散歩なんて普段したことないから、勝手がわからなかった。
 夏の終わりのはずなのに、アスファルトはまだまだ日差しで熱く、靴底に温度が伝わってくる。
 おぼつかない足取りで近所を歩き続けてみて、何か目的があった方がうまく歩けたのではないか、と気がついたのはしばらくしてからだった。しかし気がついたからといって何も思い浮かばなかったので、行きたい場所も、それらしい散歩道も見つけられないで、ただとりあえず歩いていたら、駅の裏の通りをまっすぐ行ったところに、大きな園芸店を見つけた。
 近寄ると、建物に入る前から、店前にみっしりとたくさんの種類の草花が並んでいるのが目に入る。その隣には、植木鉢から伸びた背の高い木みたいな植物。視線を移していくと、黒いポットに植わった苗がたくさん並んでいるのも見えた。普段こんな量の植物を目にすることなんてなかなかないから、急に違う世界に来たみたいだ。
 ウッドデッキを上がり、ファンタジー映画に出てきそうな風貌の建物に近づく。しっかり設置されている自動ドアが、むしろこの空間の中だと異質に見えた。すっとガラスが両脇に開くと、中からはっきり分かるくらいの植物の香りが流れ出てくる。私は額に伝う汗を拭って、中に入った。
 店の中は、植物が多いせいかそもそもの照明の問題か、少し薄暗い。ぎょっとするほど大きい葉っぱを持つ植物が、鉢に収まって所狭しと並んでいる。そこから視線を上にやると、上から鉢が吊られている。入口から続いている石畳の階段にも、端に植物が置いてある。かと思ったら、色鮮やかな花々が急に眼前に現れ出た。
 ——こんなところ、あったんだ。
 植物の知識が皆無に等しい私には、きょろきょろと植物を見て回ることしかできないけれど、それがすごく新鮮で楽しい。園芸店なんて全然縁がない場所だった私にとっては、この園芸店はもはや別の国みたいに思えた。
 ……最近は色々大変すぎたから、むしゃくしゃして散歩なんて柄でもないことをしてみたけれど、そうでもしなければ、この園芸店には出会えなかっただろう。そう思えば、それなりに心も落ち着く気がする。それに、どう小さく見積もっても学校の体育館くらいの広さがある店内——実は外にも、これと同じくらいの広さの敷地があるようなのだけど——は、見応えもあって散歩の目的地にぴったりだ。気負わずに来れる距離だし、これで終わらずに時々来てみるのもいいかもしれない。
 植木鉢にいっぱいの植物から小さな花まで、これでもかというほどの観葉植物の群れ、植木鉢に土、スコップなどなど、物珍しさから店内を一通り冷やかして回り終える頃には、私は完全にここの空気に感化されてしまっていた。荒れていた気持ちが嘘のようにふわふわと弾み、私って植物とか育てられるのかな、なんて算段をしはじめる始末である。
 そうして元の場所に戻ってくると、入り口の脇、少し奥まったスペースに小さなカフェがあるのが分かった。様子を伺うと、最近あまり見かけなくなった、大きなソフトクリームの置物が入口に鎮座している。つい懐かしくなって、近づいてメニューを見てみることにした。どうやらカフェというよりは休憩所として設けられているようで、メニューにも小袋のお菓子や簡単な飲み物がある程度だ。テーブルや椅子も、フードコートなどにあるような量産品を使っているのだが、凝っていない雰囲気がむしろ好ましく思えた。
 カフェの中は、さっき見て回った売り場が体育館だとすれば、教室ひとつ分くらいの広さがある。入って左にレジが備え付けられたカウンターがあり、そこで直接注文をするスタイルらしい。席はカウンター席が数席と、テーブル席がいくつか。平日昼間の時間帯だからか、今は店員さんが一人、やや暇そうにカウンターの中で何か作業をしている以外は誰もいない。とはいえ、これが休日だったらそれなりに人が入るに違いない、と思った。現に私は、まんまとソフトクリームが食べたくなってしまっていたから。
 カフェに入り、レジのカウンター部分に近づく。店員さんに声をかけようとして、店員さんが思っていたより若い男の人だったことにやや驚いた。いや、別にだからどうというわけではないけど。
 そのまま店員さんに「すみません」と声をかける。ソフトクリームください、と続けようとして……、私と目を合わせてきた店員さんが、どう考えてもよく見知った顔であることに気がついた。
 ふ、不二……?
