『昨夜未明、女性が刺されて血を流している、と警察に通報があり──』
窓の外には雲ひとつない晴天が広がっている。
小鳥の囀りが聞こえてくる穏やかな朝であるが、テレビの向こうのアナウンサーは神妙な面持ちで凄惨な事件を報じている。
物騒だ、と思うよりも先に呪霊の発生を心配してしまうのは職業病だろう。
何せ、テレビに映し出されている事件現場近辺ではつい先月も殺人事件が起きていた。
負の感情が集まり呪いを生み出すことを考えると、この周辺は注意した方が良いかもしれない。
そんなことを考えながら焼きたてのトーストにバターを塗り込み、事件の詳細に耳を傾けていると、ある単語が聞こえてきてバターナイフを滑らせる手が止まった。
『女性は以前からストーカー被害を訴えており、警察に相談も──』
"ストーカー"
それは私を動揺させるには充分な効果を持つ言葉だった。
被害に遭っている訳ではない。むしろ私は加害者側なのだ。
と言っても、後を付けたり差出人不明の贈り物をしたり体液を付着させたりというような相手に迷惑を掛けるタイプの加害はしていない。
認知されたい欲求がある訳でも、ましてや相手に嫌な思いをさせたい訳ではない。
私はこっそりひっそり彼を愛でていたいだけなのだ。
それに私が想いを寄せる相手は近寄ることすら"不可能"。
彼に触れることも、忍び寄ることすら"出来ない"。
つまり、仮に私が彼の後を付けたいと思っても、背後からこっそり体液を付けてやろうと思ったとしても、出来ないのだ。
何故なら彼は、五条悟であるから。
好きになってしまったその時から彼の目に止まることはないと理解していたし、諦めていた。
彼と私とではあまりにも住む世界が違いすぎた。
一介の補助監督の私と、特級呪術師の彼。
非術師でサラリーマンの父と、非術師で専業主婦の母というごく一般的な家庭で育った私と、呪術界を牽引する御三家がひとつ、五条家の次期当主として育った彼。
強くもなく、特別でもないありふれた術式の私と、五条家の相伝である無下限呪術と、世界にひとつだけの特別な眼を持つ彼。
至って平均的な身長に、細くもなくある程度肉付きの良い体、少しクセのある髪、母譲りの二重と父譲りのしっかりした鼻と大きめな口、唇の形だけは自分でも少しお気に入りだがひと目で東洋人だと分かるありふれた容姿の私。
対して、2メートル近い高身長、それを支える鍛えられた体と長い手足、しんと降り積る雪を連想させる白髪に透き通るような白い肌、空色の虹彩で彩られた瞳はブルートパーズよりも美しく、それを縁取る頭髪と同じ色をした睫毛は宝石のような瞳を飾り、ほんのりピンクに色付く唇は少女のように瑞々しい。
このように、私という人間と五条悟という人間は、同じ世界に存在している事実が不思議なくらい、"別のいきもの"であった。
一応は同じ職場で働いていても、ほとんど話したこともない、彼に至っては私のことを認識しているかどうかすら危うい。
私は自分の立場、価値と言うものをしっかり理解しているつもりなので、近付きたいだとか認識されたいだとか、あまつさえ深い関係になりたいだなんて望んでいない。
望んではいなくても、恋する気持ちくらいは許してほしい。
こっそり目で追うことや、他の誰かと会話している声に耳を傾けたり、"偶然"写真に写りこんだ五条さんの姿を大切に大切にしまい込むことを、許してほしい。
◇
それは本当に、色んな偶然が重なり合って起きた悲劇だったと思う。
始まりは朝イチで七海さんの任務に同行した伊地知さんの帰りが遅くなったことだった。
予想外に任務が押している、と連絡があって、それ自体は珍しいことでもなく誰も慌てた様子は無かった。
しかし私は、伊地知さんが今日の午後、五条さんの任務に同行予定だと言うことを把握していたので、それはどうするのだろう、とそわそわしていた。
伊地知さんが出られないという事は代わりが宛てがわれるということだ。
補助監督と術師の間に専属契約、みたいなものは存在しないけど、五条さんは好んで伊地知さんを同行させているし、伊地知さんの都合が悪い時には比較的フランクな仲の補助監督を連れて行く。
その為、五条さんに同行予定の補助監督が急遽変更、というのはこれまで何度もあったが代役に私が選ばれたことは一度も無かった。
だから今回もきっと私に白羽の矢が立つことは無い。そう思っていても、僅かな可能性に浮き足立つ気持ちがあるのは否めなかった。
