愛した人が自分と同じ気持ちでいてくれる。
それがどれだけ奇跡的なことか、私は身を持って知っている。報われないと解っていながら想い続けることの虚しさも。
物心が付いた頃には既に漠然と自分の未来は見えていた。
可憐であること、淑やかであること。それが私にとって最も大切なことで、やがて成長と共に美しくあること、聡明であることがそこに加わった。
私に最も大切な四つのこと。それら全てを持っている私の母は、常に完璧な妻であり母であった。
使用人の中には母を大和撫子だと言って持て囃す者もいたが、私はそうは思わなかった。
母にはナデシコのような凛々しさなど、一片足りとも有りはしなかったからだ。
どの角度から見ても美しい完璧な微笑みの下には恐怖が隠されていて、おくびにもそれを出しはしなかったが、私だけは気付いていた。
しかし母が何に怯えているのか、私には分からなかった。
優しい父、美しい母、楽しい兄。
その頃の私にとって、家族の形は完璧で、怯えるものなど何ひとつ無かった。
だから私は信じていた。幸せとは、母のように妻として母として完璧であることなのだと。
いつか自分も幸せなお嫁さんになりたい。母の様に完璧な妻として、母として家族を守りたい。
そう無邪気に願っていたその頃、父が私の婚約を成立させた。
家同士で勝手に決めた婚約、というと世間一般的に良いイメージはないだろうが、婚約の話を聞かされた時私は大層喜んだ。
それは育った環境故に自分は恋愛結婚とは無縁だと悟っていたこともあるが、何よりも相手が"あの"五条悟だったからだ。
呪術界で五条悟を知らない者は居ない。それくらい彼は有名人だった。
五条家に数百年ぶりに生まれた六眼と無下限呪術の抱き合わせ。そしてこの世の者とは思えない程の美貌。彼の噂はよく耳にしていた。
そんな彼との婚約成立を父も母も兄も、使用人さえも喜んで、その日は宴会が行われた程だった。
彼との婚約は名誉ある素晴らしいことなのだと私も嬉しく思ったし、その後行われた悟様との顔合わせで美しいかんばせに見事に心を奪われ、嫁ぐ日を夢見るようになった。
悟様は誰に対しても関心が無さそうで、私にも優しく声を掛けてくれることは無かったけどその心をいつか溶かすのは自分だと信じていた。
悟様との婚約が成立したことで花嫁修業が始まり、私の毎日は慌ただしくなった。
家事炊事は勿論、針仕事や庭の手入れに至るまで細かく教え込まれた。
満足に遊ぶ時間さえ無い毎日は幼い心を蝕んだが、それでも耐えられたのは、いつか来るその日を夢見ていたからだ。
彼の隣に立って恥ずかしくない妻になることは、私にとって夢であり、全てだった。
そんな私の夢であり全てであった悟様と私は今、レトロな喫茶店のテーブル越しに見つめ合っている。
見つめ合っている、と言っても私達を取り巻く空気は決して甘いものでは無く、ピリピリと張り詰め緊張感が漂っている。
ただ一人、悟様の隣に座る女を除いて。
「悟君、こちらの方は…?」
「あぁ、"コレ"は僕の婚約者。…解消の申込はもうしてあるから、"元"婚約者かな」
「え、あ、悟君婚約者がいたの?やだ、私、何も知らなくて」
「知らなくて当然だよ。黙ってたんだから。それに形だけの婚約者で僕達の間には何も無いから。ね」
「…えぇ、そうですね。お久しぶりです、悟様。其方の方が仰っていた恋人さんですか。」
「うん」
「どうも、初めまして。本日は遠路遥々──」
「あー、いい、いいからそういうの。お前に会いに来たことがメインじゃないから。京都旅行、ついでに僕の実家に顔見せて、お前はついでのついで」
「左様ですか。それでも悟様のお顔が見れて私、とても嬉しいです」
「やめろ、マジで。彼女の目の前で。」
冷えた声でそう言った、私の"元"婚約者。
つい一週間前、私宛に届いた手紙には婚約解消の旨が書かれており、私達の関係は一方的に終わりを迎えた。
本来、婚約することも婚約の解消も双方の同意が無くては成立しないが、私達の場合は特殊だった。
悟様は言わずもがな御三家がひとつ五条家の現当主であり最も優れた呪術師。
私の実家も御三家には及ばないが旧華族の流れを汲む由緒正しき家柄で、過去には強い呪術師を何人も排出しているとか。
近年は中々才能に恵まれず目立った功績を残せていないが、それでもこうして悟様との婚約を成立させられるくらいの影響力はある。
しかし、徐々に変わり行く呪術界の中で、家柄だけで大した功績のない当家が失脚する日も遠くは無い、と焦った父が方々に根回しをしてどうにか取り付けたのが悟様と私の婚約。
私は格上の五条家に"選んでもらった"立場であり、私と悟様は対等な関係では無い。
此方──例えば私の私情で一方的に婚約を解消することは許されないし申し付ける権利すらないが、悟様は一方的に婚約破棄出来る立場にある。
今回、完全なる悟様の私情で婚約解消に至った訳だがそのことについて悟様を咎めるものは居なかった。咎められない、とも言うが。
そんな訳で、私達の関係は手紙一枚であっけなく終わったのだった。
「それで、君のお望み通り最後に会いに来たけど。話したいことって?」
「大した話は無いのです。ただ、最後に悟様とお茶をしながら他愛もない話がしたくて」
「ハァ……くだらな。ま、でも僕も鬼じゃないからね。少しくらいなら付き合ってあげるよ。一応これでも一方的に婚約解消したことに罪悪感は感じてるんだ。お前もう25、6だっけ?」
「27歳にございます」
