□ □ □


 あの告白(私の認識があっていれば)の後、及川先輩はいつものようにじゃあね、とだけ言って帰ってしまった。ひとり取り残された私は呆然としながら少しぬるくなった残りのオレンジジュースを一気飲みして、鏡を見なくてもわかるレベルで真っ赤な顔をなんとか落ち着かせてからそろそろと帰宅したのだが、いざ家に帰ってやることがなくなるとどうしても先輩の爆弾発言のことが脳裏によぎる。
 あれは……さすがに……そういう意味での告白、だった、と思う。逆にこれでそうじゃなかったら私が恥ずかしすぎる。今までそういった恋愛にはあまり縁がなかったから、本当にどうしたらいいか分からないし、そもそも思い出すだけでかあっと顔が赤くなってしまうので、いよいよお手上げといった感じである。
 幸いなことに次の日は学校自体が休みだった。返事はいつでも良い……とは言われたものの、私自身が部活に身が入らなさそうだったから、考える時間が長くあるのは幸いだろう。自室で頭を抱えながら悶々とする自分がかなり滑稽に思えたが、それでも及川先輩のあの表情を思いだすと真剣に考えなくてはいけないだろうと思えた。


 そしてその次の日は、いつかのような雨だった。そういえば、あの時はまだ梅雨だったな、と、さした傘が視界に入ってくるのを眺めながら考える。返事は一応考えた……のだが、一体いつ言えばいいのだろうか。及川先輩の連絡先なんて私は知らない。学校に着くのは時間で言えば朝練をしている頃だろうけど、そこで言うとしたら部活中に乗り込んで行かなくてはならない。そんな勇気はない上にふつうに迷惑になるだろう。となると昼休みだろうか?バレー部がどこで昼食を摂るのかまでは知らないけれど、始まったばかりの頃に声をかけに行けば自主練を始めてしまって声をかけづらいということも無い……と思いたい。
 よし、昼休みだ。そうとなればそれまでの部活はできるだけ余計なことを考えずに頑張ろう。いつものようにホワイトボードをチェックしながら小さく拳を握る。今日は一日自主練で、パート分奏も合奏もない。よかった、とすこしだけ安堵しながら(もし合奏中に集中できなかったら嫌だから)、トロンボーンを抱えて教室への階段を登った。

 集中しようとしてはどうしても先輩のことを思い出してしまって手が止まり、それを無理やり振り切ってマウスピースに息を吹き込み続けること約4時間。ようやく昼休みがやってきた。…………やってきてしまった。緊張で手が冷たくなっているのに気づかないふりをしながら体育館への道のりを歩く。大丈夫だ、多分。自信があるわけではないけれど、なんとかなるはずだ。
 根拠のない励ましを自分にかけ続けて、体育館が見えるところまでたどり着く。及川先輩の姿はここからは見えないが、予想通り昼休みが始まったばかりで部員は自主練に励むこともなく思い思いの時間を過ごしているようだ。
 ……にしてもそもそも声をかけるところで躊躇してしまう。これまで運動部に顔を出すなんてことはなかったのでなおさらだ。無理やり足を動かして扉に近寄ると、こちらを怪訝な目で見ている男子生徒がいる。やばい。怪しすぎただろうか。いや、でも及川先輩の人気ぶりから考えるにファンの女の子が詰めかけるなんて日常茶飯事のはずだから、そこまでやばくはない……はずだ。

「あの、すみません。私、及川先輩に用事があって……」
「ああ……あの人、まだ自主練してるけど。呼んでくる?」
「えっ!?あっ、ええと……じゃあひと段落するまで待ってます」
「そう?じゃ、俺行くね」

 男子生徒にはい、ありがとうございます、とお礼を言って見送る。覚悟を決めたはずがこう不意を突かれるとまた心臓がばくばくと動き始めてしまう。それにしても、まだ練習してたのか……。昼休みなんだから休んでいて欲しかった。と、お昼ご飯を食べ終わったらすぐ自主練を始める自分を棚に上げて心の中で愚痴を言う。私だってちゃんと最初の方は休んでいるのに、運動部でそんなことして大丈夫なのだろうか。
 ちら、と扉の中を覗き込むと、たしかに先ほどまで死角だった場所で練習している人がいる。及川先輩だ。バレーに関しては素人なので断言はできないけれど、これは多分サーブの練習だと思う。体育の授業でやるものとは違う、ジャンプが入るやつ。先輩の打ったボールが床に結構な威力で当たってかなりの音がする。比較対象がいないのでなんとなくだが、先輩ってもしかしてすごい選手なのではないだろうか?
 そんなことを考えつつしばらく先輩の自主練を見守っていると、どうやら一区切りついたらしく、ボールを拾い集め始めた。さて、どうやって声をかけようか。私がまた当初の悩みを思い出したところで、及川先輩がこちらを見た。

