一人暮らしを始めた時に、40%オフのシールが貼られていた、というだけで買った何の変哲もない壁掛けの時計が午前二時を指しているのを確認して、ベッドに潜ってから既に二時間が経ったことに気が付いた。
スマートフォンを弄る手が止められないから睡魔はやってこないのか、それとも睡魔が来ないからスマートフォンを弄る手が止められないのか──まぁ、そんな事はどうだって良い。何せ私は明日から三日間もお休みなのだ。
三連休、それは無敵になれる呪文。最悪眠らなくたって良い。この三連休は特に予定もないのだから、昼まで寝ていようが誰に迷惑を掛けることも怒られることもない。
眠ることを放棄しSNSの画面をスクロールしていると、画面上部にメッセージの通知が表示された。こんな非常識な時間に連絡を寄越す知人は1人しか居らず、そしてやはり通知はその知人の名前を表示していた。
『おつかれサマンサ〜起きてるー?』
『おつ〜起きてるよ〜』
他の友人知人からこんな夜中に"起きてる?"なんて連絡があれば急用かと慌てるが、この男、悟に限ってはそうでは無い。
『良かった〜今名前の家の前居るんだけど電気着いてないから寝てるかと思った。中入って良い?』
この通り、悟はとても自由気まま、悪く言えば自己中で勝手なヤツなのだ。
私と悟の付き合いは結構長いが、出会った頃からずっとこんな風に昼夜問わず連絡が来るし、もう家の前に居るから入れてくれだの、酷い時は何も言わずにやってきていきなりインターフォンを鳴らすのだから、もう悟が夜中に連絡を寄越そうが家の前に居ると言われようが何も驚かなくなっていた。
『いーよー。私ゴリッゴリのパジャマだし髪ちゃんと乾かしてないからボサボサだけど気にしないでね』
『そんなの見慣れてる』
『えー、いつもパジャマで頭ボサボサの人みたいな言い方しないでよ』
『大体パジャマでボサボサ』
『それは悟の夜中の押し掛け率が高いせい』
『てか着いた』
メッセージが送られてくるや否や鳴ったインターフォンは静寂に慣れた耳に痛く、夜中の押し掛けは禁止しようか本気で悩んだ。
◇
「お疲れ様ー、もしかしなくても仕事終わり?」
「会食だった。…まぁ会食も仕事か」
「ふぅん。夜中まで付き合わされたんだ。それはマジでお疲れ様だわ。」
「マジで実りの無い無駄な時間だった。さっさと帰りてーしか考えてなかった」
「あら、なのにこんな所で油売ってていいの?明日も仕事…って土曜だから学校休みかあ」
「授業は無いけど仕事は入ってんだよね」
「へえ。悟の務める高校?高専だっけ?ってマジブラックだよね」
「ブラック通り越して漆黒よ、漆黒。」
「間違いない。で、そんな社畜の悟さんは帰らなくていいの?」
「明日仕事だけど遅いからねー。最近忙しかったせいで全然ヌいてない上に今日やたらムラムラしてさ」
「それでウチに来たと。正直でよろしい」
「そんな訳だからとりあえず風呂借りて良い?」
「どうぞー」
慣れた足取りで浴室に向かう後ろ姿を見送りながら、乱れた髪を整える為ヘアアイロンを取り出した。
いくら長い付き合い、慣れているとはいえ、自分をそういう目的で尋ねてきた相手の前では一応それなりの状態でいたいのが女心と言うものだ。
悟と出会った頃はとにかくあの顔が堪らなく好きで、あの美しい瞳で見つめられるだけで、あの心地好い声で名前を呼ばれるだけで胸が高なったものだ。悟の一番になりたいと切望した時もある。本音を言えば恋人の座に着きたかったが、それがダメなら数いる遊び相手の中の一番でも良かった。
恋人の座も、遊び相手の一番も、そもそも悟に興味を失ったのは悟が誰のものにもならないのだと気が付いたからだ。
私と関係を持った時、恋人は居なかったけど私と同じようなセフレは何人か居ると言っていた。それから少しして悟には恋人が出来たが、連絡を寄越さなくなったのはほんの3ヶ月程度だけだった。それから今まで同じ様なことを繰り返しながら私達の関係が終わることは結局、無かった。
悟は飽き性なのだ。女性については特に。
恋人も、遊びの関係も、一番長くて半年、早いと1ヶ月も持たないと言うのだ。恋人が居ても女遊びを辞めないところや、恋人とセフレの境目が曖昧なところを見ていると、悟はまるで自由な猫のようだと感じた。