 え? 本人? いやいや、何年振り? そっくりさんじゃない? ……でも、こんな雰囲気の人、何人もいてたまるかって話だし、不二って確かサボテン好きだったし、家もここから近いし……。
「……。……。……ソフトクリームください」
 たっぷりの間が、メニューに迷っているだけだと思われれば良いのだが。不二(なのかなあ……)は気づいているのかいないのか、いや、もし本当に不二だったら、不二に限って気づかないなんてことはありえないんじゃないかと思うのだが、それを踏まえてもなおまだ判断のつかない表情だ。
 店員さんはそうして「百五十円です」と微笑んで——
 ——それから、その笑顔のまま私を二度見した。
「ふっ……!」
 思わず吹き出してしまった私に、不二は目を見開いた後、眉を軽く寄せる。それから軽く息をついて、久しぶり、も、晴だよね、もなしに、「そんなに笑わなくても……」とぼやくように言った。その声が、記憶とそう変わらない響きのままだったから、胸がゆるく締め付けられるように痛んだ。

 確か五年ぶりになるのか。流れでカウンター席に座ってしまった私は、とりあえずソフトクリームの先を舐める。想像通りちょっと安っぽい味がして、完璧だ、とにんまり微笑んだ。そのまま、時の流れの割にあまり変化が見られない不二のことを観察してみることにした。
 中学生の時は距離が近すぎたから、特に疑問に思うこともなくすんなり受け入れてしまっていたが、こうしてまじまじと見るとなかなか整った顔立ちの男である。顔立ちに加え、この髪型や物腰なのだから、中学時代に女子から人気だったのも納得だ。記憶より大人びた不二は、それでも五年前とそう変わらない、ちょっと不思議な空気感をまとっている。
 カウンターの中の不二が「何?」と苦笑しながら言うので、「いや、変わらないなと思って……」とソフトクリーム片手に弁明した。
「それって、褒められてるのかな」
「どうだろう。けなしてはいないけど」
 ソフトクリームが思っていたより早く溶けていったので、慌てて甘い滴を口で受け止める。室内はほどほどに冷房が効いているが、入口が近い分時々熱気も入ってくる。それをカバーするためなのか、部屋の端に扇風機が回っているのだ。
 中途半端なところで会話が中断された不二が、今度は私をじっと見ていた。
「ここ、いいところだね」
 わざと続きを言わずに話題を変える。「私、植物とか育ててるわけじゃないから、よく分からないけど……。でも、見てるだけで楽しかったから、すごいなって思った」
 そこで言葉を切って、またソフトクリームを一口食べる。結構食べすすめたから、あとはコーンが受け止めてくれるだろう。扇風機の風を受けながら顔を上げると、目の前の不二の視線に、今度は別の色が混じっている。深めに息を吸って、しかし何かを話し始めるわけでもなく、口を開かない。明らかに落ち着かない様子で、しかもそれを隠そうとしているのが分かってしまって、なんだかいたたまれない気持ちになった。
「あの。……不二……?」
 話しかけられた不二は微かに目を見張って、それから、「うん」と言った。
「ごめんね、じろじろ見ちゃって」
「いや、それは私もなんだけど」
 なんというか、不二は、中学の時に一瞬付き合っていた女と再会した程度でこんなにあからさまに動揺するタイプではないと思うのだが。
 「なんか……」なんかしちゃった? も、なんかあった? も、今の私の立場には微妙にそぐわない気がして、それに、正直そこまで深掘りする気力もなかったので、言葉に詰まる。
「いや、まあいいか。ごめん、邪魔して」
 会話を切り上げた私がコーンに巻いてあった紙を外し始めると、不二はようやく「優しいね」と小さく笑った。やさしいね、のあとに、何かを続けようとして口を開いた気配があった。
「うん? うん。ありがとう?」
 若干の不自然さと唐突さにはてなマークをつけつつ、溶けたアイスで湿りかけたコーンを食べる。こぼれそうになる中身を受け止めるために、急ぎ気味にさくさくと齧り付いた。そうすると、コーンはわずかに口の中に張り付くような感触を残しながら、あっというまになくなってしまった。私は手遊び半分にコーンの紙を何回か折りたたんでみて、それから立ち上がる。
