自分はつくづく男の見る目が無いのだな、と自分自身に落胆しながら猥雑な裏通りを一人歩いていた。
最低、と罵り頭から水を掛けてやった恋人、いや、元恋人の顔が頭にチラつき、落ち着いた筈の怒りが沸々と蘇ってきた。それと同時に悲しみと、同じ職場なのに週明けからどうしよう、という焦りも感じた。
きちんと恋愛に向き合えるチャンスだと思っていたのに。この人なら悟を忘れさせてくれると思っていたのに。こんなことになるなら悟と曖昧な関係でいた方が余程ラクだった。
急遽予定が空いた金曜日の夜をどこで潰そうか、と悩みながらあてもなく歩いていると、前から歩いてくる三人組の男達と目が合った。たまたま目が合った、というより、じっくり値踏みするかのように私を見つめる視線が不快で、そして三人でコソコソ耳打ちする様子を見てうんざりした。頼むから声なんて掛けてくれるなよ、と願いながら視線を逸らし足早に通り過ぎようとするも、祈り虚しく男達は此方へと向かってきた。
「オネーサン、一人?」
「店探してるカンジ?」
「この辺詳しくないなら俺達が案内してあげよっか。良い店知ってるし一緒に呑もうよ」
ナンパの模範のような声掛けに思わず口元が緩んだ。決して好意的なものではなくむしろその反対であったが男達はそれを良い方に捉えたようで畳み掛けるように誘い文句を口にした。
「男3人に女1人じゃ不安かもしんないから俺らの女友達が働いてるとこ連れてったげるよ」
「オネーサンの分は勿論俺らが奢るからさ」
「てか名前教えてよ」
もう、どうでも良いかもしれない。どうせ男を見る目が無いなら敢えて乗ってやっても良いかもしれない。分かりやすく自分を消費して傷付けてそれで忘れられる傷があるならば、それでも良い。どうせ私は今までロクに恋愛などしてこなかった。恋人でも無い、高々セフレ止まりの男しか知らなかった約十年から解放されたのだから、好き勝手だらしなく生きたって良いのかもしれない。
そんな自暴自棄な考えが頭を過った時、ふわり、と嗅ぎ慣れた香りが鼻腔を擽った。
「ハーイちょっとゴメンねー盛り上がってるとこ悪いけどコイツ僕の連れなんだ。他当たってくれるー?」
「っ、悟!」
見上げた先には見慣れた、けれど今は懐かしささえ感じる顔があった。
悟は私に一瞥もくれず、目の前に立つ男達を挑発的な笑みを浮かべながら見つめている。不穏な空気が立ち込め、これはまずいのでは、と思うと同時に男のうちの一人が声を上げた。
「んだよ、男居るなら初めから言えよ」
「男居ようが居まいが女の子一人に対して複数人で声掛けて囲むなんてしちゃダメでしょ」
悪態をつく男にさらりと言い返した悟はいつものように飄々としていて、思わず悟を見上げた。
三人の男に対して此方は男一人。逆上した男達に殴られたりしないだろうか、と不安になる。私のイメージでは悟は喧嘩や暴力とは無縁だ。身長の大きさやガタイの良さは確かに迫力があるけれど、時々垣間見える育ちの良さや賢さから察するに悟は所謂不良などでは無かった、はず。たまにお坊ちゃまエピソードを披露してくることもあるし、恐らく悟は皆から一目置かれる憧れの存在のような立ち位置で学生時代を過したのだろう、と思っていた。
だからこんなに、飄々とした声が嘘のように、息苦しささえ感じる圧を放つ悟の顔を見て息を呑んだ。
「チッ、行くぞ」
男達も悟の圧に気圧されたようであっさりと踵を返し猥雑な街へ消えていった。
「あ、の…ありがとう。助かった。ていうか久しぶり」
「久しぶり。……何でこんなとこ一人で彷徨いてんの?一人で飲み歩く趣味あったっけ」
「いやー、一人じゃなかったんだよ、さっきまでね。話すと長くなるんだけど…」
「…ふぅん。で、その連れはどこ行ったの?また一人でフラフラしてたらああいうのに絡まれるよ」
「さぁ…お店に置いて出てきちゃったからお店に居るのか帰ったのかも知らない。ていうかどっちみちもうアイツのとこに戻る気ない」
「それって半年前に言ってた男?」
