朝焼けが見事な空を見上げながら、冷えきった指先を温める為に自身の息を吹き掛けた。
はぁ、と吐き出した息が白く濁ったのを見て、季節の巡りを実感する。
いくら日が短くなったとは言え、まだまだ早朝に分類されるこの時間に学生を任務に駆り出すなんて呪術界は本当に終わってるなぁ、と思う。
卒業したらさっさと辞めてやろう。
これは入学してから何度心に決めたか分からない。
一般家庭、それも貧しい家庭で育った私は進学すら危うかった。
自分にだけ見えるおぞましい生物や、それを追い払う不思議な力を活かす場所があるなんて知らなかった私は、中途半端に進学するくらいならさっさと働いて家に金を入れろ、と言う母に従い就職する気でいたのだが、中学3年生の秋、夜蛾学長にスカウトされたことで呪術高専へ進学することが出来た。
初めは高専への入学を渋っていた母だったが、入学金学費その他諸々無償、寮付き、おまけに学生の身分でありながら任務に出れば給料が貰える、という条件を聞くや否や手の平を返したように入学に賛成した。
毎月実家に仕送りをする、という条件付きではあったが私にとっても高専へ入学することは魅力的で、仕送りの条件は受け入れた。
そうして希望に満ち溢れて入学したこの呪術高専は、想像していた数倍、数十倍もブラックな環境の学校で私の憧れたスクールライフとは程遠い、任務と学業に忙殺される学生生活だった。
絶対辞めてやる。始めてそう思ったのは多分入学して二ヶ月くらい経った、任務が増え始めてきた頃のことだった。
三年生になりあの頃より等級が上がって場数も踏んだ今の私からすれば生易しい量なのだが、あの頃の私にとっては放課後も土日も、時間すら関係無いことが苦痛で仕方無かったのだ。
強くなって等級が上がったら効率良く祓って早く帰れるようになるのかなぁ、なんて思っていた二年前の私に、等級が上がったらその分難しい任務が宛てがわれるし簡単な任務なら数を入れられるので結局早く帰れることも休みが増えることも無いんだよ、と教えてあげたい。
「……呪術師しんど…」
悴む両手を擦りながら、既に予定より五分遅れている送迎の車を待つのだった。
◇
「あー…眠い…ちょっと限界かも、早退しようかな」
「サボりかよ」
「サボりとは人聞きの悪い…こちとら明け方から起きてるんだからね」
「俺なんか高専帰ってこれたの12時だぞ。報告書書いたり何だかんだして部屋戻れたの結局1時。俺の方が眠いって」
「寝不足で張り合おうとすんのやめてくんないかな」
今朝の任務は楽勝だった。一瞬で終わったせいで同行の補助監督さんがびっくりするくらい。
本来なら喜ばしいことなのだけど、今日はそうでは無かった。
何故なら、時間が掛からなかったせいで始業時間に間に合ってしまったのだ。
部屋に戻って二度寝するには時間が足りなく、かと言って教室へ行ったところですることも無い。
だからと言って多忙な補助監督さんを無駄に拘束する訳にもいかないので、大人しく車に乗り高専へ戻る他ない。
結局始業時間の40分前に高専に着いて、同期達が来るまで教室で報告書を書くなどして時間を潰した。
これが少し手強い敵で祓うまでに1、2時間要したなら午前授業免除の可能性もあったのに、ただ登校前に一件任務をこなしただけの真面目な生徒になってしまった。
案の定、お昼ご飯を食べてお腹が膨れた私は強烈な睡魔に襲われ船を漕ぐ羽目に。
限界だから早退したいと漏らせば労りの言葉より先に張り合ってくる同期と、そのやり取りを苦笑いで見守るもう一人の同期。
二人ともイイ奴だし一緒に居て楽で、二人が同期で良かったと心底思っている。強いて言うなら同性の同期が居ないことは少し寂しいけれど。
「あー…女の子の同期が欲しかったな…もっと優しくてこういう時労わってくれるような…」
「呪術師の女なんて皆気が強いでしょ」
「言えてる。…あ、でも一年の女子は優しそうな雰囲気だったよな。名前忘れちゃったけど」
「そうそう!あの子優しそうだよねぇ。何て言うか、良い子っていうのがヒシヒシと伝わってくるっていうか。あー、一年が羨ましい!あんな可愛くて優しそうな女の子が居て更に担任は"あの"五条先生だよ!?」