「ごちそうさまでした。ゴミ箱ってどこにある?」
「いいよ、捨てておくから」
 不二はカウンター越しに手を差し出した。固辞するのもわざとらしく思えたので、素直に「そう? ありがとう」と、小さく畳んだ紙をちょこんと不二の手のひらに乗せた。不二のマメのある手が、それを握り込む。その手のひらの大きさを、記憶のものと照らし合わせそうになる。
 カウンターの下にゴミ箱があるのだろう、少し屈んで足元にそのゴミを捨て、それから顔をあげた不二は、「ねえ」と私に視線を向けた。
「何?」
「また来てくれる?」
「え? ……まあ、じゃあ、来るかも」
 わざわざそんなことを言うなんて、なかなかだな。困惑しなかったといえば嘘になるが、この場所が気に入ったというのも本当なので、とりあえず曖昧に頷いておく。
 不二は見慣れた笑みを浮かべて、それ以上は何も言わなかったので、私も何も言わずに済んだ。

   ◇ ◇ ◇

 ——結果だけ見れば、私は見事にあの園芸店の常連になってしまった。しかも、わざわざ同じ曜日の同じ時間に足を運んでしまっている。大学の全休の日がこの曜日だから必然ではあるのだが……。不二にどう思われているかが気がかりだった。
 通っている理由としては単純で、単純にこの園芸店が気に入ったのだ。散歩の良い目的地にもなるし、外と隔離された雰囲気のおかげでリフレッシュできる。このタイミングで行けば他に人もいないし店員も不二だから、若干の気まずさこそ漂うものの、少なくとも傷つくことはなかった。
 相手が不二だからって、わざわざ昔の話をすることもないし、不二も、私のことをなんとも思っていないからあんなことを言ったのだろうし。実際、最初がちょっと挙動不審だっただけで、それからの不二は単純に、暇つぶしの相手を見つけて嬉しいだけみたいだ。
 私がカフェスペースに乗り込んで、カウンターの中にいた不二に「ソフトクリームひとつ」と言うと、不二はおかしそうに口角を上げた。
「ソフトクリーム、好きなの?」
「いや……普通だけど」
 「そうなんだ」とだけ返して、不二は綺麗に巻かれたソフトクリームを差し出した。私はありがと、と言って、いつものようにカウンターの端から二席目に腰掛ける。そして、ソフトクリームを一口食べた。唇の上を甘くて冷たいクリームが滑っていく。唇を舐めたくなる気持ちを、不二に見られていたので堪えてみた。
 この小さなカフェでアルバイトをしている不二は、私が同じ曜日の同じ時間にくる限り、同じようにこの飲食スペースのレジにいる。そして、特にこの一番空いている時間帯は、それなりに暇を持て余しているらしい。そんなわけで、不二は私がものを食べたり飲んだり、はたまた睡魔に襲われたり課題に使う本を読んでみたりしているのをぼーっと観察して、時々私とうわべだけの世間話をしてみながら、時間を潰しているのだった。観察されるのはともかく、世間話については悪くない。このところの私には、そういうなんでもない話をしてくれる相手がいなかったから。気持ちを和らげるのに、この園芸店と、ソフトクリームと、不二が一役買っているのは事実だった。
 ……不二はなんでここでバイトしてるんだろう。と、いらぬ思考を巡らせてみる。中学の頃の不二は、 サボテンが好きだった。そして、きっと今も好きなのだろう。だから多分、ここのことは昔から知っていて、近所の素敵な園芸店でアルバイトの募集があったから、興味本位で……。という感じだろうか。そう考えてみると、この場所はいかにも不二が好きそうな雰囲気を纏っているのだった。
 不二は昔から、どこか浮世離れした、不思議な感じのある人だった。だから正確に言えば、「好きそう」とかではなく、園芸店に不二が似ている。あるいは、不二にこの園芸店が似ている。
 少しだけ、不二があの時育てていたサボテンのことを思い出した。今でも不二は、サボテンに名前をつけて、会話して、散歩させているのだろうか。正直、普通にやっていそうで聞きにくいな。