「あ」

 完全に目があったので、うっかり声が出てしまった。先輩は私と目が合うなりちょっと待ってて!と口パクとジェスチャーで伝え、ダッシュでここからは見えないところに行ってしまった。
いることは分かったんだし中を見ていなくてもいいだろうと体育館の扉の脇の方に避ける。それとほぼ同時くらいに誰かが走ってくる音が聞こえて、先輩がばんっと勢いよく扉に手をついて顔を出した。

「満谷ちゃん!!」
「は、はい!」

 反射的に返事をしてから、遅れて「あ、あの、今お時間大丈夫でしょうか……」と付け足す。

「ああ、うん、大丈夫だよ」

 先輩は……私ほどではないにしろやはり落ち着かない様子だ。まあそれでも私に比べればまだマシというものだろうが。完全に挙動不審な様子の私を見て、先輩はぷっと吹き出した。

「満谷ちゃんさあ、緊張してるでしょ」

 うっと言葉に詰まる。もちろん緊張しまくっているのは事実なのだが、改めてことの原因である(というのも中々ひどい言い方だとは思うが)及川先輩にそう言われてしまうと素直に頷くこともできなかったからだ。

「うーん……そうだ、お昼まだだよね?一緒に食べようよ」
「は?」

 毎度のことだが話の展開が急すぎる。うっかりは?とか言ってしまった。先輩は「あれ?ダメだった?」などと言って少し困ったような表情を見せる。私が思うにこの顔はわざとだ。そういうところがある人なのだ、というのはさすがの私でももう分かっているので、突っ込まないでおく。

「いえ、まあ……いいですよ……?」


 これはおそらく特に理由のない、それこそ習慣というものなのだろうが、この学校の吹奏楽部員はあまり練習場所で昼食を摂らない。各々が仲の良い生徒と連れ立って、食堂や他の部活の部室に上がり込んだりするのが常である。私も普段は皆と同じように教室に残ることはなかったが、このような状況であれば昼休み中ほぼ確実に人が戻ってこない教室が使える、というのは大変ありがたいことだった。
 私は午前中も使っていた、いつもの窓際の席に座る。先輩はその前の席に荷物を置いて、机を動かして私の座る席とくっつけた。妙な緊張感を覚えながら持ってきたお弁当を開く。……もしかしてこのなんとも言えない雰囲気のままご飯を食べなくてはいけないのだろうか。それは……かなり嫌だ。

「先輩は……お弁当じゃないんですね」

 とりあえずなにか話を振ってみようと話し始める。

「ああ、お弁当の時もあるけどね。今日は購買で買ったやつ」

 先輩が手にしているのは牛乳パンだ。イメージに合うような、合わないような?そもそも私は牛乳パンを食べたことがない。

「私食べたことないんですけど、美味しいんですか?」
「えっ!?満谷ちゃん牛乳パン食べたことないの?美味しいよ!?」
「はい。やっぱり牛乳の味がするんですか?」
「牛乳の味ではないかな〜……、なんか……クリーム系?」
「あ、そうなんですね。今度買ってみます」

 なんだ。味の想像がつかなかったから買わないまま今に至るものの、そこまで尖った味というわけでもなさそうだった。勇気を出して話し始めたのが功を奏したのか……、もちろん先輩のコミュ力が存分に発揮されたと言うのももちろんあるだろうが、それからは他愛もない話をゆるゆると続けながら昼食を摂ることができた。(先輩が結構なボリュームのパンを3つも食べていたのには少し驚いた。運動部の男子はこんなものなのかもしれないけれど、見るのは初めてだったのだ。)大方食べ終わったかな、というところで、私は当初の目的を果たすべく口を開いた。