「あぁ、そう。それでほら、27なんてこの世界じゃ行き遅れだし僕のお古なんて誰も引き取りたくないでしょ。一生、五条悟に捨てられた女ってレッテルが付き纏う女を嫁にしたい物好きなんて居ないだろうから。そういう意味では申し訳無いと思ってるんだよ」
悟様の言う通り、27の私はもう行き遅れた年増だ。世間一般的にはそうでは無いということは知っている。むしろ、これからが適齢期だということも。
しかし、呪術界ではそうではない。
忌むべき慣習、古臭い価値観が強く根付いた呪術界において、名実共にトップである五条悟に捨てられた27の女など、凡百悪意の的になるだろう。
そんな女を誰が好き好んで娶るというのか。
私も産まれながらにして生粋の呪術界の人間であるから、今後の扱いが手に取るように分かった。
悟様も勿論、今後私がどんな人生を歩むのか分かっているだろう。
だから、それを利用した。
最後にお願いを聞いて欲しいと強請ったのだ。これまでなら聞き入れて貰えなかったであろう願いを悟様が聞いてくれたのは、間違いなく多少なりとも私に対する罪悪感を感じているからだろう。
そんな悟様の良心に付け込んだ最初で最後の我儘は、"お茶をしながら話がしたい"というものだった。
何も打算は無い、最後にひとつだけ思い出が欲しかった。
悟様がその願いを聞いてくれたなら私が東京に出向くつもりであったのに、此方に足を運んでくれると知った時は悟様の中にほんの少しでも私に対する情があったのかと嬉しく思った。
結果として悟様は婚約解消に至った原因の恋人を連れて私の前に現れ、これは"ついでのついで"だと言い放った訳だが。
「悟君…そんな言い方駄目だよ。それにまだ27歳なんて全然若いじゃない。悟君の元婚約者さん、とってもお綺麗だし幾らでもお相手は見付かりますよ!」
困ったような笑顔を浮かべて可憐な声で話す悟様の恋人は、成程確かに可愛らしく呪術界の深淵など知りもしなさそうだ。
でなければ、幾らでも相手が見付かる、だなんて励ましにもならない言葉が出てきたりしない。
恐らく呪術師家系の出ではない彼女なら幾らでも恋愛が出来ただろうに、どうしてよりによって悟様と結ばれたのだろうか。
悟君、だなんて、約十年間婚約していた私ですら呼んだことがない。敬語を崩したこともない。
それをこの女はいとも容易く叶えてしまった。
羨ましくて、憎い。
「オマエは一般家庭出身だから分からないだろうけど、呪術界ってのは色々遅れてるんだよ。女の幸せは結婚して夫を支え強い術師を産み育てること、なんて未だに皆思ってんだから。コイツだって一度も外に出ないで家で花嫁修業だけしてたし、結婚する為だけに今迄生きてきたと言っても過言じゃない」
その通りだ。呪術師としての教育も、女に学はいらぬと勉強の機会も奪われ、必要最低限の知識と常識、それ以外は全て女として妻として母として生きる術を叩き込まれてきた。
そこまで解っていたのなら、どうして。
「幸せで御座いましたよ。いつか悟様の元に嫁げる日が来ると思うと、辛い花嫁修業にも耐えられました」
「何が辛い花嫁修業だよ、良いご身分だよね全く。僕達は命掛けて戦ってんだから花嫁修業如きで辛いとか抜かさないでくれる?」
「失礼致しました。配慮が足りておりませんでした」
「僕さ、お前のそういう所も昔から嫌いなんだよね。自分の意見が無いところ。何でもかんでも僕の言うこと聞いてすぐ謝って。プライド無いの?」
「プライドを持つように教育されておりませんので」
「…はー、気色悪。で、まだ話したいことある?僕達そろそろ旅館にチェックインする時間なんだけど」
「そうでしたか、お忙しいところ足止めしてしまってすみません。では最後にひとつだけ…悟様は、私と婚約していた間、一度でも私のことを"好い"と思ってくださったことはありましたか?」
「無いね」
「左様でございますか。……私は悟様のことを、お慕いしておりました。家同士が決めた婚約でしたが、私は嫁ぐ日のことを心待ちにしておりました。長い間、夢を見させていただいてありがとうございました。どうか、お幸せに」
「言われなくても幸せになるよ。お前もお幸せにね。ま、無理だろうけど」
悟様はそう言うと席を立ち、左手で伝票を、右手で恋人の手を絡め取り去っていった。
お会計、私の分まで払ってくれたのかな。嬉しいな。なんて、この期に及んで的外れなことを考えてしまうのは、これで完全に悟様との縁が切れたということを受け入れられないからだろうか。
私が受け入れようと受け入れまいと婚約解消は事実で、悟様が新しい恋人を連れて五条家に帰省したことは瞬く間に噂となって呪術界に広がることだろう。
これから私を待ち受けるのはとてつもなく惨めな毎日だ。
既に婚約解消の旨が書かれた手紙が届いた日から実家での扱いは酷いものになっている。
凡そその屋敷の娘とは思えない振る舞いに、既に心が折れかけている。
これでも一応、蝶よ花よと育てられてきた。
先述した通り学ぶ自由や尊厳は奪われてきたが、間違いなく大切にされていた。
しかしそれが"私"だからでは無く、"五条悟の婚約者"だからだと気付いたのは愚かにも婚約が解消された日だった。
あの頃、母が何に怯えていたのか、私は知った。
このまま、何処か遠くへ消えてしまおうか。
生きていく目標も意味も失ってしまったのだから。
仲良く二つ並んだコーヒーカップが、"消えてしまえ"と囁いた。
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