ドラムロールが鳴り響く薄暗いどこかのスタジオで、大御所司会者が声を張り上げ『五条さんの同行に選ばれるラッキーガール、ラッキーボーイは誰だ!?』と叫んでいる。そして、選ばれたのは五条さんの任務にそれなりの回数同行している補助監督。『まさか選ばれるなんて思ってもいなかったので、感無量です』そんなインタビューを聞きながら良かったね、と拍手を送る観覧客の私。
我ながらくだらない妄想だ、と思いながら、数日後に同行予定の任務の資料をホッチキスで纏めた。
ばちんばちん、と鋭い音を立てたホッチキスをデスクにしまうため顔を上げると、短い首を伸ばしてきょろきょろと事務室を見回す上司が私の名前を呼んでいることに気が付いた。
僅かな可能性にほんの少しだけ、1ミクロンくらい期待していたとは言え、自分が選ばれることは無いと思っていたせいで名前を呼ばれた理由が分からなかった。
二度目に名前を呼ばれた時、自分が選ばれたのだと気付いて慌てて上司のデスクへ駆け寄った。
嬉しい、どうしよう、どうして、嬉しい、緊張する。
私の心境など知る由もない上司は資料を寄越すと任務の説明を始めた。
正直、人の話を聞く余裕なんて無かったけど、それはそれとして補助監督の仕事を遂行しなくてはならない。
何より、五条さんに悪い印象を与えたくなかった。
『コイツ、任務の内容全然頭に入ってないじゃん』
なんて思われて二度と同行させて貰えなくなったら最悪だ。
身の丈は弁えているし、どうこうなりたいと思っている訳では無いが、本音を言えば一言二言言葉を交わすような関係になりたい。
そんな邪な思いが気取られないよう資料を捲りながら上司の話に聞き入る姿は、実に仕事熱心に見えたことだろう。
そうして任務の概要を急ピッチで頭に叩き込んだ私は、大急ぎでお弁当をかき込みメイクポーチを片手に御手洗に駆け込んだ。
きちんとした身なりは社会人のマナーだから、とそれらしい言い訳を並べて普段の幾倍も丁寧にメイクを直した理由は言うまでもない。
ややアイシャドウが濃い気がしたが、五条さんは普段の私の顔なんて覚えてないはずで気付かれやしないだろう。
それはそれで寂しい気もしたが、『コイツ僕と任務だからって気合い入れてメイクした?ウケる』なんて思われたら羞恥で寝込みそうだから覚えていなくて良い。
そうこうしているうちに気が付けば集合時間10分前になっていた。遅れそうという訳ではなかったのに、慌てて鞄を引っ掴み事務室を出た。
これがいけなかったのだ。
よく見もしないで引っ掴んだ鞄が仕事用の物ではなく私物だと気が付いたのは車の助手席に荷物を置いた時。
色は同じ黒なのに、形も質感も全く違う。
普段なら取っ手を掴んだ時点で気付きそうなものだけど、今日の私は意識散漫も良いとこで鞄の質感になど全く意識が向いていなかった。
しまった、と思った時には車を回す時間で、取りに戻る余裕は無い。
五条さんと気心の知れた仲なら事情を説明して事務室に戻ることも出来たかもしれないが、私達はほとんど話した事もない。
鞄を取り違えたと説明して取りに戻ることは憚られて、結局このまま任務に出ることに決めた。
財布や携帯、何より任務に必要な書類も持っていることだし支障はない。
その時の私はそれが最善だと思ったのだ。
その判断が私の未来を大きく変えてしまうだなんて、この時は知る由もなかった。
◇
分かっていたけど、五条さんってやっぱり凄い人だなぁ。
そんな呑気な感想が出てきてしまうほど任務はあっさり終わった。
1級呪霊が複数体、と資料には書いてあったのに。
並の1級術師なら数時間、いや、そもそも複数との事前情報があれば1人で赴くことは無いだろう。
五条さんが現代で最も強い術師だと言うことは重々承知しているけど、それでもこんな、赤子の手をひねるかの如く簡単に終わらせてしまうなんて。
五条さんなら30分足らずで終わらせちゃったりするのかなぁ、なんて想像していた1時間前の自分に教えてやりたい。
10分足らずで終わるよ、と。
どんな祓い方をしたのかは帳の外に居る私には分からなかったけど、10分もしないうちに帳が消え五条さんが埃一つ付けず戻ってきた時は『無事戻って来ますように』と祈っていたことが可笑しくなって五条さんにバレないよう小さく笑った。
幸い現場は森に囲まれた廃病院で、目立った破損や急ぎ修復するものも無く、すんなり高専に戻ることができた。
車に乗りこみエンジンが点いたのを確認すると、後部座席に座る五条さんがねぇ、と声を上げた。
「はい、何でしょうか?」
「ごめん、高専着くまで寝てるから着いたら起こしてくれる?」