 ……ここにいると次々と変なことを考えてしまって嫌だ。こんなことになるならあの時、ここにくるべきではなかったのかもしれない。
この場所を、単なる休憩場所ではなく、現実逃避じみた欲のために使っている自覚はあった。不二と話して、優しくしてもらうたびに、本当は不二に話を聞いてもらえたらどんなに楽になるか、と考えている自分がいるのも確かだった。それでも、そう思うたびに、私は不二にそんなことをしてもらうべきではないと、心の底に寒々としたもやがかかるのだ。
 五年前の私たちが破局を迎えたのは、私のせいだから。
 申し訳ないのだ。不二みたいないい人を、支えてあげられなかったのが。不二は、変なところもいじわるなところもいっぱいあるけれど、本質は他人のことをこれ以上ないくらい思いやってくれる優しい人なので、……それがわかっていたのに、私は勝手に傷ついて、ひどいことを言ってしまった。それなのに、今はまた勝手に頼りたいと思っている自分のことが、醜く思えて仕方がない。
 時が経つと、客観的にあの時のことを振り返ることができるようになる。穏やかな思い出も思い出として取り出せるようになる。そうすると、罪の意識は薄れるどころか、私のせいで不二という人間を貶めてしまったような、重い後悔の念が強まるばかりなのだった。

「そういえば、何か育ててるの?」
 不二はいつものように、カウンターからこっちを見て言った。いつの間にか部屋の隅に置いてあった扇風機はなくなり、不二も白いシャツの袖を捲らなくなった。白シャツの上に付けている紺色のエプロンはどうやら規定のものらしいが、このまま冬になっても白シャツ一枚なのだろうか、とちょっと疑問に思っている。
 私が「いや、特に何も……」と返すと、不二は中学の時からほとんど変わらない長さに切り揃えている髪をわずかに揺らした。首を傾げたのかもしれない。
「毎回ここにしかお金を払わないのも申し訳ないから、何か初心者向けのやつを買うべきなのかなとは思ってるけど……お世話しきれるかって考えると、なかなか踏ん切りがつかなくて」
「そうなんだ。特に無理する必要はないと思うけど、サボテンのことだったら相談に乗れるから、いつでも聞いてね」
 買うにしても多分、サボテンじゃないやつにするような気がするけど……。
 そう思いつつも、私は「分かった」と頷くだけ頷いておく。次のセリフを、「だからもう来なくていい?」か、「サボテン以外でオススメない?」かで迷っているうちに、不二は「また来てね」と笑った。
 小さな休憩スペースから出て、店内を再度歩いてみる。この園芸店の中を歩いていると、なんだか自分が全く別の自分になったような気持ちになるから好きだ。別の私は、たとえば朝起きたら植物に水をやって、コーヒーを淹れて朝食を食べ、それから本を読みながら日に当たる……そうして、今私がしているのよりもっと軽やかに家を出て、散歩がてらこの園芸店を訪れるのだ。

  ◇ ◇ ◇

 君と五年ぶりにまともに顔を合わせるきっかけは、成人式でも同窓会でも結婚式でもなく、ほんとうにただの偶然だった。喜んでいいのか悪いのか、とにかく脳裏によみがえるさまざまな記憶をやりすごしながら、僕は君の様子をまじまじと見た。ただ、気になったのだ。君はどんな五年間を送ったのか。そうして見つめたら、なんだか君がひどく弱っているのが分かってしまって、僕は狼狽した。しかも、弱っていることに、君自身が半分無自覚のようだったから、なおさらどうすればいいか分からなかった。
 なぜって、僕はもう、君の何でもないのだから。あるいは、「何でもない」よりさらに、君から遠いところに来てしまったのだから。君に寄り添ってあげられないことに気づいて、僕はただ、君を見守り続けることしかできなくなってしまった。
 君は見た目によらず寂しがりやだから、律儀に僕のシフトに合わせてこの小さく質素なカフェスペースに通ってくるようになったあたりで、外では一人で全部を抱え込んでしまっているだろうことが察せられた。辛いことを相談できる相手もきっといないし、僕ではそれになれないのだと。