「それで、返事なんですけど」

 そう切り出した私に、先輩は「あ〜……うん」と微妙な返事をする。

「あの……もしかして、緊張してます?」
「えっ!?いや!別にしてないけど!?聞いてやろうじゃん返事をさ!」

 ……この焦り具合から見て確実に緊張しているな。

「はあ。まあ、じゃあお伝えしますが……」
「あーっちょっ……待って!心の準備させて!」
「心の準備のためにわざわざお昼一緒に食べたんじゃないんですか?」

 ていうか、そんな大したこと言わないですよ、多分。私が苦笑しながら言うと先輩は「それはそれで怖い……」と漏らしたものの一応話を聞いてくれそうだ。私は何回も頭の中で考えた文章をなぞるように話し始める。

「それで……あの後、頑張って考えたんですけど」
「うん」
「よくわからなかったんです。……私、そういう……誰かを好きになる、みたいな事はずっと他人事だと思ってて……だから、今すぐつ、付き合う?とか、そういうのはハードルが高いかな、って」

先輩はそっか、とだけ言った。促されるように視線を向けられて、私は頷いて話を続ける。

「でも、ええと……初めはすごくびっくりしたんですけど、まあ……なんというか、……うまく言えないですけど、私は……先輩と仲良くなることに関しては、特に嫌じゃない、と思います」

 ここまでが私の出した結論だ。先輩の告白はたしかに私に多大な衝撃を与えたが、それではこの人のことが嫌いなのかと問えばそうではなかった。恋愛の経験値が限りなくゼロに近いが故に、恋愛関係になりたいのか?という問いにはちゃんとしたイエスかノーで答えることはできなかったけれど。私が話し終えると先輩はありがと、と少し掠れた声で言った。そして真剣な声のまま表情を少し緩めて続ける。

「要するに……満谷ちゃんが俺のこと好きになる可能性もあるってこと?」
「え!?まあ、そうなります……よね…………?」

 私が慌てながらそれでも肯定すると、先輩は自信に満ちた表情でにっと笑った。

「じゃあ絶対俺のこと好きにさせてみせるから。俺本気だよ」

 うう、と変な声が漏れそうになったのを気合いで抑える。こういうことを言ってしまうのが……なんというか……ずるい。せっかく頑張って話しきったのに頬が見る間に紅潮していくのを感じる。なんだか負けた気分だ。

「だから、……とりあえず一緒にいてみない?こういう風に一緒にご飯食べたりとか、一緒帰ってみたりとかさ。満谷ちゃんがそういうの気にするならライン交換してそれで話すとかでもいいよ」

 私の知る限りいちばんに優しい声で先輩は言った。親にすらかけられることはそうないだろう、というレベルで甘やかすような声音を不意にかけられてしまって、さすがにたまらなくなって手で顔を覆う。

「えっ、どうしたの?」
「だ……大丈夫です。大丈夫なんですけど、ちょっと……あの……」

 あんまりそういう声出すのやめてください……と消え入るような声で言う。

「エッ俺そんな変な声出してた!?」
「あー、今の感じでお願いします……ほんとに……あの、変な声ってわけじゃないんですけど……」

 いつものトーンに戻った声に安心してほっと息をつく。もしやこれから先輩と……付き合う、とか、そういうことになったら、今の声を聞いていかなくてはならないのだろうか、と気がついてしまって、これから先が思いやられるなあ、とひとりごちる。いや、別にまだ付き合う付き合わないの話までたどり着いてさえいないんだけど。

 どうする?満谷ちゃんさえよかったら、俺と今日、一緒に帰らない?と聞く声は結局優しいままだったから、私は半ば諦めて「はい」とだけ言った。




 放課後には雨は止んでいた。待ち合わせをしていた食堂からふたりで歩いて外に出る。水たまりに映る青空をながめながら先輩は、あーあ、まだ降ってたら満谷ちゃんと一緒の傘に入ろうと思ってたのになあ、とぼやいた。

「先輩も私も傘持ってるのにそんなことしないでしょう」
「分かってないなあ、忘れたフリして入れてもらうんだよこういう時は!」
「……それ、言わなかったら次の時に使えたんじゃないですか……?」
「あ」

 隣を歩く先輩に向けて目線を上げて話すのにまだ慣れない。でもきっと、今日の調子だとすぐに当たり前になってしまうから、今はこうやって何気なく交わす会話が心地良いというだけで充分だ。
 雨上がりの空気をゆっくり吸い込んで、肩にかけたスクールバッグを掛け直す。見上げた空は気持ちいいほどに晴れ渡っていた。