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 時の過ぎるのは早いもので、1週間ほど前から学校は夏休みに入った。しかし我らが吹奏楽部はそんなこととは関係なく今日も練習に励んでいる。
 いつもみたいに朝から学校に登校しているせいでなんだか結局休んでいる感じがしないなあ、と思いながらも、練習をサボるなんて勇気のあることは私には出来ないので、普通に毎日早起きだ。

 途中に昼食を挟みながらもなんとか練習をこなして、連絡事項を最後に確認して、今日の部活も終わる。今日は何回目かの全体合奏があった。難しいフレーズは結構安定してきたけど、ちょっと変更点があったから明日の練習で慣れなくちゃな……。などと考えながら自分のクラスの教室に寄る。自分のロッカーをがちゃりと開けて、置いて帰るものを放り込む。楽譜だけ一応鞄に入れて、さて帰ろう、と階段の方に足を向けたところで、見慣れた姿を見つけた。

「及川先輩。お疲れ様です」
「おつかれ満谷ちゃん。部活はもう終わり?」
「はい、先輩もですか?」
「うん。……あのさ満谷ちゃん、この後ヒマ?」
「ええと……はい。用事とかは特には無いです」
「じゃあちょっと付き合ってくれない?」

 先輩もおそらくこれから帰るところだったのであろう、運動部特有の大きなバッグを持っている。そんなに長くかからないから、と言われ、断るのも悪いかとうなずく。先輩はよかった、と顔を綻ばせて、じゃあ付いてきて、と歩き始めた。

 辿り着いたのは1階にある食堂だ。普段は多くの生徒が利用しているが、今は夏休み中、放課後という時間帯も相まって誰もいない。蛍光灯もついておらず、窓から差し込む夕日であたりはオレンジに照らされている。

「満谷ちゃん何飲みたい?」
「え?……いや、自分で買いますよ」
「いいの、リベンジなんだから」
「じゃあ……何か果物系のやつがいいです」
「オッケー、果物系ね。満谷ちゃんはどっかその辺座っててよ」

 そういうと先輩は食堂の壁に並ぶ自動販売機に向かっていった。一人取り残された私はどこか手持ち無沙汰で、そろそろと入り口から少し離れた窓際の席に座る。なんだか落ち着かない。そもそも飲み物を奢ってくれるにしても別にここで飲む必要はないんじゃないのかな。普通はこういう時一緒に飲むものなのか?いかんせん今まで男子とも先輩ともあまり関わって来なかったので、いまいちノリが掴めない。
 気を紛らわすためにオレンジ色に染まる窓の外を見ていると、両手にそれぞれ紙パックを持った及川先輩が戻ってきた。

「はい。とりあえず2種類買ってきたから好きな方選んで」

 先輩は手に持っていたジュースを机の上に置くと、私の隣の席に座った。まさかすぐ隣に座られるとは思っていなかったのでかなりびっくりしたが、先輩はそ知らぬ顔である。もしかして運動部特有のノリか何かだろうか。それとも先輩がこういう時距離が近いタイプだからだろうか。席同士がそこまで近くないのが救いだが、いずれにせよかなり照れくさい。逃げるように飲み物のパッケージに目を移す。オレンジジュースと、この間もらったレモネードだ。どちらも美味しそうで(というかレモネードの方は実際美味しかった)どちらにするか決めかねてしまう。

「先輩はどっちがいいとかありますか?」
「え〜?どっちでもいいけど……そう聞いてくるってことは満谷ちゃんも迷ってる?」
「はい。2つともおいしそうなので……」
「じゃあ俺、レモネードの方もらおうかな」

 先輩はひょい、とレモネードの紙パックを自分の方に引きよせて、パックに付いているストローを挿して飲み始めた。私もそれに倣って取り出した飲み口に白いストローをぶすりと挿す。一口飲むと、オレンジの甘酸っぱい味が広がった。そのまましばらくの間ちびちびとジュースを飲んでいたが、すると気になり始めるのは先輩の様子である。……見られているのだ。それも、けっこうがっつりと。

「ど、どうしたんですか……」
「え?何が?」

耐えかねておそるおそる尋ねるも、先輩は不意をつかれたような表情だ。「え、いや、何もないならいいんですけど……」

 変なことを聞いてしまっただろうか。なんとなく気まずくなってぱっと視線を逸らす。先輩はといえば、今度は窓の外の方をじっと見ていた。夕焼けに照らされてもともと薄い色の髪(それが地毛なのか、それとも染めてあるのかは私は知らないけど)が透けて見える。そこで初めて私は、ああこの人って結構整った顔だちをしているんだな、と気がついた。オレンジ色のライティングがかなり様になっている。この先輩と顔見知りになってからちょくちょくファンみたいな感じの女の子たちに囲まれるところを目にしたが、なるほど人気があるわけだ。今になって納得である。

 そんなことを考えていると今度は私の方が先輩のことをまじまじと見てしまっていたらしく、「どしたの?」と苦笑された。

「え?、ああ、なるほどモテるわけだな、と思って……」

 言ってから自分が流れで変なことを口走ったことに気がついて、「いや、変な意味じゃないですよ!?」と慌てて訂正する。

「そう?俺は満谷ちゃんにかっこいいって言ってもらえるの、変な意味でも嬉しいけどね」

 は!?と素っ頓狂な声が出た。思わず先輩の方にまた振り返る。

「そもそもかっこいいとは言ってなくないですか!」
「でもわりと言ったも同然だったよね?今のは」
「えっ、いや、うん……?」

 そうかもしれない。というかいきなり他人にモテるわけだな、とか言うのってセクハラなのでは?焦りでよくわからない方向に暴走する思考を今はとりあえず置いておこうとぶんぶん頭を振って霧散させる。
 及川先輩は急に奇行に走り出した私のことをにやにやしながら傍観していた。多分また面白いことし始めたよとかそういう感じのことを考えている顔である。

「いや、そうだとしても……そうじゃないんですけど、少なくとも変な意味ではないですから!」

 あときわどめの冗談を軽率に言うのやめてください!がっと先輩の方に向き直って力説すると、先輩はええ〜?と若干不本意そうな顔をした。

「冗談のつもりじゃなかったんだけどな、俺」
「は?、え、それはどういう……」
「分かってるくせに。……仕方ないから教えてあげるけど、俺は満谷ちゃんが俺のこと、そういう意味で好きだったら良いのにな、って思ってるってこと」

 愕然……という形容がぴったりな心境だ。及川先輩はいつものちょっと軽薄そうな笑みを浮かべていなかった。少しだけ眉を下げて、不器用に笑う先輩を見て、こういう時だけそんなことしないでください、とかそういう感じの何かを言わなきゃと思って開いた口を閉じる。それもまた墓穴を掘る発言だと気がついたからというのももちろんだが、あとは先輩がかなり真剣な雰囲気だったから、余計なことを言えなかったのだ。

「俺は満谷ちゃんのこと、変な意味で可愛いって思ってるんだけど」

 これは意味、わかる?と問いかけられて、ぶんぶんと首を縦に振る。そこでとぼけられるほどの人間性は持ち合わせていなかった。

「……返事、聞かせてくれる?いつでもいいよ。俺、待ってるからさ」

先輩はそれだけ言った。
夕日は私たちを一方向から真っ直ぐに照らす。白いテーブルも椅子も一緒にオレンジに染めて、それで私のこのどうしようもなく熱い頬も、混乱しきった馬鹿みたいな顔も隠れてくれればいい。