「出たよ、名前の五条先生好き」
「だってカッコイイじゃん五条先生」
「顔が?俺、顔見た事ねぇけどさ」
「私も顔見たこと無いんだけどさ、包帯してても伝わってくる顔の良さ、あのスタイル、おまけに家柄良しの最強とか惚れない方が無理っしょ!」
「惚れてんの?」
「嘘、惚れてはない。ファン」
「だよなー。惚れたって勝算ねーからファンくらいの距離感でいた方が傷付かなくて済むわな」
「勝算無いは酷くない?五条先生が担任だったら私にもチャンスあったかもしれないじゃん!」
「担任が俺で悪かったなー、ほら席着けー」
「うわぁ!鈴木先生!」
「あと五条はああ見えて案外倫理観あるから生徒に手は出さないと思うぞー、つまり担任が俺じゃなくて五条だったとしても名前は勝算無しだな」
「もう、現実突き付けるのやめてください!夢くらい見させてくださいよ!」
「俺は現実主義なんでな、よし早速小テストやるぞ」
「うえ、小テストとか聞いてないっすよ!」
「言ってないからな」
「マジかよー」
配られた藁半紙のプリントを恨めしく見遣りながらペンケースからシャープペンシルを取り出す。
気の置けない同期二人に、気さくな担任。私はこの学年をとても気に入っているが、それでもふと思わずにはいられない。
五条先生が担任だったら、何てことはない日常が全てキラキラと色付いて見えるのだろう、と。
憂鬱な小テストさえも、五条先生があの心地好いテノールで語り掛けてくれたら、喜んで取り組めるのだろうな、と考えたが、テスト開始の合図でそんな煩悩は掻き消された。
◇
「あ、五条先生だ」
「お、マジじゃん。って、あれ、こっち来る」
「え!?嘘うそ、うわあ本当だヤバい来た」
呪術高専内には自販機が幾つもある。敷地が広いので当然と言えば当然だが、ただ数があるだけではなく飲み物の種類の豊富さが私はとても気に入っている。
中でも校庭に繋がる中庭に数台纏まって並んでいる自販機は私達のお気に入りのジュースがあって、時間がある時はここまで買いに来るのがお決まりだ。
今日もまた昼休みに入ってすぐに三人で自販機までやってきたのだが、同期の視線の先には五条先生が居て、何故か此方に手を振っていた。
勿論ここには私達の他には誰もいない。そして私達は揃いも揃って五条先生との接点が無い。
つまり、誰も手を振られる心当たりが無いのだ。
お前?お前じゃね?いや私かも、なんて突き合っていると、何と此方に歩いてくるでは無いか。
いよいよ無視は出来ない。しかし誰も心当たりが無い。
ついに数メートルの距離に五条先生がやってきて、そして形が良ければ色艶も良い唇を楽しそうに釣り上げて言った。
「お疲れー。苗字、ちょっと良い?」
苗字、苗字とは誰の事だろう。私と同じ苗字の人、他に居たんだぁ。なんてふざけるのはここまでにして、五条先生に会釈する。
「あ、えと、何でしょうか…」
「急なんだけどさ、この後一年達と任務行ってくんないかな」
「え、それは構いませんけど私で大丈夫ですか…?」
「君が良いんだよ。凡庸な人間の戦い方を一年に見せてやってほしい」
凡庸、という響きに同期二人が吹き出したことには気付いたが、今は触れないでおいてやろう。
「…分かりました。頑張ります!」
「ありがとう〜よろしくね!」
それだけ言うと私達の脇を通り過ぎ歩いていってしまった。相変わらず自由な人である。そこも格好良いのだけど、それはそうとしてさらっと失礼なことを言わなかっただろうか。
「…凡庸て」
「まぁ、非凡な才能では無いけどな」
「…今年の一年生って皆優秀だったよね。私に教えられることなんて無いと思うんだけど」
「感覚派の子が多いからこそ、じゃないか?こういう戦い方もあるんだぞ、って」
「そういうこと…?」
五条先生は言葉が足りない。そして私達は五条先生との関わりがあまりにも少ないせいで、幾ら考察してみたところで五条先生の真意は図り兼ねる。
それでも憧れの五条先生きっての頼み事とあれば期待に応えたくなるというもの。
「凡人の努力の賜物を見せてやるか…」
そんな私の呟きを茶化した同期と笑い合う様子を五条先生が見ていたことに私は気付かなかった。
◇
