き足立っている。私は視線を逸らし、窓の外に目をやった。……全くもっていつも通りの景色が見える。
「満谷さん?」
後ろから声をかけられて、私は緩慢な動きで振り返った。後ろの席の不二くんは、「なんだか見るからに後ろ姿が憂鬱げだなと思って、声かけちゃった。どうしたの?」と上品に微笑む。……そ、そこまで分かりやすかったかな。普通に窓の外を見てただけだと言い張れなくもなさそうだったけれど、不二くんが相手ということもあって、私は「別に大したことじゃないんだけど」とひとまず話す姿勢を見せることにした。
「でも、気になるな」
不二くんは人をどぎまぎさせる天才だ。変なことを言われたわけではないし、普通にちょっと首を傾げて続きを促されただけなのに、心臓が妙な跳ね方をする。私は不二くんの綺麗な笑顔をちらりと見た。
「あの……夏休み、予定全然なくて、めちゃくちゃ暇だから。暇なのがイヤだなーって、それだけ」
ね、大したことじゃなかったでしょ? と言い残し、身体の向きを元に戻す——つもりでいたのに、不二くんは思いっきり会話を続ける気のようだ。「でも、満谷さんって海に行く人たちに誘われてなかったっけ」
「あ〜……断っちゃった。私、暑いのほんとに苦手で……そうすると夏っぽいことも全然できないんだよね」
入っている部活動もゆるい文化部なので、もはや夏休み中の活動は無いに等しい。そうすると必然的に出来上がるのは虚無の夏休み……今のところ、予定が宿題くらいしかないのであった。スカスカのスケジュール帳を見てはげんなりするのが、最近の私の日課と言ってもいい。
「へえ。じゃあ、ボクと映画にでも行かない?」
「え?」
「夏らしいことじゃなくても、夏休みにやったことなら、それが夏休みの思い出になると思うよ」
不二くんはいつもの笑顔を浮かべている。それにどんな返事を返したのか、今となってはほとんど思い出せない。
◇ ◇ ◇
——不二くんは本当に私の夏休みの思い出を全てもらってくれるつもりなのかもしれない。
と、冷房の効いた本屋で雑誌の表紙を眺めながら思った。
同じ映画館で、同じくらいの時間に待ち合わせて、何か一本映画を観て、感想を言い合いながら帰る。私たちは夏休みが始まってから今まで、これをずっと繰り返していた。そうすると、必然映画のチョイスも、お互いの好きそうな映画というよりは、映画館でやっている映画を端から観ていっているような感じになる。海外のアクション映画、子供向けのアニメ映画、派手な演出のミステリ、人気少女漫画の実写化……。私たちはこの夏休み、ありとあらゆるジャンルの映画を観た。気持ちいいまでに王道を突き進んだ映画も、長いわりに中身が薄くて退屈な映画も、はっとするような画面が入れ替わり立ち替わりあらわれる美しい映画も、何を観た時も、隣の席には不二くんが座っていた。
そして、何より私は映画を観た後に不二くんと感想を言い合うのが好きだった。不二くんの言葉選びは同い年とは思えないくらい雰囲気があって、私がそれにどきどきしながら、つたない語彙で返事をすると、不二くんは頷きながらそれを聞いてくれるのだ。それに、つまらない映画とか、ジャンル的に肌に合わない映画を観た時に、二人で苦笑いして「今の……何点だった?」と言い合うのも好きだ。不二くんはいつもあんなに優しいのに、普通に二十点とか十点とか厳しい点数を言い出すから、ちょっと面白い。
そうして話しているうちに、好きだと感じるポイントとか、つまらないと思う映画とか、そういうのがお互いかなり近しいらしいということが分かってきて、それが正直悪い気はしなかった。
きっと部活で忙しくしているであろう不二くんのせっかくの休日は、全部私と映画のために使われてしまっているんじゃないかと不安になるくらい、たくさんの映画を観てきたと思う。……私は全然構わないけど。おこづかいの使うあてができたし。不二くんは一緒にいて疲れないし、優しいし、楽しいし。
——でも、不二くんは何を思ってこんなことをしているのだろう?