この人を自分のものにしたいだとか、この人の一番になりたいだとか、そんな考えが馬鹿らしく思えてから私の中の悟への恋心は消えた。
いや、そもそも悟に恋していたのか、と聞かれたらそれもまた違うのかもしれない。悟の何が好きだったのかと聞かれれば"顔"でしかないのだから。
悟への思いが吹っ切れたあとは、悟の扱いが相当雑になった気がする。別にいつ関係が終わっても良い。そんな風に気楽な付き合いを続け、気が付けばもう10年近く経っていた。セックス"を"する友達と言うより、セックス"も"する友達という感覚に近い今は、会う度に体を重ねる訳では無く、むしろセックスは数回に1回程度で、殆どは食事をするだけだったりたまに映画を見たりショッピングしたりと過ごし方は様々だった。
良い歳をしてセフレだなんだと幼稚でダサい自覚はある。だけどもう今更悟との関係を終わらせるのも恋人を作るのも面倒だった。デートもセックスも悟でこと足りているのだ。
「あれ?なーにアイロンなんかしてんの」
「んー、流石にボサボサすぎてヤバいかなぁと思って。てか早くない?ちゃんと洗った?」
「失礼な!つるつるのピカピカよ!」
軽口を叩き、クスクス笑い合いながらどちらとも無くベッドにもつれ込むこの瞬間が好きだ。ムードもへったくれも無いが、それはお互いが気を許し合っている証拠のような気がして心地好いのだ。
◇
悟の来襲から1ヶ月、私は代わり映えのない日常を送っていた。あの日、悟は事が終わるとそのままベッドで泥のように眠り、昼前に迎えの車に乗って仕事へ向かった。
黒塗りの高級車と運転席に見えるスーツを着た男性を見て、悟って本当に教師なのかな、と疑問に思ったのは今日が初めてでは無い。
しかし、そんなことはどうでも良いのだ。悟が自分は教師だと言うなら悟は教師だ。悟のことは何も、名前と生年月日以外は知らないがそれで良い。そういう関係なのだから。
しかしそんな不確かな関係に漸く変化が訪れようとしている。
悟に恋人──では無く、何と私に恋人が出来ようとしているのだ。お相手は会社の後輩。最近同じ部署へ移動してきたのだが、仕事が出来て愛想が良くてイケメンと女子社員から専ら人気の後輩から何故か言い寄られている。
先述した通り今更一から恋愛を始めるなんて面倒だと思っている私は彼の誘いを尽く断り、先輩と後輩という関係より進まないよう努めた。さっさと諦めてくれないかなー、なんて思っていたのだけど、出先でばったり出会したのをきっかけに食事をすることになり、何だかんだと話しているうちに気が付けば彼を気に入っていた。
面倒だから、と深く知ろうとしなかった彼の人となり。年下だからとどこか子供のように見ていたが、実際は私よりよっぽどしっかりしていてユーモアもあった。博識で頭が切れるタイプだから話していて飽きないし、それで顔も良いのだから女子社員から人気になるのも頷ける。
彼とだったらもう一度真剣に恋愛しても良いかもしれない。
そう思えるくらい、素敵な人だった。
「付き合ったら悟との関係は終わらせなきゃだよねー……」
しん、と静まり返る部屋の中で私の声だけが響いた。答えてくれる人は居ないのに、どうしてか静寂が『そうだ、そうだ』と私の言葉に答えているように思えて、そうだよね、とまた独りごちた。
悟に対して特別な感情がある訳では無い。いつ関係が終わっても良いと思っていた。しかしそれはあくまで悟から終わりを告げられた場合の話。私から関係を終わらせるというのは想定外で、妙に躊躇いを感じた。そりゃあ、私達に愛情は無くても、10年分の"情"はある。多少なりとも寂しさを覚えるのは当然だろう。
セックス"も"する友達からただの友達へ関係を変えられないか考えてみたが、やはり悟は少なからず私を都合の良い女だと思っているし、好きなタイミングで押し掛けることもセックスも出来ない私と友人として関係を続けていくことにメリットが無い。彼と付き合うなら悟とは終わらせる以外道は無さそうだった。
まぁ、少し寂しい気もするがきっと彼が忘れさせてくれる。そう自分に言い聞かせて次に悟がここを訪れた時、終わりを切り出そうと決めたのだった。
◇