憧れの五条先生きっての頼みであった一年生の任務同行は、滞りなく終わった。
というより、私の出る幕は殆ど無いまま終わってしまった。
"凡庸な人間の戦い方を見せて欲しい"だなんて言うものだから私が先頭を切って戦うものだと思っていたのだが、いざ現場に着き帳が降りると、一年生二人はずんずん進んでいった。
一年生二人にはサポートをお願いしたい、と伝えても、「でも私達の方が先輩より強いですよね」と言われてしまえば情けなくもそれ以上は何も言えなかった。
これ、私来た意味ある?と終始思っていたし、一年生の紅一点である後輩が意外にも気が強かったことにも驚きつつ、戦い方を見てその才能に溜息が漏れた。
しかも今年の一年生は四人居るのだが、その全員が術式に恵まれており将来有望な術師だ。
良くも悪くも"普通"の私達三年生からすれば、自信と誇りに満ち溢れている一年生達は眩しすぎた。
才能があるから五条先生の受け持ちなのか、五条先生が受け持ちだから才能が開花したのか。
「そういえば先輩は五条先生に頼まれて私達に着いてきてくれたんですよね」
「うん、そうだよ。何の役にも立てなかったけどね」
「どうして五条先生は苗字先輩にお願いしたんですかね。苗字先輩って五条先生と仲良いんですか?」
「まさか!殆ど話したことも無いよ!」
「そうですよね。私、先輩と先生が話してるとこなんて見た事無いですもん」
「一度も担任になったことないしね」
「話したことはあるんですか?」
「あるよ。えーっと、医務室で家入さんに怪我を診てもらってる時に偶々五条先生が入って来て──…っていうか、医務室でしか話した事無いかも。でも結構な確率で遭遇するんだよね。五条先生、家入さんと同期だからよく医務室で世間話とかしてるのかな」
「……そうなんですね。なんか、医務室に入り浸ると家入さんに邪魔だって怒られる、って言ってましたけどね」
「そ、そうなんだ…」
彼女の表情が明らかに暗くなったのが分かった。これは、あれだ。
「…ねぇ、もしかして五条先生のこと、その、好きだったりする?」
「え」
「いや、うーんほら、もしかして私が実は五条先生と仲良いとか勘違いして嫌な気持ちになってるのかなー、なんて。違ったらごめんね!」
「……いえ。まぁ、当たり、です…」
「あ、やっぱり!?五条先生格好良いもんね〜」
「え。先輩やっぱり、」
「違う違う!そういうんじゃなくて!何て言うかなぁ、ファン…?憧れてるのは確かだけど好きとは別だよ」
「ファン…」
「そう!だって五条先生って現代最強って言われてるんでしょ?数少ない特級呪術師の一人で五条家の当主でありながら教師でもある、とかカッコイイじゃん!しかもスタイルめっちゃ良いし包帯してても滲み出る顔の良さ…!憧れるなって言う方が無理あるもん!」
「す、凄い熱量ですね…え、それで好きじゃないんですか?」
「うん。好きではない」
「へー…まぁ、じゃあそういう事にしておきます…」
「そういう事にしておくも何も、本当に全く恋愛的な意味では好きじゃないからね!?」
「分かりましたって。じゃあ、先輩は五条先生のこと好きじゃないってことで、これからは私に協力してくださいね」
「協力…?それは全然構わないけど、五条先生と何の接点も無いし協力してあげられることがあるとは思えないけど…」
「医務室でバッタリ会った時とかで良いんで何気無く私のことプッシュするか私のことどう思ってるか聞いてみてください。あ、五条先生と話す機会がなかったら無理に話し掛けたりはしなくて良いんで」
「う、うん。分かった。それくらいなら私にもできそう」
「よろしくお願いしますね」
任せなさい!と胸を張ってみせたこれは、五条先生がやっていたものだった。
私がまだ高専に入学したばかりの頃、当時五条先生は二年生の担任だった。座学の授業中、何となく視線をやった校庭では五条先生が体術を教えているところで、何やら楽しそうに話をしているのが見えた。
それは授業なのか雑談なのか分からないほど和やかな様子で、あの先生が担任だったら楽しそうだなぁ、と思ったことを覚えている。