 だから……。とりあえず、話をしようと思った。君と。ぎこちなく相槌を打ち続けることしかできないけれど、それでもいい。
 早く元気になってほしかった。そうして、僕のところからいなくなってほしかったのかもしれない。弱った君を僕が見ていていいのか、ずっと不安だったのだ。だって僕は、君のことを「君」とすら呼べない。
 それなのに、君がいつも通りを装って浮かべる笑顔が、全然いつも通りなんかじゃないことに、気付けてしまう距離だったから。君のそれに気付けてしまうのが、僕だけなのかもしれないと分かってしまったから。
 勘違いしそうになる。君に笑っていてほしいと思うその先に、身勝手な願いまで持ちそうになる。それでもいいと、思いそうになる。
 
   ◇ ◇ ◇
 
 ——夢を見た。
 夢の中の私は中学三年生で、思い出通りの制服を着て、思い出通りの通学路を不二と歩いていた。別れ話をするつもりだったのだ。「不二、部活楽しい?」問いかけると、——うん、と、戸惑いがちに隣の恋人が頷く。「私といるのは?」——もちろん楽しいよ。「私はね、不二、ぜんぜん楽しくないよ」不二が部活をがんばってるのも、テニスを一年とか二年の時よりずっと面白く感じてるのも、おもしろい後輩が入ってきたのも、中学最後だから気合が入ってるのも、分かってる。でも、私は、不二がテニスしてるところ見るの、いやになっちゃった。ばかみたいだから……。不二ならきっと、テニスと私、どっちが大事とかそんないやなこと考えずに、私のこともテニスのことも大事だって思ってくれてるって、わかってるのに。わかってるのに、私、どうしてもそう思えないよ。……なかなか会えなくてごめんねって、不二は言ってくれるけど、会えない時より、会って一緒に歩いてる時の方が寂しいの。今の不二が楽しそうなのを見てると私まで嬉しくて、応援したいって思ってるけど、なんでかな、どうしてもできなくて、できない自分がいやで、だから、……。もう、会いたくない。不二は、途中で立ち止まった私が話すのを、隣で聞いていた。ごめんね、大事な時期なのに。テニス、がんばって。さよなら。返事を聞きたくなくて、私が駆け出そうとするのを、不二は手を掴んで止めた。どうしても目が見れなかった。どんな顔をしているんだろう。どんな顔をしていても、泣いてしまうと思った。いつもグリップを握っている、不二のそのマメだらけの手は、本当はもっとずっと強い力で私の手を握れたはずなのに、私がちょっと身をよじるだけで、ごつごつした指は簡単に解けてしまった。だから、私も走った。不二が、多分、私のことを呼び止めようとして、半歩だけ私に向かって足を踏み出した気配があった。それが、私が最後に感じた不二の感触だった。
 ——……。
 ——幾度となく思い返してきた記憶ではあったけど、夢にまで見るとは思わなかった。
 心臓がばくばくと嫌な鼓動をするのを感じながら、ベッドから身を起こして深く息をつく。
 夢の内容より、もう目を覚ましてしまったのか、という思いが、私の胸をつかえさせていた。
 ゆっくりとベッドから出る。
 部屋のカーテンを開ける。
 のろのろと大学に行く支度をして、駅まで向かって、それから、——どうしても改札を通れなくて、気がついたら、別の道を歩いていた。

 今日もあのカウンターに不二がいることは知っていた。シフトを知っていたからだ。
 けれど、自分が園芸店に逃避しに来たのか、それとも不二に会いに来たのかは、分からないままだった。ただ、園芸店のドアをくぐって、植木鉢の群れを抜け、あの小さなカフェを目にした時、いつもと同じように不二がいるのを見た時、胸にふわりと漂うような何かがよぎるのを感じた。
 いつも通りソフトクリームを注文するか少し迷った後、どうしても気分が乗らなくて、私はオレンジジュースを注文することにした。
 不二からグラスに入ったオレンジジュースを受け取って、カウンターではなくテーブル席に座ってみる。ストローからジュースを一口飲んで、何も考えないでいようと思ったのに、結局どうしても何もしないことに耐えきれず、バッグからパソコンを取り出した。たしか、期限が近いレポートがあったはずだ。ここに課題のことなんて持ち込みたくなかったけれど、一時の気の迷いで大学をサボってしまった罪悪感が勝ってしまったのだ。