「そう。あのあと付き合ったんだけどね、結局ダメだった。今別れてきた。もう本当にマジでありえないくらいムカつくことされたの。ねぇ悟この後時間ある?時間あるならさ、久しぶりに付き合ってよ。もう私フリーだし…あ、彼女居たら全然断ってくれて構わないから」
「時間あるし僕もあの時の彼女とは別れて今も恋人ナシ。話聞いてやるよ」
「ありがとうー、やっぱり持つべきものは十年来の友だね…私も悟の話聞いてあげる!今日はとことん呑もう!奢ってあげるから!」
背伸びをして悟の肩に腕を回すと、それに合わせて肩を落としてくれる。こんなふざけ合いが出来るのも悟ならではだな、と思う。恋人相手にはこうもいかない。関係が深くなれば友達のような気軽なやり取りが出来るのかもしれないが、私はそこまで誰かと関係が続いたことがない。
これでまた暫くは悟が居るから恋愛はしなくていい、となってしまうのだろうか。でももう、悟が終わりを望むまでそれでも良いかもしれない。
◇
「でね、アイツがトイレ行ってる間にスマホにメッセージが届いてね、画面に表示されるじゃん?通知が。それが見えちゃってね、何て送られてきたと思う?"今日もデートお疲れ様です(笑)あんまダラダラしてっと別れ切り出しづらくなんぞ〜(笑)"って!有り得なくない!?てかかっこ笑いムカつくんだけど!何ホント!」
「それでトイレから戻ってきた元彼を詰めたワケね」
「そう。何これ、って。そしたらさぁ、顔真っ青にして言い訳はじめて。私、悟と知り合ってからずっと彼氏居なかったじゃん?でもその間全く言い寄られなかった訳じゃなくて、有難いことに社内でもちらほらご飯に誘ってくれる人はいたんだけど面倒で全部断ってたの。それのせいで鉄壁女とかいう馬鹿みたいな渾名付けられてたらしくて」
「鉄壁女!ウケる」
「うるさい!で、私の元彼他部署から移動してきたんだけど所謂栄転でさ、若いのに役職就いてて顔もそこそこ良くて身長も結構高くて」
「僕よりイケメン?僕より身長高い?」
「悟よりは良くないよ。ていうか悟よりイケメンなんてこの地球上には居ないんじゃない。身長も悟よりは小さい。悟より大きい人なんてもうプロのバスケ選手かバレー選手しか居ないよ。じゃなくて!話戻すよ」
「へいへい」
「だからまあ、モテモテだった訳よ。見た目良しの出世頭なんて女の子達が放っておくわけないじゃん?しかもコミュニケーション能力もある。そんな社内屈指の良い男が移動してきたもんだからさ、ウチの部署に元から居る男達が妬み嫉み…と思ったら脅威のコミュ力で男達とも普通に仲良くなって。でね、男達で飲み行った時に私の話題になったらしいの。誰が誘っても絶対靡かない鉄壁女、って。で、賭けをしたんだって。元彼が私を落とすことが出来るか出来ないか」
「……最低だね」
「最低だよね。まあ、可笑しいなとは思ってたよ。あんなモテモテの人が何で私にアプローチしてくるんだろ?って。私より可愛い子なんて社内だけでもわんさか居るのに。私もね、そろそろ恋愛した方が良いかなって思ってたところだったの。タイミングが悪かった、っていうか。これがもう少し、例えば二、三年前とかなら誘われてもご飯なんか行かなかったと思う。そういうタイミングでバッタリ社外で出会して流れでご飯行って、良い子だなーって思ってさ。この人だったら、って思っちゃったんだよね。結局、良い子でも何でもない、どクズだった。見抜けなかった私も悪いね」
汗をかいた中ジョッキを持ち上げ黄金色のアルコールを勢いよく流し込むと、些か気持ちが軽くなった。こうして話を聞いてもらって酒を煽っていると、もうどうでも良くなってくる。週明けに会社で顔を合わせるのはやっぱり気まずいけれど、今だけは何も考えたくない。
「はぁ、なんか悟に話聞いてもらって美味しい酒を飲んでたらどうでも良くなってきた。もう、ホント最悪だけどこうなったもんは仕方ないもんね。あー、いっそ会社辞めちゃおうかな」