悟が次に家を訪れたのは、最後に押し掛けて来た日から2ヶ月近く経った頃の事だった。いつも通り何の前触れも無く突然やってきた悟は当たり前のようにインターホンを鳴らし、『僕だよ〜』なんて気の抜けた声を出していた。
「久しぶり」
「おひさ〜。あれ、何かオマエ雰囲気変わったね」
「あ、分かる?実はちょっとイメチェンしてみた」
「ふーん。どんな心境の変化?」
「私もアラサーだしそろそろ落ち着こうかなって」
「へぇ。僕は前の方が好きだったけど」
「あは、でも悟の為にイメチェンした訳じゃないからね〜、別に悟の好みかどうかはどうでも良いの」
「いつにも増してキツいね〜」
「あ、そうだ。悟に話したいことあったの」
「ん、何?」
「私達、もう会うのやめよう」
「……え、何で?」
「彼氏、出来そうなの。まだちゃんと告白はされてないけどずっとアプローチしてくれてて…告白して貰えたら付き合おうと思ってる。でも悟と関係続けたままじゃ不誠実でしょ?だから終わりにしたい」
「……そう。ま、そういう事なら分かったよ。……最後の1回、ダメ?」
「……これで最後だからね」
その日、私達はこれまでの10年で一番濃厚な夜を過ごした。これで最後なのだと思うと若干マンネリ化していた筈のセックスも行為を刻むように丁寧にしていく。そこに愛は無いけれど。
だけど、私はやっぱり悟の顔は好きだったし、少しだけ、いや、結構、これで終わってしまうのが勿体ないと思ってしまった。
最低だなあ、と自虐しながら、身体は浅ましく火照り下品な声が絶えず口から漏れ出る。そうして何度目かも分からない絶頂を迎えた時、悟の息が詰まり控え目に身体が跳ね、欲を吐き出した。
普段ならそのまま二回戦が始まるところだが、今日 は気分では無いらしい。私の中からソレを引き抜くとゴムの口を縛りティッシュに包んで捨てた。互いの体液を雑に拭き取り狭いシングルベッドに縺れるよう倒れ込むと、悟がぽつりぽつりと語り始めた。
「……僕さ、彼女出来たんだ」
「ん?うん、おめでとう。それでこの二ヶ月連絡無かったんだ」
「うん……久しぶりに、ちゃんと愛せる気がした、っていうか…この子なら、って思えたんだ。だからオマエに会わなかったし連絡もしなかった」
「……ダメだったの?」
「分かんない。まだ別れてない……けど、彼女とデートしてもご飯食べてもセックスしても…なーんか、オマエの顔がチラつくんだよ」
揶揄ってる訳でも冗談でないことも悟の声や顔から察することは簡単だった。
「…私達、何気にもう10年くらいの付き合いだからね。私だって、ここ悟と来たなーとか悟だったらこれ頼むんだろうなーって悟のこと考えちゃうもん」
「そうなんだ。オマエって僕に全然興味無いと思ってたから意外」
「興味は無いけどね。ふふ、でも、10年も友達なんだから私の色んなところに悟は食い込んじゃってるんだよ。悟のそれも同じじゃない?だって私悟のセフレの中で一番長いでしょ?」
「断トツだね。オマエ以外は半年と持たないもん」
「そのうちマジで刺されるよ」
「刺されないよ」
「夜道には気を付けな」
「大丈夫大丈夫、物理的に刺せないし」
「あはは、意味わかんない」
適当で軽薄で馬鹿で、だけど心地の好い男。願わくばこのまま、宙ぶらりんな関係を続けていたい。
『もうセックスは出来ないけど、私と普通の友達になってくれる?』
なんて、自分にだけ都合の良い言葉は胸の中で消化して、私達はそれきり、連絡を取ることはなかった。
◇
高専を卒業したあと、ほんの2、3年だけマンションを借りて一人暮らしをしていたことがある。あまりの忙しさに高専で寝泊まりすることが増えてマンションに帰れる日は日に日に減っていき、最終的にはマンションを引き払い高専内の職員寮に落ち着いた。
職員寮、と言っても、ボロくて狭くて汚くて─なんてことは一切無く、それなりに新しくて綺麗で一人暮らしには丁度良い広さ。
白を基調とした造りの部屋だから、あれこれ自分好みに改造もし易いのだろうけれど、忙しさを理由にここに越した僕にそんな時間的余裕は無く、部屋に置かれたインテリアの全てはマンションからそのまま持ってきたもので、この部屋ではどこか浮いていた。
