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※及川が日本で大学生やってる時空

「先輩」
「徹!」
「と、……えっと……徹、さん」

 わざとらしくむくれた顔の先輩に負けてそう呼んでみたはいいものの、やはりなんとなく違和感があって、私は首を左右に振った。
 いつもの駅の改札前。周りは休日の昼ということもあってざわめきで満ちていて、私たちがどんな会話をしていようが誰も気にしそうにない。それをいいことに、私は先輩に苦言を呈してみる。

「いや、やっぱり恥ずかしいですよ、これ。さん付けって、なんか熟年夫婦みたい」
「いいじゃん、別に。熟年夫婦で」
「う……いや……違います、あの、そういう話じゃなくて、いやそういう話にしたのは私かもなんですけど、なんだか私が呼ぶには雰囲気が大人っぽすぎるっていうか……ハードルが高すぎっていうか……」

 ふーん。及川先輩は気のない返事をする。「今日、俺、誕生日なんだけど。それでも嫌なの?」

 どんだけ名前で呼んでほしいんだこの人。私はといえば、まずあの及川先輩とデートをするということにいまだに慣れず、しかも目の前にいる先輩が正直言ってものすごく格好良かったから、もうこれ以上心臓に負担をかけないでほしいという気持ちでいっぱいだった。

「…………嫌というか……」

 先輩にバレないように、後ろ手でスカートを撫でる。普段履いている制服のスカートより幾分ふんわりした素材のそれは、私の手に沿ってなめらかに形を変えた。

「なんなら俺、ハルちゃんになら呼び捨てで呼ばれてもいいけど」
「え!?」
「そんな驚く?いいよ。名前にさん付けが嫌なんでしょ」
「あ、……う、えっと……はい」

 じわあ、と、顔に血液が集まっていくのを感じる。恥ずかしさを意識できないくらいになんだかとても嬉しくて、私は俯いた。先輩はいつも、なんでもないような口調で、すごいことを言いだすのだ。そんなことはもう充分思い知らされているけれど、いまだに全く慣れる気がしなかった。


 あの雨の日に先輩と目が合ってから、1年くらいが経つ。
 私は結局先輩のことが好きになってしまって、……いや、別に不本意というわけではないんだけれど。でも、なんだか先輩とのことはそう表現するのがふさわしい関係性に思えるものだから、ついそう言ってしまう。
 告白する時だって、「好き……、かもしれないです」「もう一声!」「………………」「がんばれ〜〜」「…………先輩のことが好きになってしまったので、責任とってください」「そんな苦渋の決断みたいな顔しないでよ。傷つくでしょ」「傷ついた顔してないくせに……」という流れだった。
 つまるところ私は、先輩に対して好意を剥き出しにするのに慣れていないのだ。先輩は「ハルちゃんは分かりやすいから、別に無理しなくても大丈夫だよ。見てて面白いし」などと茶化していたが、私だってさすがに、その、好きな人に対していつまでも素直になれないというのはいかがなものかと思っている。それに、及川先輩が大学に進学してからは、私と毎日一緒にいるというわけにもいかなくなった。だから、デートの時くらいは頑張って気持ちを伝えておきたいのだ。

「……本当にいいんですか」
「いいって言ってるじゃん。俺もハルちゃんのこと呼び捨てにしたいって思ってたし」
「え?そうなんですか?」
「ハルちゃん、俺が先輩だからってなんか線引きしてるでしょ。俺も後輩扱いしすぎたなって反省してるんだよ」
「…………なるほど……」

 スカートを握り締めたら皺になりそうだから、拳をぎゅむぎゅむと握ったり開いたりして何かを発散しようとしてみる。先輩はそんな私を見下ろす。視線が「呼んでみて」と言っていた。

「と……徹」
「うん」
「あの、やっぱり先輩に向かって呼び捨てって……」
「ハルがそういう性格なのは分かってるつもりだけど、俺のことは先輩だって思う前に恋人だって思ってほしいんだよね。荒療治だよ」

 試してみて分かることってあると思うし。だからほら、もう一回呼んでみて、ハル。

 あの愛おしむ気持ちをいっぱいに詰めた声音で、そう促される。私は呻きたい気持ちを堪えるために胸を抑えて、「……徹」と漏らすように声を発した。思っていたよりへにょへにょした声が出てしまって、恥ずかしい。

「……とりあえず今日いっぱいはその呼び方じゃないと返事しないから」
「えっ、」

 言うやいなや、彼はくるりとこちらに背を向けて歩き出す。「待ってください!」私は胸のむずがゆさをごまかしたくてひとつ深呼吸をし、後を追う。

「あ……、えっと、徹!」
「何」

 少しだけ振り向いた拍子に見えた耳が真っ赤で、私はぐっと息が詰まるのを感じる。それを振り切るように、できるだけ大きな声を出した。

「お、お誕生日おめでとうございます!」

 結局ありきたりなことしか言えなかった。それに、呼び捨てなのに敬語っていうのもちぐはぐでおかしかったかもしれない。精一杯の気持ちを込めたつもりだけど、伝わるだろうか。
 揺れそうになる瞳を眉を寄せて堪えてそのまま見つめ続けると、私の恋人はへにゃりと笑って、「ありがと」と言った。