余談だが目元を隠す包帯については、呪術って何でもアリだからあれも術式のひとつ?的な、まぁ何にせよ呪術が絡んでるんでしょ、と思っていた。近からず遠からずである。
話が逸れたが、そうして校庭で楽しそうに授業をしていた五条先生が、"任せなさい!"と胸を叩きふんぞり返って言った姿があまりにも面白くて可愛らしくて、私はそれから密かにこれを真似している。
「あ、それ五条先生がやるやつだ」
「お、流石!前これやってるの見掛けてからこっそり真似してるんだよね」
「ふぅん…先輩、本当に五条先生のファンなんですね…ていうかちょっと聞いて欲しい話があるんですけど──」
それから高専に戻るまでの間、車中は後輩ちゃんの五条先生への熱い思いと惚気のようなものを聞かされる空間と化した。
もう一人の一年生は助手席で優雅に眠り、運転席の補助監督さんは我関せず、聞こえないふり。
私だけが後輩ちゃんの恋バナに付き合わされ、高専に着く頃にはぐったりだった。
「お疲れサマンサー!」
「あ!五条先生!お疲れ様ですっ」
「皆怪我は無い?…うん、元気そうだね」
「パパーッと祓っちゃいましたから!」
「あれ?僕は苗字の戦い方をしっかり見てくるようにって言ったのに自分でやっちゃったの?」
「えっと…それは……」
「あ、すみません。私がモタモタしてしまって一年生二人に戦わせてしまいました。自分の不手際です」
「…ふぅん。ま、いっか!全員無事だった訳だし任務はいつでもあるから苗字にはまた戦い方を見せてもらおう!じゃ、頑張ったご褒美にご飯行こうか!グレートティーチャー五条先生が何でも奢ってあげるよ〜」
「え!やったぁ!先生とご飯久しぶり!」
「あー…あの、私は遠慮しておきます…」
「え?なんで?」
「いやぁ、あの、あ!予定が!同期達と予定があって!」
「…なぁんだ、そっか。残念だね。じゃあ苗字はまた今度ご飯行こうね」
「あ、はい!是非!っと、じゃなくて予定が合いましたらよろしくお願いします!では私はこれで!」
五条先生とご飯だなんて、あまりにも魅力的なお誘い。正直、めちゃくちゃ行きたい。
同期達と予定があるなんて嘘だ。というか仮に本当に予定があったとしてもそれを蹴ってでも行きたい。
断ったのは後輩ちゃんから"断れよ"という圧を感じたから。五条先生にはにこにこと愛らしい笑顔を見せておきながら、背中で私に語り掛ける。"先輩は断ってください"と。末恐ろしい女である。
女の嫉妬は恐ろしいからね〜、と、小さく呟いた言葉は誰にも拾われることは無い。
背後から聞こえてくる楽しそうな声に後ろ髪を引かれながら女子寮へ向かって歩いた。
◇
「で、食事は断って帰ってきたって訳だ」
「だって凄い圧感じたんだもん。それに私は別に一年生とも五条先生とも仲良くないしまぁ良いかな、って」
「本当は?」
「行きたかった!五条先生と仲良くなれるチャンスだったのに!」
「ガハハハハ!もう二度とこんなチャンスねぇのに勿体ないなー」
「何が勿体ないってー?」
「鈴木先生!」
「おはよう」
「おはようございます」
「それで何が勿体ないんだ?」
気配も無く教室に入ってきたのは私達三年生の担任、鈴木先生だった。
鈴木先生は五条先生より二歳年上で、元々は京都校に所属していた。高専在学中は京都校だったこともあり五条先生との関わりは殆ど無かったらしいけど、曰く"すんごいクソガキ"だったらしい。
鈴木先生は飄々とした態度や物腰の柔らかさがどこか五条先生に似ている。
今日もまた教室に入るなり私達の雑談に混ざってくるのだから教師というより同期のようだ。
「コイツ、五条先生とのご飯チャンス逃して凹んでるんですよー」
「凹んではない!」
「何だ、そんな事ね。それなら俺が今日の放課後メシ連れてってやるよ」
「えぇ、いやご飯が食べに行きたかった訳じゃなくて五条先生と、っていう所が重要で…」
「あーあ、今日は焼肉連れてってやろうかと思ってたのになぁ…」
「嘘です!ごめんなさい!鈴木先生とご飯行きたい!楽しみ!」
「現金なヤツだなぁ。じゃ、今日は焼肉な。よし授業始めるぞー」
その言葉を合図に各々筆記用具を取り出し、先生は教壇に立ち授業の準備を始める。