壁に掛けられたシンプルな時計もそのひとつで、飾り気の無い、洗練されたデザインが部屋の景観を邪魔しなくて良いと思ったはずなのに、この部屋では浮いている。
そんな、本来ならもっと良い所のお家で優雅に針の音を奏でていた筈の可哀想な時計が、午前二時を知らせていた。
もうこんな時間か。と思うのはいつものことで、けれどいつもと違うのは、今日は時間を持て余しているということ。
普段なら任務をこなして、家では明日の授業の準備や終わらなかった書類仕事、五条家の当主としての仕事だって無い訳じゃないし、日によってはお偉いさんとの会食だの何だのととにかく到底24時間以内に収まるわけが無い仕事量で気が付けば"もうこんな時間か"と思うのに、今日は珍しく19時に帰宅してから急な呼び出しも無く、おまけに書類仕事も授業準備も特に無く平和な夜を過ごしていた。
喜ばしいことの筈なのに、悲しきかな、多忙であることが当たり前となってしまった僕は空いた時間の使い方が分からなくなっていた。
珍しいとはいえ、こんな日もあるにはある。そんな時、今まではどうしていたのかと言うと、大抵は名前と過ごしてきた。
名前は、唯一長続きしたセフレ。いや、ただのセフレだったのは最初の1、2年くらいで、今ではセックス"も"する友達という感覚だ。
基本的には一緒に食事をしたり映画を見たり買い物したり、でも三回に一回くらいはセックスもするかな、みたいな関係。
始まりは僕が高専を卒業してすぐの頃。ふらっと入った喫茶店で、おひとり様用の小さめの席に通された時、隣の席で一人で本を読んでいたのが名前だった。
僕が椅子をひいた音に反応して顔を上げた名前は僕をちらりと見るとまた本に視線を戻した。確か、話すキッカケになったのは店員が僕の注文したものを名前のテーブルに運んだこと。
ホイップクリームの乗ったLサイズのアイスココアと、アイスクリームにホイップクリーム、それからチョコソースがたっぷり掛けられた大きなパフェ、という僕の注文した商品を自分の机に運ばれた名前はあたふたしながら『私、頼んでないです』と否定していて、『それ僕のです』と隣から声を掛ければ店員が平謝りで僕のテーブルへとそれを移動して、名前はその様子を目をまん丸くして見ていた。
甘いもの、随分お好きなんですね。と控え目に声を掛けられて、『あー、はい』なんて素っ気なく返したのに、名前は穏やかに笑って、『私も甘いもの大好きで、実は全く同じものを頼みました。私はとっくに食べおわってもう帰ろうかなと思ってたところですけど。』と言って本を閉じた。
普段なら、だから何だ、と思って終わりのはずだ。女の子なら甘党なんて珍しくも無いし、あぁそうですか、で終わる話なのにその時だけは、どうしてかこのまま二度とこの人に会えないのは嫌だと思った。当時も、今でも理由はよく分からない。直感的に何となく気が合うような、そんな予感がしたのだ。
そのあとは引き留めて雑談をして、連絡先を交換してデートして。今になって考えてみるとまるで普通の恋人達の始まり方だ。だけど、二回目のデートで肌を重ねた僕達の間に愛は無くて、あくまでも友達だった。
それから今まで十年近くもの間付かず離れず丁度良い距離感で僕達の関係は続いてきたのだ。 半年前までは。
何となく、僕達の関係に終わりが来るとしたらそれは僕からだと思っていた。何となく、名前は僕から離れていかないと思っていた。だって、名前との関係が始まってから僕には何度か恋人が出来たけれど、名前は一度だって恋人を作ったことも無ければ、恋人が出来る度に自分勝手に連絡を絶つ僕に何を言うでもなく、結局毎回半年と持たずして恋人と別れてしまう僕が何気ない顔で連絡をすると、何事も無かったかのように受け入れてくれるのだ。 名前はきっと僕を愛してはいないけれど、いち友人というには特別な情を抱いていると思っていた。
だから名前から終わりを告げられた時は柄にもなく本気で驚いた。驚いただけで、引き留めようとは思わなかったけれど。だって僕達の間には初めからずっと愛なんて存在しなかった。その曖昧で宙ぶらりんな関係を望んだのは僕。出会ってから少しの間名前が僕に好意を抱いていたことに気付いていたのに、気付かないフリをして無碍にしたのは僕。今更離れ難いなど言う権利は僕にはない。
.