「……仁王くん、また来たの」
「腹が痛い」
 陽の傾き始めた放課後、保健室。いつも通りふらりと現れた仁王雅治はそう端的に言うと、保健室のソファに座る。ぽすり。やけに気の抜ける音がした。
「分かってると思うけど、何もできないからね、私」
「知っとる。しばらく休めば良くなるナリ」
 私は制服のスカートの裾を何度か引っ張ってみた。仁王はそれを口の端だけ上げて見ている。「じゃあ、休んでれば。ベッド空いてるし」
「そうつれないこと言いなさんな」
 やはりというかなんというか、仁王はソファから動く気はないようだ。我が物顔でテーブルに置かれた缶からチョコレートを一粒つまんだりなんかしている。
 いや、保健室に慣れすぎでしょ。別にその缶のお菓子は来た人にあげるためにあるから問題はないんだけど、そう堂々とされるとなんとなく落ち着かない。私はただの保健委員だから、保健室の先生が戻ってくるまでいかなる怪我人・病人相手でも何もできない決まりなのだが、そもそもの話、強い口調で仁王を追い出すだけの権限も自信もなかった。だから、ああ落ち着かない、そう思うだけ思ってじっとしているしかない。

 この仁王雅治という男が、保健室の先生が会議で留守の時に限って現れるようになってから、半年くらいが過ぎた。とは言っても会議は月に一回か二回だから、仁王と顔を合わせた回数も大したものではない。それに私は仁王とクラスが離れていて、ただでさえ狭い交友関係と立海大附属の誇る圧倒的な生徒数とのせいで噂話もろくに伝わってこないので(こんなに目立つ風貌なのに……)、そもそも仁王がどのくらいの頻度で保健室を利用しているのかすらよく分かっていないのだった。
 例えば、仁王が実は毎日のように保健室を訪れていたとしても、私には知る由もない。私が保健室に召集されるのは、先生が保健室を空けるような用事がある時だけだからだ。しかし私の観測する範囲では、仁王はそのまれなタイミングで、必ず、しかもちょうど先生が私に留守を任せて保健室を後にしてから現れ、そして先生が戻ってくる前に去っていく。なので便宜上、私の頭の中では、「この男はサボりたいがために、わざわざ先生のいない時間を見計らって保健室に来ている」ということになっていた。
 まあ、もちろん確認する勇気はない。私は「お前さんも食べたらどうじゃ」などとのたまう不届きものに「いや、私はいいから……」と力なく拒否の意を示し、できるだけ彼を刺激しないように大人しく座っていた。
「満谷は——」
 ふいに、仁王はそう切り出す。……名前を知っていたのか。
「俺がなんでここに来るのか知っとるか」
「さ」
 サボるため……。言いかけて、こんな校則違反の塊のような男を怒らせたら何をされるか分からないと思い直した。「さ……さあ……」目を逸らして、必死に絆創膏の入ったケースの銀色の蓋を見つめる。真剣すぎたせいで仁王はわざわざケースの側面を覗き込み、何もないことを確認した後に、「そうか」と言った。正確に文字にするなら、ほか。だったかもしれない。とにかく仁王はそれなりに私の返答に納得した様子で相槌をうち、かわいらしいキャラクターの描かれた缶を開けて、もう一粒チョコレートを取り出す。
「さすがの俺もここまで来るとネタが尽きてくるってもんじゃ」
「な、なにが」
「何だと思う?」
 ここで私に振ってこないでほしい。仁王はにんまりと猫のような笑みを浮かべている。猫背なのは、ソファの前に置かれた低いテーブルのせいなのか、元々なのか、それとも本当に腹痛があるせいなのか分からない。だが、その様子がどうにも恐ろしくは感じられなかったので、私は意を決して言ってみた。これで不機嫌になったら、じゃあもう来るんじゃねえ! とでもなんでも言ってやればいいんだ、仮に殴られてもここは保健室な訳だし……と投げやりな思考を後押しとしておまけにつける。
「仮病……」
 私がそう言うなり、仁王は大きく肩を揺らした。「うわっ」思わず声を漏らすと、仁王は脱色されすぎてもはや白色をしたツンツンの髪を揺らして、「むせた」と咳き込む。これはさすがに仮病じゃなさそうだ。「えっ、あの、え? 大丈夫?」
 さすがに心配になって、テーブルの向かいに回って、仁王の背中をさすってやる。心なしか、骨張った背中がびくりと震えた。それから、何事もなかったかのようにむくりと起き上がる。
「……まあ、それもある」
「えっ待って、今のも仮病?」
「むせるのは病気に入るんかのう」
 どっちなんだ。仮に演技だとしたら相当迫真の演技だ。演技っていうか、もはや詐欺の部類だ。とにかく治ったならさっさと離れたい、そう思って上履きを大きく一歩仁王とは反対方向に踏み出すと、片方の手がぱしりと掴まれた。
「ぎゃあ!」
 や、やっぱり怒らせた! 反射的にじたばた暴れかけて、ここでそんなことをしたらテーブルごとめちゃくちゃになると理性が制する。私はおそるおそる「ちょっと、あの、離してほしいんだけど」と申し出る。
「嫌じゃ。お前さん、離したら逃げるじゃろ」
「うん、まあ、逃げるというか、向かいに戻るよ、そりゃあ……」
「……」
 仁王はこちらを睨みつける。ひぇ、と声を漏らしかけて、気づいた。仁王の瞳に縋るような色がある。
 え? 拗ねている……それとも、もしかして甘えている? な、なんで?
 ……私はすとんとソファに座った。仁王の腕はひょろりと長く、精一杯離れればまあ、ぎりぎりなんとかなりそうだ。綿のたくさん入ったぽふぽふのソファの端に、なぜかよく知らない男子生徒に手を掴まれたまま座り込むことになった私は、できるだけ早くこの微妙な空気から——というか、拘束から脱しようと、半ば裏返りかけた声をあげた。
「け、結局なんのネタが尽きてきたの?」
 仁王はぐるりと首を回して、その三白眼で私を見た。何秒かの沈黙。その後、何を考えているのかよく分からない真顔のまま、薄い唇をぱかりと開き、「仮病」と言った。なんだ、やっぱりそうだったんじゃない——そうへらりと笑おうと思った瞬間、仁王はセリフを続けた。
「というか、お前さんに会いに来る口実」
「は」
「それと、俺が満谷のこと好きだって気づかせる作戦」
「え、」
「ぜーんぶネタ切れじゃ。降参降参」
「あ……? え……?」
 ぱっと両手を上げてわざとらしく肩をすくめてみせる仁王は、それと同時に私の手首を解放したが、今度は私自身の問題で手が動かせなくなっていた。細いわりにごつごつした指の感触と、ぬるい手のひらのぬくもりが消えない。
「と……、とりあえず仮病はやめよう。私なら別に……何も保健室じゃないと会えないわけじゃないんだから……」
 私は仁王のしているネクタイの柄を視線でくまなくなぞりながら言った。驚きと恥ずかしさに唇がうまく動かなくて、小さい声でぼそぼそと言うハメになった。しかし仁王は一言一句綺麗に聞き取ったらしく、「じゃあ、今度俺とデートしてくれるか」と目だけを細めて笑った。





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