ちゃんと成長期の私は五条先生とご飯に行けなかった悲しみより鈴木先生の奢りで焼肉にありつける喜びの方が勝った。
結果的に焼肉にはありつけるのだが、私の想像とは全く違うことになるということをこの時私はまだ知らない。
◇
焼肉屋の匂いというのは、どうしてこうも食欲をそそられるのだろうか。
焼肉の為に昼食もおやつも抜いた私の胃袋はただでさえ空っぽだと言うのに、この匂いを嗅いだ途端鳩尾の辺りがきゅう、と締まったような感覚がした。
同期でよく行く食べ放題の焼肉チェーン店とは違って、店の佇まいから高級感溢れるその店は自分では決して行かない、いや、行けないお店だ。
食べ盛りの私達がこんなお店で満腹になるまで食べたらお会計が恐ろしいことになる。
いくら術師としてお給料を頂いていると言っても等級に見合った給料しか貰っていないので、下手したらこの一食で一月分のお給料が全て消える可能性がある。
今こうして質の良さそうな椅子に腰掛けていられるのは勿論、先生に連れて来て貰ったからなのだけど。
「さぁさぁ、遠慮せず好きなだけ食べて!まずは何頼む?カルビ?」
「あ!俺カルビとタンも食いたいッス!」
「勿論良いよ〜!二人も食べるよね?とりあえず10人前頼んどく?」
「ありがとうございます!」
「良いよ良いよ〜、てか君達良い子だねぇ。こんなに感謝されるのいつぶりだろう…」
そう言って目元を抑えたのは私達の担任、鈴木先生、では無く、五条先生だった。
どういう訳か私達三年生三人は五条先生の奢りで焼肉に来ている。
事の発端は約一時間前に遡る。
授業を全て終えた放課後、私達は約束通り教室で先生を待っていた。
しかし10分経っても20分経っても先生は教室に現れない。緊急で任務が入った可能性もあるが、それなら私達の誰かに連絡がある筈だ。
「鈴木先生全然来ねぇけどまさか忘れてる?」
「有り得る…あと五分待って来なかったら呼びに行こう」
任務なら仕方ないが、忘れていた、は許されない。私達の口もお腹も肉を欲している。
仮に先生に任務が入って行けなくなったとしても、行き付けの焼肉チェーン店に行こうと決意しているくらいには焼肉一色だ。
どちらにせよ早く分かってくれないと、そろそろお腹と背中がくっ付くぞ、と誰に向けてか分からない威嚇をした時、教室の扉が勢い良く開いた。
「お、集まってるね」
「え、五条先生!どうしたんですか?」
「いや実はね、鈴木さん急な任務が入っちゃって出なきゃいけなくなっちゃってね」
「わーマジか…」
「で、君達鈴木さんに焼肉連れてってもらう約束してたんだって?」
「そうなんですよ…まぁ、任務なら仕方ないね」
そう、仕方が無い。呪術師ならこんな事はザラにある。呪霊はこちらの都合など関係無しに365日24時間、いつだって発生しては人に危害を加えるのだ。
とは言え残念なものは残念である。
明らかにテンションの下がった私達を見て、五条先生はわざとらしく、フッフッフッと笑った。
「そんな君達に朗報!鈴木さんの代わりにこのグレートティーチャー五条先生が焼肉に連れてってあげようじゃあないか!」
「え。え?五条先生が…?」
「ほら、昨日のお礼、苗字に出来てないでしょ?」
「お礼って…一年生の任務に同行したことですか?」
「そう。本当はさ、昨日お礼の意味も込めて食事に誘ったんだけど君予定あるって帰っちゃったでしょ?だから今日改めてお礼させてよ」
「い、いや!お礼なんてそんな…私何の役にも立ってないですし」
「そんな事ないよ。まぁ、昨日はウチの二人が張り切っちゃったみたいで苗字の出番は無かったようだけど、また機会があったらお願いしたいと思ってるし、ね?」
「…そういう事なら…」
「え、でも俺達も付いてって良いんすか…?俺達何にもしてないのに…」
「良いの良いの!皆で食べる方が美味しいでしょ!ほら、そうと決まったら早速行くよ!君達、お昼抜いてるんだしお腹ペコペコでしょ」
「何でそれを…!」
「鈴木さんが泣いてた。アイツらどんだけ食うつもりだよ…って」
職員室で嘆く鈴木先生の姿が目に浮かんで私達は大笑いした。軽口を叩き合いながら教室を出て四人で並んで歩いていく。
こうしていると自分達が五条先生の生徒になった気がして、夢がひとつ叶ったような、そんな気持ちになった。