「分かりました。」
たったそれだけの会話すら私にとっては舞い上がってしまうもので、それきり五条さんはひと言も喋らなかったけど、何度も思い出しては心が満たされた。
だってそれは、任務に向かう車内や現場でした事務的な会話では無く、プライベートに限りなく近い五条さんの言葉だ。
ただでさえ密かに想いを寄せている人と二人きり、密室空間に居るというだけで舞上がってしまうと言うのに、おまけに会話をしてしまった、となると私は天にも登る思いだった。
寝ている五条さんをルームミラーで確認しては口元を緩ませてしまう。
貴重な五条さんの寝顔、と言ってもアイマスクで目元は見えないので普段と何ら変わりは無いのだけど、それでも私の前で見せてくれた無防備な姿をどうにか収めたくなってしまった。
いつものように"偶然"五条さんが写りこんだ写真を撮りたい。
だけど運転中の今スマホを操作する訳にもいかず、良い方法は無いのか思案しているうちに高専に着いてしまった。
結局写真が撮れなかったことに落胆しつつも、今回の同行に手応えを感じた私はこれからはこんな機会が回ってくるかもしれない、と浮かれていた。
高専に着いたのはそれから40分程経った頃で、裏門に車を着けたあと言いつけ通りに起こした五条さんは大きな伸びをひとつすると車を降りて行った。
その大きな背中を見送りながらシフトレバーをドライブに入れた時、五条さんに渡さなくてはいけない書類を渡し忘れたことに気が付いた。
五条さんは多忙な人だから、今日がダメなら明日で良いと言う訳には行かない。
今にでも緊急で地方に出張、ということだって有り得る人なのだ。
ドライブに入れたレバーをパーキングに入れ直し、鞄を引っ掴んで慌てて車外へ飛び出した。
「ご、五条さん!」
声大きすぎたかな、吃っちゃった、声もちょっと裏返っちゃったし、恥ずかしい。
いつもならこんな事で慌てたりしない。
冷静に車を降りて呼び止められるはずなのに。
相手が五条さんだったから、浮かれていたから。
だから私は、石ひとつ落ちていない道で足がもつれて転んでしまった。
これでも一度は術師を志した身。地面に顔面からダイブというみっともない転び方は回避したものの、両手をついて地面を見つめる様は不格好なことに間違いない。
起き上がろうと腕に力を入れるまでのほんの1秒程度の僅かな時間の中で、やっちゃった、恥ずかしい、五条さん引いてないかな、と頭の中はそんなことでいっぱいになり、右手にあったはずの鞄の行方とか、その鞄が私用のものだったとか、その鞄の中に何が入っていたのか、すっかり失念していた。
「あ、みっともない所をお見せして──」
「ねぇ、これ、何?」
心配してほしいだなんて思っていなかったけど、この状況で掛けられる言葉といえば大抵転んだことに関する内容だろう。
しかし五条さんから出た言葉は揶揄う言葉でも、ましてや労る言葉でもなかった。
視線を上げたその先、数メートル先に立つ五条さんが右手の親指と人差し指で摘んでいたのは、五条さんの姿がプリントされた写真だった。
「あ…え、なん、で…」
「君がコケた拍子に手提げが吹っ飛んで中身ぶちまけてたよ」
「嘘…」
「しっかしコレ…どっからどー見ても僕なんだけど…盗撮?」
「ち、ちが」
「違くないよね?こんな写真撮った覚えないし」
「これは…た、偶々、私が撮った写真に五条さんが写ってて、それで…」
「偶々?コレも、コレも?随分とたくさん僕が"偶々"写りこんだ写真を持ってるんだね」
「っ、や、それ、返してください…!」
「んー、返してって言われても僕としては知らぬ間に撮られた自分が写ってる写真を持たれてるのはちょーっとほら、」
こてん。そんな効果音がぴったり当て嵌る、そう思った。
右に小首を傾げた五条さんは、とっても可愛らしいのに、纏う空気や見えないはずの目元が冷たい気がして背中が粟立つのを感じた。
次に形の良い唇が開いた時私に向けて発せられる言葉は私を拒絶する言葉だと確信した。
「気持ち悪いんだよね」
◇
悲劇から一夜明け、散々泣き散らしたせいで頭は鈍い痛みを訴えていた。休みで良かったと今日ほど思ったことはない。
頭痛薬を水道水で流し込んでから洗面所へ向かうと、パンパンに目を腫らし鼻先を赤く染め、見るに堪えない顔をした私が鏡に映っていた。
次の休みには日用品の買い出しついでに服でも買いに街へ行こうと思っていたのに、この顔では家から出られそうもない。
"気持ち悪い"
軽蔑と嫌悪を多分に含んだ声色と言葉は私の心にぐさりと深く突き刺さり大きな傷を付けた。