冗談半分、本気半分で零した言葉は悟によって軽く受け流される予定だった。何言ってんの、とか、辞めちゃえ辞めちゃえ、なんて無責任に軽い調子で流されて、そうだよねもう辞めてやる!なんて答えた私は結局会社を辞めることも休むこともせず週明けからまた出社する。そうして退屈で屈辱的な日常を再開させるのだと思っていた、のだけど。
「良いんじゃない、辞めちゃえば」
妙に真剣な声を出した悟を不思議に思い顔を上げて見れば、蒼い瞳が真っ直ぐ私を捉えていて、え、と情けない声が漏れた。
「そ、そうだね、まぁ良い転職先が見付かったら辞めようかな、いきなり無収入になるのはキツイし」
「じゃあ、僕が養ってあげよっか」
「え、ちょ、どうしたの悟、メロンソーダしか飲んでないくせに酔った?」
「酔ってねーよ、いやマジな話」
「マジな話の方が困るっていうか困惑するというか…悟、ただの友達を養ってあげるほど優しかったっけ」
「ただの友達は養わないね。いやさ、僕の話もちょっと聞いてよ」
「え、うん」
相変わらず真剣な面持ちを見て、これは茶化してはいけない、と気付いた。だらりと曲がった背を伸ばして向き合うと、悟は小さく笑った。
「十年前、初めて会った日のこと、覚えてる?」
「え、そりゃあ、覚えてるけど」
「僕の第一印象どんなだった?」
「第一印象……凄い甘党のイケメン、かな」
「確かにオマエ、"甘い物随分お好きなんですね"って言ってたもんね。僕はね、何となく気が合いそう、このまま二度と会えないのは何か嫌かも、って思った」
「え、そうなの。意外。なんかもっと、ヤれそうな女、とかそんなのかと思った」
「あー、うん、それもちょっとある」
「最低」
「まあまあ、話は最後まで聞いて。…結局僕の直感は当たってさ、気が合ったから十年近くも関係が続いたワケじゃん。恋人だろうが遊びだろうが半年と持たないこの僕がオマエとだけは続いた。もうここまできたら何となく、一生続くんじゃないかって思ってた。だからオマエから終わりにしたいって言われた時ビックリして…でも僕達の関係は初めから曖昧なものだったし引き留めるのは違うと思って、あとはオマエのことすぐ忘れると思ってた。そりゃ十年近く続いた関係だから多少の寂しさみたいなもんはあるかなと思ってたけど、でもどうせ相手はすぐ見つかるし、いつかこの子だって思う子が現れてオマエのことなんて忘れるんだ、って。でも、ビックリするくらいオマエのこと忘れられないし、むしろ日に日に…名前のことを考える時間が増えてった」
予想外の話の流れに脳が追い付いていない。特別疎くない私には悟の言いたいことが何となく読めて、回り始めていた酔いが醒めていくのを感じた。
「……最後の夜、彼女と何してても名前が頭に過ぎるって言った僕にオマエは"十年近く一緒に居るんだから色んなところに食い込んじゃってるんじゃない"って言ったでしょ。そっか、って思ってたんだけど、違うことに気付いた。何しててもオマエのことを思い出すのは、僕にとって名前が特別だからなんだ、って。だって、彼女と一緒に居る時に名前以外を思い出すことは無い。オマエより長い付き合いのヤツはある程度いるけど男女問わず、一緒に行ったことある場所でだって思い出したりしない。ここ、名前と行ったな、名前ならこれ頼むんだろうな、名前連れてきてやろうかな、って、頭に過ぎるのは全部オマエだけ。長く一緒に居たからじゃない。名前だから、頭に浮かぶんだ、って気付いた」
「さ、とる、ねぇ、もしかして、」
「誰かをそういう意味で好きになったことが無いんだよね。だから分からなかった。けど思い返せばきっともうずっと前からオマエのこと好きだったんだと思う。この半年離れてみてやっと気付いたよ。オマエのことが好き。だから、僕と結婚してほしい」
「は、はあ?ちょ、ちょっと待った!」
「何?真剣に話してるんだけど」
「真剣なのは伝わってきてるんだけど、結婚、て話飛びすぎじゃない!?私達まだ付き合ってもないよね、悟に付き合ってくれとも言われてないし私も了承もしてないし、」