同期二人と肩を並べて私の少し前を歩く五条先生を見上げながら、やっぱり格好良いなぁ、なんて思っていると不意に振り返り目が合った、気がした。
慌てて逸らした視線の端で、五条先生の唇が小さく微笑んだのを私は見逃さなかった。
そんな訳で担任でもなく、ついこの間まで殆ど関わりのなかった五条先生に焼肉に連れて来てもらっているのだが、まさかこんなに良いお店に連れて来てもらえるとは思わなかった。
流石は特級術師且つ五条家の当主様だ。
「うわー!すっげぇ美味しそうな肉…なんか焼かなくても食えそう…」
「流石に焼こうね〜確か君は明日任務あったでしょ。お腹壊しながら任務なんて地獄だよ〜」
「え!何で知ってるんですか!」
「職員室のホワイトボードに書いてあったからね」
「なるほど…てか五条先生、俺達のこと受け持ちじゃないのに名前知ってましたよね。びっくりしました」
「そりゃあ、これだけ人数の少ない学校だし君達が入学してから三年も経つんだから覚えてるよ」
「なんか五条先生って"雑魚のことなんて覚える価値もねーよ"みたいなタイプだと思ってたので意外です」
「僕のことなんだと思ってんの。てか何でそんなイメージな訳」
「いや、鈴木先生がいつも五条先生のこと"学生時代はクソガキだった"って言ってるんで」
「……ふぅん。あとで鈴木さんとじっくりお話しなきゃね」
「うわー!鈴木先生逃げてー!」
同期二人と五条先生のくだらないやり取りを見ながら食べる肉は最高に美味しかった。
今日で少しでも五条先生との距離が縮まるだろうか。距離が縮まったからと言ってどうという訳では無いが、これからは迷わずに話し掛けられるくらいの関係になれたら嬉しい。
そんな所を見られたら後輩ちゃんに殺されそうだが。
後輩ちゃんにバレないように話す機会があれば良いなぁ、という私の願いは思っていたよりも早く、翌日には叶うことになるのだった。
◇
「家入さーん……あれ、居ないや。マジか…包帯どこだっけ…」
朧気な記憶を辿って包帯がしまわれている棚を探していると、引き戸の開く音がした。
家入さんが戻ってきたのかと期待を込めて振り向くと、そこに居たのは五条先生だった。
「あれ、硝子居ない感じ?」
「あ、はい。居ないみたいです」
「ふぅん」
家入さんに何か用事があったのであろう五条先生は、家入さんの不在を確認しても医務室を出ていく様子が無かった。
それどころか引き戸を閉めると私の方へ歩いてくる。何事だ、と固まっていると、私の腕をじっと見たあと不意に手首を掴まれた。
「ちょ、な、何ですか?」
「怪我。任務?」
「あ、はい。でもただの擦り傷ですから」
「…ただの擦り傷って言うにはちょっと深いでしょ。包帯、巻いてあげるから腕出して」
「え、いや、自分で出来ますから大丈夫ですよ」
「いいから」
「……すみません。お願いします」
大人しく腕を出すと、慣れた手つきで消毒液を取り出した。
消毒液を綿に染み込ませ患部に当てる。ただそれだけの事なのに胸の鼓動が早くなる。
神経の全てが腕に集中してしまったように感覚が冴え渡り、五条先生に触れられた場所が擽ったく、そして熱くなる。
それを悟られないよう傷から目を逸らしていると、クスクスと小さな笑い声が聞こえてきた。
「苗字って注射の時針見れないタイプ?」
「あ、はい…見れないですね」
「やっぱり。今も全然こっち見ないもんね。怖い?」
「怖い、ですね…」
本当は全然怖くない。注射の針だって見ていられる。ただ今は、質問の意図からしてそう答えた方が話が円滑に進む。もっと素直に言えば、余計な話をしなくて済む。そう思ったから適当に答えただけだ。
「ふぅん。でもさ、自分の体のことなんだからちゃんと見た方が良いよ」
促されるまま腕に視線を戻すと、五条先生と目が合った、気がした。てっきり傷口に視線を落としていると思っていたせいで、目が合ったことに驚きまた勢い良く顔を背けてしまう。
これでは五条先生を意識している、とバレてしまう。
今のこれは憧れの五条先生に手当てしてもらったことで高揚しているのと、男性に触れられる経験が無さすぎる故に緊張してこうなっているだけで、五条先生のことが好きだとかどうとかそういう事では無いのに、こんな反応をしていては勘違いされてしまう。