 パソコンを開いて、むりやり文量を稼いでいく。ちょっと書いては字数を確認し、またちょっと書いて字数を確認し……。
 ……気乗りしない。というか、書けない。頭がくらくらしてきた。げんなりして画面から視線を逸らし、明後日の方向を向いて、色鮮やかな植物を眺めていると、不二がレジから出て、空いているテーブルに座ったのが見えた。そのまま小さなカードのようなものを取り出して、それに何かを書いているようだ。
 ふいに、不二がこちらを振り向いた。首を傾げて、微笑んでくる。……。私は席を立った。急に立ち上がったせいか若干の立ちくらみがする。不二に気づかれないように慌てて身体に力を入れて、少し離れたテーブルに近寄った。
 立ったまま、「何書いてるの?」と、向かいから不二の手元を覗き込むようにして聞く。
「ポップだよ。僕は園芸店の方の店員じゃないんだけど、サボテンが好きだって話を面接の時にしたら、時々任されるようになって……。普段はレジで立って書いてるんだ。今は人がいないから、ズルしてる」
「じゃあ、最初行った時もこれ書いてたの?」
「うん」
「へえ……」
 私は逆さ側から不二の書いたポップを読んだ。丁寧な字で、フォーマットにならった宣伝文句が書かれている。
 『かわいらしい見た目で手間もかからず、初心者におすすめの品種です』
 ……不二がこの文を書いたのか、と思うと、ふふっと笑いが漏れてしまった。
「なに?」
「いや、なんか、知り合いのバイト先に行った時ってちょっと面白いじゃん。その感じが今になって来たっていうか……」
 弁明に納得したらしく、不二は「分からなくもないけど、今?」と苦笑した。
 その笑顔を見ながら、不二って確かに、こんな感じの人だったよな。と、少しだけ思った。
 あの時の不二は……テニスに一生懸命だったから。そしておそらく、テニスのおかげで、すごくたくさんのことを知っていっている最中だったのだろうから。そこに恋人なんかいても、邪魔になるだけだったのだ。キャパオーバーの不二と、それに気付けずに勝手に傷ついていた私。二人とも幼かったけれど、どちらかといえば、私が悪かった。
 「最初はびっくりしてそれどころじゃなかったし、その後は不二が面白い顔してたから……」
 今朝見た夢のせいか、また妙なところに思考が行ってしまった。働かない頭で適当に返事をすると、不二は気にした様子もなく、「そこまでだったかな」と不本意そうに視線をそらす。
「にしたって、その後もちょっと話したのに」
「あ……、確かに。なんか、あの時って怒り狂ってたから、それどころじゃなかったのかも……」
 冗談めかして言ったから、不二ならいくらだって無難な返しができたはずなのに、不二はちらりと視線を上げて、なんともいえない表情で私を見た。少しの間の後に、「なるほどね」と、表情にふさわしくなんともいえない返事が返ってくる。
「……? どうしたの?」
「いや、なんでもないよ。ちょっとぼーっとしてた」
 嘘だな。さすがに分かる。とはいえ深くつっこむつもりもなかったので、「そう」とだけ言って、話を終わりにした。
 不二が私のことを心配しているらしいことには、薄々気づいていた。
 それを突っぱねられないのは、不二に心配されるのが嬉しいからだ。歪な形でしか受け取れないけれど、それでもその優しさを享受していたいと思っているから、ここに来ることをやめられない。
 「ごめんね、邪魔して。私も作業するつもりだったから、戻る」と、不二の元を後にしようとすると、不二に「待って」と引き止められた。目を丸くする私に、不二は少し躊躇ってから、「ちゃんと寝れてる?」と、つぶやくように言った。
 不意をつかれたようにしばらく動けなくて、少しの間の後に、「ねれてない……かも」とぼそぼそと返す。決まりが悪くて、でもやっぱり嬉しくて、嬉しいことにまた申し訳なくなって、目が合わせられない。
「やっぱり。今日だけじゃないよね? 忙しいの?」