「オマエ僕のこと好きだったじゃん。出会ったばっかの頃」
「え、うん、え?気付いてたの?」
「まあね。自分に向けられる感情には職業柄敏感だから」
「何それ、ただの高校教師でしょ、ていうか気付かれてたの恥ずかし…」
「そのあとすぐ僕に興味無くなったのも気付いたよ。今も僕には全然興味無いのかと思ってたけどさっきの反応見る限り全然ってワケでもないみたいで安心した」
そう言って優しく微笑む悟にどくん、と心臓が高鳴った。私が悟に興味を無くしたのは悟の一番にはなれないのだと知ってしまったから。
溶けてしまいそうな熱を孕んだ眼差しが、この微笑みを私だけに向けてくれるのだとしたら。
「私、ね、半年前、悟にもう会うのやめようって切り出す時、本当は悩んだの。身体の関係をもたない普通の友達になりたいって言おうかなって。悟ともう会えなくなるのが寂しくて…でもそれって悟には何のメリットもないなって思ったから終わりにしようって言ったんだけど…正直、今までずっと悟のこと忘れられなかった。寂しいな、会いたいな、って何度も思ったよ。でも、好き、とは違う気がする」
「いいよ今は好きじゃなくても。元々オマエの気持ちを気付かないフリして消しちゃったのは僕の方だし。オマエは必ずまた僕を好きになるよ。ていうかさせる。だから結婚しよう」
「何で結婚になるの、普通お付き合いからじゃないの」
「だって元々カップルとやってること変わんないじゃん。デートしてセックスして」
「ちょ、馬鹿、声でかい!」
「色んな意味で相性良いことも分かってるし。今更恋人から始める必要ないでしょ。それに僕と結婚したら会社辞められるよ?僕、奥さんには家で待っててほしいタイプだから」
すり、と左手薬指を優しく撫でられ、顔に熱が集中していくのを感じた。もう何度も触れ合っているはずなのに、こんなにも優しく甘く囁き触れる悟を私は知らない。
それに。
「…やっぱり、悟って顔が良いよね」
「ふ、何急に。オマエが僕の顔好きなのは知ってるけど」
「うん、大好き。その顔で謝られたら大抵のことは許せちゃうくらい、好き。悟となら、上手くやっていけるかな」
「やっていけるよ。今までだってずっと仲良くやってきたでしょ」
「確かに。私達、二人ともまともに恋愛出来ないのにね。どうしてか、お互い長く続いたね」
「似た者同士だからじゃない」
「それはあるかも。……しちゃおうかな、結婚」
やっぱり私は悟の顔が大好きで。
心底嬉しそうに笑う顔を見て、この笑顔を隣で見続けられるなら、結婚も良いかもしれないと思えた。それに私はきっとすぐに悟を好きになる。
約十年もの付き合いになるのに私達はお互い知らないことだらけで、その一つ一つを知る度に惹かれていく、そんな予感がした。
「言質取ったからね」
「言質って」
「オマエ、明日になったら記憶ないとか言い出しそうだし」
「そこまで酔ってないよ。そっちこそ、明日になってやっぱナシ!とか言わないでよ」
「言わないけど、何、オマエもそんなに僕と結婚したいの?あんな渋ってたのに」
「仕事辞めたいだけでーす」
「はぁ、ほんっとオマエって、」
さっきまでの甘い声は何処へやら。大袈裟に溜息を吐いた悟に思わず笑ってしまう。こうしてふざけ合えるのも相手が悟だからだ。
この後はきっと、"可愛くない"とか、"生意気"とか、そんな返事が返ってきて、二人で笑い合う。いつもの流れだ。しかし悟は私の予想に反して、ふ、と小さく笑った。
「素直じゃなくて、可愛いね」
甘やかすような声に乗せて聞こえてきた言葉に、私達の関係が確実に変わり始めたことを実感した。
消し去ったはずの淡い思いが腹の底で燻り始めるのを感じて、自分の簡単さに溜息が出る。でもきっとこれで良い。
長い時間を掛けてやっと辿り着いた私達の終着点。それは新たな出発点でもある。
悟と見る新しい景色に胸を踊らせながら、私達は笑い合うのだった。
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