せっかく少しずつ距離が縮まったというのに、"面倒なことになる前に距離置こう"なんて思われ兼ねない。
何か空気を変える話題を、と頭を回して、一昨日後輩ちゃんに頼まれたことを思い出した。
「あ、そ、そういえば!先生って、その、か、彼女とか居るんですか!?」
言ったあとで失敗した、と気付いた。こんな唐突な話の切り出し方、しかもこの聞き方じゃ、まるで私が五条先生に気があって恋人の有無を聞き出そうとしてるみたいじゃないか。
状況も相まってより一層そう聞こえるじゃないか。
「え?何、どうしたの急に。僕に彼女がいるかどうか気になるの?」
「あー、あはは、はい…いや、あの五条先生モテそうだから彼女居そうだなーって…それか許嫁とか居そうだなーなんて」
「ふふ、まぁモテることは否定しないけど彼女は居ないよ。あ、許嫁もね」
「あ、あー、そうなんですね…じゃあ好きなタイプは…いや、すみません何か変なこと聞いて」
「別に構わないよ。寧ろ嬉しいけど」
「う、嬉しい?」
「こっちの話。で、好きなタイプだっけ?そうだなぁ、強いて上げるなら見てて飽きない、一緒に居て楽しい子かな」
「へぇ…なんか意外です」
「そう?」
「もっとこう、胸が大きくてすっごい美人でスタイル良くてー、みたいな感じかと」
「まぁ昔はそうだったかもね。ていうか今も目を引くのはそういう人だけど。でもほら、あれだよ、好きになった人がタイプってやつ」
好きになった人がタイプ、は意外だった。偏見だが、五条先生は中身で人を好きになるというより外見で人を好きになるタイプだと思っていた。
というか、その言い方だとまるで五条先生には好きな人がいるかのようだ。
「…五条先生好きな人居るんですか!?」
「うん、いるよ」
意を決して質問した割に答えは随分あっさり返ってきた。私相手にここまで話してくれると思わなかった。
「お、おぉ…ちなみにその人は私の知ってる人ですか…?」
「知ってるね」
「…てことは呪術師ですね…?先生より年下ですか?」
「下だね、しかもかなり」
私の知ってる人で年下、しかもかなり、ときたらもう、思い当たるのは一人しかいない。
五条先生にきらきらした瞳を向ける愛らしい顔をした少女。五条先生が好きだと言った彼女のことを五条先生もまた好いているらしい。
何だよ鈴木先生。"五条はああ見えて案外倫理観あるから生徒に手は出さないと思うぞ"なんて言ってたくせに、五条先生普通に自分の生徒に恋してるみたいだけど。
後輩ちゃんと五条先生が両思いということを喜ぶべきで、それを五条先生もしくは後輩ちゃんに伝えるべきだと分かっているのに、私の心はそれを拒んでいる。
ちくちくと執拗い痛みが胸を刺激して、腕の痛みなどとうに忘れていた。
「…告白したら良いんじゃないですか。きっと良い返事が貰えますよ。それじゃあ、私はこれで。消毒と包帯、ありがとうございました」
ひと息で言い切り会釈をして医務室を飛び出した。五条先生が何か言いかけたことには気付いていたが、立ち止まることはしなかった。
おかしい。私は五条先生のファンなだけで決してそれ以上の気持ちは無い筈だ。
それなのにどうして胸がちくちくと痛むのか。
五条先生とあの子が仲睦まじく笑いあう姿を想像しただけでドロドロとした黒い何かが胸から溢れ出る気がする。
これじゃまるで五条先生のことが好きみたいじゃないか。
叶わない想いを抱えること程苦しいことはない。
自覚する前に蓋をしてしまい込んでしまおう。
明日からはまた以前のように遠くから眺めるだけの関係に戻れば良い。今ならまだ引き返せる。
◇
あれから私は五条先生を避けるようになった。と言っても元々殆ど関わりが無かったのだ。そこまで意識しなくとも、一年生の教室の近くを通らないだとか一人で自販機に行かないだとか、そうやってほんの少し行動を変えただけで五条先生を見掛けることはとんと減った。
寂しくないと言ったら嘘になる。
卒業を目前にして漸く憧れの人にお近付きになれたのだ。しかも私は高専を卒業したら呪術師を辞めて地元に戻るつもりでいるのだから、五条先生には二度と会えないだろう。