「忙しい……、のもあるし……」
 あるし、と言ったら他の何かが続くはずなのに、私自身がそれが何なのか分からなかった。
「なんか、疲れてるかもしれない……?」
 不二は眉を下げて、「僕にはすごく疲れてるように見えるよ」と、言い聞かせるように言った。
「そうかも」
 まさか、不二が一線を超えて指摘してくるほどだったとは。私が「……そんなに?」と言うと、不二は「正直に言うと、最初ここに来てくれた時から、調子良くないんじゃないかなって思ってたんだ」と、私を見つめながら言う。「ただ、……僕が言っても困らせるだけかと思って」
「そんなことないのに」
 「に」のあたりは、うまく発音できなかった。ごめん、と言いつつ目を強く瞑る。
「ちょっとだけ寝たら?」
「……、そうしようかな……。ごめん」
「ううん。しばらくしたら起こすよ」
 不二が、私の席からそっとオレンジジュースを避けた。私はのろい動作でパソコンを自分のバッグにしまって、机に顔を伏せる。腕と頭が壁のようになって、目を開けても薄闇の視界になる。
 瞳を閉じると、すぐに眠気がやってきた。同時に、中学の時、よくこうして机につっぷして寝ていたのを思い出す。三年は不二とクラスが離れて、休み時間が暇だったから、十分かそこらの休みを睡眠にあてることも多かった。そもそも中学の時から、あんまり寝つきがよくなかったから。それを知った不二が、私が眠れない夜を見計らってメッセージをやりとりしてくれたり、誕生日にラベンダーのアロマオイルをプレゼントしてくれたり、色々あったんだった。最後の後悔に塗りつぶされて、浮き上がってこなかった過去のやわらかい感情が、眠りかけの頭に夢みたいに浮かんで消える。
 ……だから、今回も気づかれちゃったのかな。不二って……。不二ってやっぱり、優しいよ。私にまでこんなに優しくしてくれるんだもん。すごく嬉しい。嬉しかった……。
 気配だけで感じる、隣に座る不二の温度が、やっぱり私にはいちばんちょうどいいように思えてしかたなかった。
 
 ——気がついたら、それなりに長い間、突っ伏したまま眠ってしまっていたようだった。
 顔をあげると、外気に晒された目尻のあたりがひやりと冷たい。見ると、枕がわりにしていた腕の、顔をつけていた袖のあたりに染みができていた。
「おはよう」
「……どのくらい寝てた?」
「二十分くらいかな。もう十分経ったら起こそうと思ってたところ」
「へんな寝言とか言ってなかったよね?」
「ふふ、うん、大丈夫だよ。……ねえ、ソフトクリーム、食べる? おごるよ」
「……。ありがと」
 私がそう言うと、不二は頷いてカウンターへと向かった。私もゆっくりと立ち上がって、いつもの席に向かう。短い時間でも眠ったことで、頭は朝よりも冴えていた。
 不二はいつもそうするように、後ろにある機械で器用にソフトクリームを巻いて、私に手渡した。それから、カウンター席の、私から席をひとつあけたところに座る。
 私はソフトクリームを少しだけ舐めた。秋のはじめ、やや季節外れになりかけの冷たい甘さは、それでもいつもの味で私の心を落ち着ける。
「あのさ」
 その声に、目線だけを上に向けて、不二のことを見る。不二は、少しの間ためらうように息を吸った。
「もし嫌だったら、……すぐ止めてほしいんだけど。君が寝てる間、考えてたこと、話してもいいかな」
 私は無言のまま、目を伏せてソフトクリームの先をまた少し食べた。不二はそれを肯定と受け取って、口を開く。
「君が……本調子じゃないって、会った時すぐ分かったよ。本当は、なんでそんなに苦しそうなのか話を聞いて、君が辛くなくなるまで見守っていたかった。だけど、君を傷つけた僕がそんなことをするわけにいかないと思って、できなかったんだ。そうしたら、君は結局こうやって、ひとりで頑張って全部抱え込もうとするから、見ていられなかった」
 唇を舐めると、甘いバニラの香りがする。不二の瞳はわずかに揺れて、本当は私のことをしっかり見ようと思っているだろうに、結局苦しげに目を伏せてしまった。
