初めて聴いた声は、自分を呼ぶ声ではなかった。

自分の隣に居た隼人を呼ぶ声。「ごめん」と一言告げて隼人は春名の前を通り、彼女の元へ向かった。隼人と親しい女子なんて早々見ないのだから、誰か知っていてもおかしくないのに春名は、彼女が誰だか知らなかった。去年同じクラスではない。委員会も多分違う。いつの間に隼人は仲良くなっていたんだろうか。春名にとって、彼女に対する第一印象はそんなものだった。どちらかと言えば、彼女への印象よりも隼人への疑問と言った方が正しいような気もする。実際、彼女がどんな容貌だったのか記憶にない。

彼女の姿を認識したのは、それから数週間後だった。

まるで少女漫画の展開であるかのように、春名は廊下の曲がり角で彼女と鉢合わせになり、ぶつかってしまった。「わりぃ!」咄嗟に謝って彼女の方を見ても、その時はまだ『隼人と仲の良い女子』だということに気付かずにいた。ひとつに束ねられた真っ直ぐに伸びた黒髪が、彼女が顔を上げる動作と共に揺れる。テレビで見る綺麗な二重の目ではないが、はっきりと意志を宿した黒い瞳に春名の顔が映る。黒い髪に、黒い瞳。一見きつそうな印象を受ける。動じることも無く立ち上がった彼女は、想像していたよりも低い身長で、そしてごく普通のありふれた女の子の声で「大丈夫です」そう答えた。もう少し、低くてハスキーな声を想像していたのだが。
そこで春名はようやく思い出した。彼女が『隼人と仲の良い女子』であることを。

「あ、ハヤトと話してた子」
「秋山くんがどうかしましたか?」
「いやどうもしてない。ごめんな前見てなくて」
「こちらこそ不注意ですいません」

スカートについた埃を払い、彼女は小さく頭を下げて彼の前を通り過ぎた。そして彼女は春名のクラスの前で止まり、隼人のことを呼び出した。

彼女の印象はどう見ても『秋山隼人に恋する女子』に変わっていた。

けれども、そんな印象を持っていたのは僅か数日。彼女が毎日教室に来て隼人のことを呼ぶことはなく、何の用があって隼人に話をしていたのか春名には検討もつかなくなってしまった。しかし、それに代わるかのように隼人が昼休みに部室に来るのが遅くなっているようだった。もしかして、逆だったのかもしれない。『秋山隼人が好きな女子』なんて。春名は揶揄いを込めて、隼人と肩を組んだ。

「ハヤト〜最近、部室来るの遅いけどどうしたん
だ〜?」
「どうもしてないよ、借りてるCD返しに行ってるだけだよ」
「そんな毎日?」
「そうだけど……」

自分で聞いておいてはアレだが、何だか期待していたのとは違う回答に春名は一人落胆した。もっと顔を赤らめて慌てる隼人の姿を想像していたのに、淡々と事実を述べていく彼の姿に味気なさを感じた。例えるなら、梅おにぎりだと思って口にしたおにぎりが、塩むすびだった時の悲しさ。

彼は味気なさをどうにかするために、放課後に取っておこうと思っていたドーナツを口にした。少しだけ後悔したのは言うまでもない。

味気ない塩むすびが、梅おにぎりだったと分かったのはそれから更に数日後。隼人とその彼女がCDの交換をしている所を偶然目にしたのだ。俺の目に間違いはなかった!と心の中でガッツポーズをし、隼人より一足先に教室へ戻る。そして、教室に戻ってきた隼人に先日とは少し違う質問を問い掛けた。

「ハ〜ヤト! やっぱりあの女の子だったんだな」
「な、何が?」
「何かあったらすぐ相談に乗ってやるからさ! 頼りにしてくれていいぜ?」
「……分かったよ」

先日とは打って変わって、諦めた様子で少し頬を赤く染める隼人の姿があった。手に持っていたCDは、どうやらバンドのCDのようでお互いの共通点らしい。俺も知ってるバンドだ、なんて隼人の持つCDを見てそんなのことを思った。



「いい気分だと思ってたのに雨かよ……」

独り言を零してしまう程、見上げた空は澱んでいて大粒の雨を降らしていた。生憎春名は傘を持ち合わせておらず、昇降口で待ちぼうけをしている状態。誰かを待っている訳でもないのに。強いて言うならばお天道様だろうか。どう見ても止む気配のない天気に、彼は大きなため息をついた。濡れて帰るか、と決心をし雨空の下を駆け出そうとする。

「風邪引きますよ」
「お?」
「予備の傘、あるんで使ってください」

声を掛けてきたのは紛れもないあの『ハヤトが好きな女の子』そう言えば、春名は彼女の名前を知らない。『ハヤトが好きな女の子』としか彼女のことを認識していなかった。

「いいのか? 誰かに渡す予定とかなかったのか?」
「有り余った傘を渡す予定って何ですか」
「うーん、好きな人とか?」
「ないです」
「そっかぁ」

キッパリと物事を言う性格の彼女の何処に可愛げを見つけたのか、春名にはイマイチ分からない。隼人に話を聞いても彼女の良さが春名には理解できそうになかった。最も、理解する必要もないのだけれど。
湿気で真っ直ぐに伸びているはずの黒髪の毛先が、少し跳ねている。彼女のことを見かける度に、綺麗な黒髪だなと感心するのだが雨には弱いようだった。一分一秒が、ゆっくりと流れているようなこの感覚。彼は彼女のこの独特な雰囲気が好きではなかった。言ってしまえば、苦手だった。全て、飲み込まれてしまいそうな。

「傘、いつでもいいので」
「え、あ、うん」

自分より低い視線から差し出された折り畳み傘は、どう見ても女物。彼女のさしている傘の方が男が持っていても不思議ではないものだった。借りる手前、女物が嫌だとかそんなことを言っていられる場合でもない。が、気にはしてしまう。

「……嘘です、そんな女物貸しませんよ」
「顔に出てた?」
「そりゃあ、もうハッキリと」
「マジか」

淡々と嫌味のように出てくる言葉に、やっぱり苦手意識を持ってしまう。可愛らしい声と風貌をしているのに、性格は顔に合うかのように、少し意地悪いのかもしれない。そんなこと本人に言えるわけもないのだが。
彼女の持っていた傘と春名が持っていた傘を交換してもらい、こっちの方が良いなと一人勝手に納得していた。

「ふふ、顔に出やすいんですね。意地悪してごめんなさい、またね」

彼女は、雨を気にすることなく駆け足で屋根の下を抜けて行った。そうして、少し前に居た隼人の隣に並んだ。傘の隙間から見える彼女の笑顔は、年相応で可愛らしく見える。雨の日特有のジメジメとした匂いよりも、彼女が通った後に香った石鹸の匂いの方が、春名の鼻にこびり付いてしまった。

「あーー……俺ってチョロいのかもしれねぇ」

あの一瞬の笑顔で、彼の心は彼女に掴まれてしまったのだった。彼の複雑な心境を表すかのように降り続ける雨はまだ止みそうにない。
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