まぁそれでも、本来ならああやって他愛もない話をしたりご飯に連れて行ってもらうなんてことも無いまま卒業していたのだと思えば思い出が出来ただけ喜ばしいことだ。
そうしてすっかり元の生活に戻った私は、同期二人と鈴木先生と慌ただしい毎日を送っている。
今年も繁忙期を無事乗り切って、漸く涼しくなったと思えばあっという間に冬の気配がすぐそこまで来ていて、本格的に進路を考え始める時期になっていた。
と言っても呪術高専に通う生徒の殆どがそのまま呪術師になる。私の同期二人も卒業後は呪術師として高専に所属するつもりだ、と夏に行われた一回目の進路相談の時に教えてくれた。
一方で呪術師にはならずに地元へ帰るつもりの私は、今日二回目の進路相談が行われる予定だ。
それにしても、15時半から始めると言ってたくせに鈴木先生は全然現れない。
元々時間にルーズな所がある人だ。5分10分遅れてくることなどザラである。
適当に携帯でも弄って時間を潰そう、とスマートフォンを取り出した時、教室の扉が勢い良く開いた。
あれ、このガサツな感じ、鈴木先生とはちょっと違う。
「ご、五条先生!」
「や。久しぶり」
やっぱり、というか、このガサツな感じには覚えがあった。
焼肉に連れて行ってもらったあの日のことを思い出す。
「な、何か御用ですか?」
「今日進路相談なんだってね」
「はい。鈴木先生待ちです」
「それなんだけどね、鈴木さんまーた急な任務で出ることになっちゃってね。だから代わりに僕が聞いてあげるよ」
「え。何でですか?五条先生、一年生の担任だし…」
「こんなに人数少ない学校なんだからさ、必ずしも担任じゃないとダメ、なんてこともないでしょ。今日聞いたことはちゃんと鈴木さんにも共有するから」
「…分かりました」
「うん。じゃあ早速聞くけど、卒業後は呪術師にならないんだって?」
「はい。地元に戻るつもりです」
「理由は?」
「理由ですか?理由…は、」
理由なんて、"しんどいから"それ以外無かった。例えば夢が見付かった、とか、胸を張れる理由があればもう少し気楽に話せたのかもしれないが、逃げ出したいだけだなんてこの呪術界を背負い日々前線に立つ五条先生には言い出せなかった。
「しんどくなった?」
「……はい」
「別に悪いことじゃないよ。それが当たり前の感覚さ。僕みたいに生まれた時から呪術師として育てられた人間ならまだしも、君みたいに一般家庭からこの世界に飛び込んだ子にはかなりキツい世界だろうからね」
「…すみません…」
「謝ることじゃないよ。そりゃ、この世界は万年人手不足だから補助監督だろうが何だろうが居てくれた方が助かるけど。でも生き方を決めるのは自分だからね。で、地元に戻ってどうするつもり?」
「…特に決めてなくて。とりあえず、アパートを探してアルバイトしながら好きに生きてみようかな、って感じです」
「実家には戻らないんだ?」
「母とあまり上手くいってなくて…実家にはもう二度と戻らないつもりです」
「ふぅん。そっか。じゃあ就職先はこっちで探さなくて良いんだね」
「はい。……ていうか高専って普通の就職先斡旋してくれるんですか?なんか、普通の企業と関わりなさそう」
「まぁ、一般的な学校に比べたらね。でも一応あるにはあるよ。気が変わってこっちで就職するつもりになったら僕でも鈴木さんでも良いから相談してね」
「はい、ありがとうございます…!受け持ちの生徒でも無いのに話聞いてくださって、本当にありがとうございます」
「いいよ。僕も君と話したいと思ってたから。最近君の顔見かけないからどうしたのかなと思ってたんだよね」
それは私が先生を避けていたからです。とは勿論言える筈もないので、曖昧に笑って受け流すことにした。
包帯の下に隠されている数百年ぶりに生まれたという特別な瞳には私の思惑なんて全て見透かされている気がして居心地が悪い。
いまだ見た事がない、宝石の様だという瞳が、じっと私を見ている、そんな気がした。
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