「こんばんは、あなた様……奇遇ですね」
「あ、貴音。お疲れ様」

仕事が終わって家への帰り道、貴音と会った。
貴音と私の家は同じ方向なのでお互いの仕事帰りに会うことはそこまで珍しいことでもなく、私たちが恋人同士ということもあって、その度私が貴音の家まで送っていくのが常だった。

「そうだ貴音、ちょっとコンビニ寄っていい?私明日の朝ごはん買ってかなきゃ」
「ええ、構いませんよ」

了承を得て、通り道のコンビニに入る。今日も遅くなってしまったし、明日は昼から真と春香の雑誌撮影に付き添う予定だ。そうなると朝ごはんをしっかり自炊する暇は中々できない。こうやって人の食生活は乱れていくんだな……とひとりごちながら惣菜パンを2、3個と、申し訳程度の野菜ジュースをカゴに放り込んでレジに向かう。

「おまたせ」
「あなた様。……もしよろしければ、今宵は私の家に泊まっていかれませんか」
「えっ」

思わず固まる。貴音がそんなことを言い出したのは初めてだ。もしかしてもしかすると……そういうことだろうか。

「いえ、けして邪な考えではなく……差し出がましいようですが、近頃のあなた様の生活はいささか不健康がすぎるように思えましたので。食事もそうですが、睡眠もろくに取っておられないのではないですか?」

……違った。そして言い分にもぐうの音も出ない。担当アイドルに健康を心配されてしまうとはプロデューサー失格である。

「ありがとう貴音、よろしくお願いします……」
「ふふ、お任せください」

どこかほっとした顔をする貴音に若干……いやかなり申し訳なさを覚えつつも、私たちは貴音の家へと向かった。



実は貴音の家に入るのは今日が初めてだ。そもそもお付き合いを始めるまではどこに住んでいるかすら明確には教えてもらえなかったため、貴音がどんなところに住んでいるのか全くイメージできなかった。一人暮らしなのは知っていたので、まあ普通にマンションに住んでいるんだろうな、とは分かっていたものの、本人の気品や物腰を間近で見ている身からすると、どうにも世間離れした場所に住んでいそう……というイメージを持ってしまうのだ。

「先ほどの口ぶりからすると夕食の方はお済みでしょうから、私、お風呂の支度をして参ります」
「えっ、私やるよ」
「いえ、そういう訳には……そもそも私、今宵はあなた様を存分にりらっくす、させると決めておりますので。どうかここで」

形の良い唇をきゅっと結び、意を決したようにひとつ頷く貴音。ああこれは言っても曲げないやつだ、と経験から知っている私は、諦めて貴音のおもてなしに身をまかせることにした。

ぽちゃん、と落ちた水滴の音が浴室内に反響する。身体を洗い終えた私は肩まで湯船に浸かりながら、ひたすらにぼうっとしていた。お風呂に入る前に貴音からくれぐれも仕事の事など考えるな、と釘を刺されてしまったので、これといって考えることがないのだ。そこでようやく最近はものすごく仕事に熱中していたんだなと気がついて、貴音はもちろん周囲に心配をかけてしまっただろうことに申し訳なくなる。焦りすぎていたのだろうか。仕事の結果がアイドルを通して明確になるプロデューサーという仕事は、とてもやりがいのあるものだと思う。思うが……

(だからといって恋人にあんな顔をさせるのはダメでしょ……)

貴音は気高く、思いやりがあって、優しい女の子だ。だから普段765プロのみんなと仕事をしている時は、比較的年長であることもあって、他のアイドルを支えたりする姿が目立つ。
しかし私は貴音がさみしがりやなのを知っている。時折月を見上げては、途方もない郷愁にかられているであろうことも知っている。……せめて貴音が安心して過ごせるように支えなきゃ、と思っていたのに、このザマだ。完全にやらかした、と言って差し支えないレベルである。
罪滅ぼしになるかどうか分からないけれど、お風呂から上がったらいっぱい構わなきゃな、と思いながら私は湯船から出た。



お風呂から上がると、貴音はリビングでテレビを眺めていた。ついている番組は特に面白みのないニュース番組で、貴音もそこまで真剣に観ているわけではなさそうだった。

「貴音」
「あなた様。体は温まりましたか?」
「うん、貴音のおかげでばっちり。……心配かけて、ごめんね」

貴音に近寄って、そっとハグをする。ふわりとかすかに香るお揃いのシャンプーの香りがどうしようもなく心地いい。
急に抱きついてきた私に貴音は少し驚いたようだった。綺麗な瞳がちょっとだけ見開かれて、それから私の大好きな、なにかが愛しくて愛しくてたまらない、という眼になる。私の大好きな恋人は柔らかな手を私の背中に回して、耳元で囁く。

「私は……実のところ、寂しかったのです。あなた様のことを心配していたのはもちろんですが、あなた様が……中々私をアイドルとしてではなく、恋人として、扱ってくださらないものですから」
「は、反省してます……」
「ふふ。……名前を呼んでもよろしいですか?」
「もちろん」

貴音がふわりと嬉しそうに笑った。彼女は私を名前で呼ぶときにこうして毎回確認をとってくる。別に好きに呼んでいいよ、と初めは言ったのだが、どうやらこれは貴音なりの公私混同を避けるためのスイッチらしい。というのも、これに「いいよ」と返事をすると、貴音は明確に甘えたさんになるからだ。これがとってもかわいいので最近はこのままでいいかなとすら思っている。

「………………晴、さま……」
「そ、そんな恥ずかしそうにしなくても……」

目を伏せて耳まで赤くする貴音に思わず苦笑してしまう。呼び方がぎこちなさすぎる。これはこれで悪くないけど、いつかは当たり前のように呼んでくれる日が来るのだろうか。などと思案を募らせている私をよそに、貴音はすっかり甘えたモードに入っている。2人でソファに座ると、手を絡めてきゅっと握ってきたので、お返しとばかりに頭を撫でる。心地好さそうにふにゃりと顔をゆるめるのがたまらない。
「たかね〜〜……」
ものすごい癒し効果だ。思わず温泉に浸かった人のような声が出た。先ほどまで感じていた仕事に関する焦りはどこかに吹き飛んだようで、やはり持つべきはかわいい年下の恋人……とよくわからないことを考えてしまう。よし、寝る時間になるまで全力で甘やかそう。単純な私はそう心に決めるのであった。

20/9/13 ちょっとだけ修正





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