「僕はやっぱり、君のことを大切にしたいみたいなんだ。だから、君は君のことを大切にして。そうじゃなかったら、君のことを大切にしてくれる誰かにそばにいてもらってほしい。僕に言われるのも嫌かもしれないけど……」
 ……不二って、私のことを傷つけたって思ってるんだ。逆なのに……。
 私がアイスを口の中で溶かしながらぼんやりとそう思っていると、不二はため息をついた。
「そういうところがあるから、心配なんだよ。あのね、確かに最後は君が僕を振ったかもしれないけど、君がそうしなきゃいけなかったのは僕のせいなんだから——」
「なんで分かったの?」と、クリームを飲み込んだ。主語が抜けたな、と気づいたけれど、訂正しなくてもいいかと思ってそのままにすると、不二はちょっと呆れたような顔をした。
「顔に出てたよ」
 普通の人は、表情からそんなに細かいところまで読み取れないと思うんだけど、なんでこっちが悪いみたいな感じになってるんだろう。次の一口分のソフトクリームを齧ろうと、コーンを持った手を上げかけて、その前にふと思いついた。
「もう……不二じゃダメ?」
 不二は目を見張った。その反応で自分が何を言ったのかに気づいて、私は「いや、ごめん、変なこと言ってるかも、そうじゃなくて、えっと」と言葉につっかえ続けるはめになった。
「それって、どういうこと?」
 不二が私を落ち着かせようとしているのが分かる。学校の先生とかが小さい子に向けてする声音だ。もうなんか、穴があったら入りたい。
「つまり……。不二は私のことを大切にしたいと思ってて、でもできないって言ってるけど、それって話を聞く感じ、私が嫌がることをしたくないからだよね。言い方が合ってるか分からないけど、私は、不二に大切にされるの、別に嫌じゃないし……、」
 ここで不二と話すの、好きだったし……。
 視線の先に迷って、コーンに巻いてある紙の模様を目で追いながら呟く。不二は唇をわずかに開いたり閉じたりして、結局は一言だけ言った。
「——いいの?」
 その声が思っていたよりずっと余裕がなさそうだったから、隣の不二をソフトクリームごしに覗き見する。不二の顔はうっすらこわばって、赤くなって、不安げだった。不安になるってことは、期待しているってこと、だろうか。……期待って、何に?
「不二って、私の考えてることとか全部わかっちゃうじゃん。不二がいいなら、不二に私のこと見てもらってた方が安心な気がする、けど。……っていうか、不二は……私が不二のこと嫌じゃなかったら、どうしたいの」
 不二は眉を下げるように寄せて、「本当は……、」と喉を震わせた。私はソフトクリームを少しだけ食べる。
「……本当は、僕がまだ君の恋人だったなら、君にそんな顔させないのにって思ってたよ」
 不二はなんだか恨みがましいような目つきで私のことを見る。言うつもりのないことを言わせてしまったからだ。こうなってしまった不二は、大抵吹っ切れたようにすごい勢いで話し始めるので、私はばくばくする心臓を無視するように、慌てて「あ、あのさ」と口を挟んだ。
「……テニスがあるでしょ、不二には。テニスはいいの? やめちゃったの?」
「やめてないよ。続けてる。キミがいない間に世界大会にも出た」
「え、せ、世界大会……。じゃあ、やめておいた方がいいんじゃないかな。私……」
「いやだって言ったら?」
「だって、またやっちゃうかも」
「それって、僕が君のことを不安にさせたのが悪いよね」
「そんなことないよ、不二ががんばってるのに、私が勝手に……」
「そういう、自分一人で全部背負い込んじゃうようなことを、君にもう二度とさせたくないって話なんだけど」
 不二はそこまで言って、やっと一呼吸の間をおいた。
「君を傷つけておいて、ひどいことを言わせて、それでももう終わったことにしてくれたのに、ごめん。……でも今度は、ちゃんと君のことを離さないでいられる」
 ……。不覚にも、普通にときめいてしまった。頬が熱い。
 私が俯くと、不二は心得たとばかりに優しい声で、「また、ここに来てくれる?」とささやいた。





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