昨日から何度も思い出しては傷口は広がりぐちぐちと膿んでいき、修復出来ないほど大きな穴を開けている。
もう思い出したくない、考えたくないと心は叫んでいるのに、私の脳はまたしてもその光景を鮮明に思い浮かばせた。
◇
『気持ち悪いんだよね』と言われた私は何も言えず、冷や汗が滲む感覚を追うことしか出来なかった。相変わらず地面に膝を付けたまま呆然と五条さんを見上げている姿は実に無様なことだろう。
謝罪するべきだと分かっているのに上手く声が出せなくて、魚の様にはくはくと口を動かす私をじっと見つめた五条さんは普段と同じ声のトーンで『そうだ』と声を上げた。
「コレ、僕が処分しておくから君はちゃんとデータ消しておいてね。現像してるってことはあるんでしょ、写真のデータ」
「あ…わ、分かりました…」
「何だっけこういうの。えーと…あ、ストーカー!ストーカーだ。こういうのってさぁ、僕が上に報告したら君を懲戒解雇することも出来るよね」
「や、それだけは…!盗撮していたことは謝りますし、この写真は全て処分します。もちろんデータも全て消去して金輪際五条さんには関わりませんので…どうか…」
「君の言葉を僕が信用すると思う?ほとんど話した事もないし、ストーカーだしねぇ」
「それは…」
「ま、ぶっちゃけ僕としては君が辞めようが続けようがどうでも良いんだけどさ。君が僕に実害を与えるなんて出来ないし。ただ職場にストーカーが居るってのは気分悪いからさぁ、上に報告しない代わりに君は今後一切僕に関わらないで。補助監督としての同行もナシ!すれ違っても挨拶とかしなくて良いから」
そう言って足元に散らばった自身の映る写真を全て拾った五条さんは足早に去って行った。
その場に残された私は、小さくなっていく五条さんの背中をただ見つめることしか出来なかった。
◇
昨日のことを思い出して涙が滲むのを感じた。枯れたかと思う程泣いたのに、どうやらまだ涙は出るらしい。
この調子ではどうにか外に出られたとしても、いきなり泣き出してしまうかもしれない。
外に出たい気分でもないし今日は家に籠っていることに決めた。
それよりも、問題は明日からについてだ。
職場で五条さんと顔を合わせた時どんな顔をしたら良いのだろうか。
今後一切関わらない、挨拶もしない、という提案をしてきたと言うことは、五条さんは今回のことを見過ごす代わりに私を存在しないものとして扱う、ということだろう。
今までも世間話をするような仲では無かったけれど、すれ違えば挨拶はしたし任務に関する必要最低限の会話くらいは出来ていたのに、これからはそれすら叶わない。
これを機にきっぱり諦められれば楽になれるのかもしれないが、数年抱え込んで拗らせた想いは簡単に忘れられそうに無い。
何せこっそり撮った写真を現像してプリントアウトしてしまうくらい、更にはそれをプライベート用の手帳に挟んで持ち歩いてしまうくらいには大好きなのだ。
あ、そういえば写真のデータも消してって言われてたっけ。
今後関わらないと宣言してきた以上、データを消去したか確認してくることもないだろうけど、取っておいたところでもう見返すことは無いだろう。きっとこの先ずっと、この写真たちを見る度に昨日のことを思い出して辛くなる。
端から期待していなかったが、本人に拒絶された以上好きでいることもいけない気がして、早く踏ん切りをつける為にも写真は全て消去することにした。
胸が締め付けられるような痛みを覚えながら、撮り溜めた写真たちを消していく。
撮り溜めたと言っても五条さんは鋭い人だからバレないように隠し撮りするのは至難の技で、私みたいな一介の補助監督には到底無理だった。
だから、生徒たちの演習や節目を撮影する名目で撮った写真に写りこんだ五条さんとか、数枚連写する中の1枚だけ五条さんにフォーカスを当ててこっそり撮る、だとかして何とか撮ったものが数枚あるだけだ。
これは私に盗撮じゃなくて偶々写った、撮れてしまったものだという言い訳を与えてくれたし、あの五条さん相手に数年間バレないままやってこれたのだ。
これが良くないことだというのは分かっていたし、いつかは辞めなくてはいけないと分かっていた。
だけど、まさかこんな形で終わりが来るとは思ってもいなかった。
写真のデータと共に私の想いも全て消えてしまえば良いのに、と願いながら、全てのデータを削除した。
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