考えかけて、首を横に振った。考えないようにしていたのだ。今のこの奇跡みたいな現象が、あっという間に崩れていってしまいそうな気がして。
今日で映画館でやっている映画を見尽くしてしまうことには、先週くらいから気づいていた。この不思議な習慣は、たくさんの暗黙の了解と一緒に続いていた。今日が終われば、この先どうなるか分からない。
映画も見尽くして、夏休みももう終わる。不二くんがあの時言った通り、スケジュール帳は埋まり、夏休みの思い出もたくさんできた。
それで十分なはずだ。なのに、半分目を覚ましかけてしまっているのに、夢の続きが惜しくて必死に布団を被って、差し込む朝日を遮ろうとする時みたいに、未練がましく縋りつきたいような気持ちで、お気に入りの洋服を身に纏った自分を見下ろしてしまう。
「満谷さん」
不二くんはいつも通りの時間に雑誌コーナーに現れた。私が大抵このあたりの棚にいるのを、彼はとっくに知っている。私がいつも通りの場所にいたのだから、もちろん不二くんもいつも通りに私を見つけるに決まっていた。
「あ……不二くん」
できるだけ何でもないように返事をした。別に夏休みが終わったって、すぐ学校で会えるんだから。ちょっと予想外な夏休みになったから、このまま終わらせてしまうには惜しいような気がしてしまっているだけだ。
しかし不二くんは、「じゃあ、行こうか」を口にしなかった。代わりに、「今日は映画はなし。代わりに僕に付き合ってくれる?」とにっこり微笑んで、歩き出す。
聞き慣れた声音で、全然予想していなかったことを言われたものだから、反応が遅れた。え、と声に出しそうになるのを慌てて堪えて、不二くんの後を追う。不二くんは本屋を出ても映画館の方向に行かない。私たちは一言も喋らないまま、夏の日差しを建物の影で遮りながら、熱い地面を時折踏みしめる。小さいこどもたちのはしゃぐ声と、それを呼ぶ母親の声が遠くから聞こえる。不二くんの髪は、歩くたびにさらさらと揺れた。その綺麗な髪が、影の隙間の強い光に透けるのを見ながら、大きな建物をいくつか通りすぎる。
だんだんと人の行き交いが緩やかになってきて、視界が開けたと思ったら、 はじけるように反射した水面の光が目に入ってきた。ここ……海のそばだったんだ。今まで散々この街の映画館に来ていたのに、全然気づかなかった。私は深めに息を吐く。不二くんはゆっくりと歩みを止めた。私も足を動かすのをやめる。私たちがたてる音がなくなった瞬間、周りがはっと静かに思えて、私は視線を海に向けた。真昼だから水面の反射が厳しく、光が風に揺られて動くばかりで、濃い色をした海が何色をしているかまではよく分からない。私は目を不二くんの後ろ姿に戻した。……太陽が私を灼く。急に立ち止まったせいで、一気に汗がにじんでくる。……。
「好きなんだ。君が」
——、————、聞き間違いかと思った。海のにおいのする風にたやすくかき消されてしまいそうな声は、ちょうど風に運ばれて来たように、私の耳にふわりと、そして存在感をもって届く。
不二くんは振り返って私を見た。今の台詞が私に聞こえたのか不安だったのかもしれない。けれど不二くんは、私が目を丸くしていることに気づくと、ぎこちなく微笑んだ。眉を少しだけ寄せて、諦めたように目を伏せかけて、口角の上がり方からは、笑いそうなのか泣きそうなのか分からない。
「だから、これで終わりたくない。夏休みが終わっても、君と……ずっと一緒にいたい」
夏の日差しが眩しい。湖に反射する光も、不二くんの瞳も、全部キラキラ眩しくて……、私は息をのんだ。夏休みの間中、不二くんと観てきたたくさんの映画のどんなシーンより、今この瞬間が一番鮮烈で、そして、絶対に忘れられない。いや、忘れるわけにいかない。
だから、私は泣きそうになりながら小さく頷いて、「私もだよ」と笑った。
◇ ◇ ◇
待ち合わせ場所だったあの本屋の、寒いくらいの冷房と、本の香りを覚えている。映画館のガラス張りのドア越しに漏れ聞こえるセミの声と、館内の薄暗い照明の下、私の少し前を歩く不二くんの後ろ姿を覚えている。それに、不二くんが唯一私を太陽の下に連れ出したあの日の、日差しに肌を焦がされるような感覚を覚えている。
私は今回の夏休みも不二くんの家で映画を観て過ごしてしまったけれど、エアコンのために締め切った窓越しにセミの声を聞くたびに、あの時のことをくっきりと思い出す。
そのことを不二くんに言ってみようか少し迷って、けれど私は結局、「次はこれがいい」と、彼の背中越しに新しいDVDのパッケージを指さした。