「……嘘、でしょ…」
それはあまりにも信じ難い光景だった。
呆然とその場に立ち尽くしてしまうくらいには、信じ難く受け入れ難い光景だった。
覚束無い足取りでその場を後にすると、リビングの中央に置かれたソファに腰を落とす。
頭の中は先程見た有り得ない光景、体重計が示した数字でいっぱいだった。
間違いなく過去最高体重だった。
二十数年の人生で1番太っている。
ほんの数ヶ月前まで標準的な体型、体重だった筈だ。
それが今はどうだ。
堂々たるその数字は標準の枠からはみ出てやいないか。
体重が全てではないことは分かっている。
筋肉量や水分量で体重は大きく変わってくるのだから、軽ければ良いのかと言うとそうではない。
だけど私の増えた体重は筋肉などではなく100%脂肪だと言い切れる。
何せ筋トレなんて最後にしたのはいつだったか思い出せないほど前だし、筋肉質なわけでもないので普通に生活をしていて筋肉が付くというのも有り得ない。
つまり単純に脂肪が増えただけなのだ。
"体重をぶら下げて歩くわけではあるまいし、見た目が変わってなければ問題ないでしょ"と、頭の中でもう1人のお気楽な自分が励ましてくれる。
しかし悲しいかな、しっかりと見た目にも出ているのだ。
半年、会社の健康診断ぶりに体重計に乗ったきっかけだって太ったという自覚があったからだ。
思い返せばここ半年の私は"生理前だから仕方ない"と食欲に負け、"誘われたから仕方ない"と酒を飲み、"疲れたから仕方ない"とストレッチを怠っていた。
太りやすい自覚はあったので体型管理には気を付けていた筈なのに、気が付けば言い訳ばかりの堕落した生活を送っていた。
これは完全に自業自得なのだけど、しかし私が堕落してしまったのは確実に1人の男のせいだった。
「たっだいまー!名前ー!お土産、見てコレ!何と!いつも大行列で買えないあのお店の!フルーツサンド!」
「おかえり悟君…わ、わぁー…すっごい、よく買えたね……」
私を堕落させた元凶、それはハイテンションで帰宅したこの男だ。
男、こと悟君は付き合って1年になる私の恋人だ。
見た目良し、家柄良し、の色々と完璧な男で、そんな人がどうして私みたいな普通の女と付き合っているのか全くもって謎なのだが、悟君は私のことを可愛い可愛いととにかく甘やかしてくれる。
半年前から同棲を始めたのだって忙しい悟君が少しでも一緒に居たいと言ったからで、自分で言うのもなんだけど相当私に惚れ込んでる、と思う。
そんな悟君はいつだって私の味方でいてくれる。
例えば、生理前の異常な食欲に葛藤していると『体が欲してるってことだよ、いっぱい食べな』と言って一緒に食べてくれる。
ダイエットだと言って夕飯の量を減らすと『ちゃんと食べなきゃ倒れちゃうよ。食べた分だけ運動すれば良いんだから』と言ってお茶碗にいっぱいの白米を盛り付けてくれる。
習慣だったストレッチをサボってしまった日は『疲れてる時はお休みしていいんだよ。無理にやってストレスになる方が体に悪い』と言って甘やかしてくれる。
と、挙げたらキリがないくらい、とにかく悟君は私に甘い。
だからと言ってそれに甘んじて堕落したのは完全に自分のせいではあるが、悟君にも多少の責任は無かろうか。
更にもうひとつ、私が太った原因には心当たりがある。
というかこれが1番の原因だと思うのだけど。
それは悟君のお土産攻撃だ。
前途した通り私に惚れ込んでいる悟君は地方への出張の時はもちろん、普段でも『美味しそうなお店を見付けたから』とか『名前が好きそうだから』と言ってかなりの頻度で何かしら買ってくる。
それはとっても嬉しいのだけど、超が付く程の甘党の悟君が選ぶものは大抵砂糖がたっぷり使われた甘いお菓子で、元々はたまのご褒美に食べる程度だったスイーツやお菓子を毎日のように食べるようになってしまったのは私の体脂肪を増やすのに大きく貢献したことだろう。
そこまで考えて、悟君がぶら下げているお店のロゴが入った乳白色のビニール袋から目を逸らした。
食べたい、だけどこの時間に生クリームたっぷり高糖質のフルーツサンドなんて。
「あれ?あんまり嬉しくなさそうだけどコレ食べたがってなかったっけ」
「いや、うん…めちゃくちゃ食べたかったんだけど…」
「けど?」
「…お気付きかな〜とは思うんだけど実は私、最近太りまして」
相槌を打ちながら袋をテーブルに置きアイマスクを外した悟君は、きょとんとした顔でこちらを見て"うん"と頷いた。
「…やっぱり太ったなあって思ってた?」
「んー、太ったとは思ってないけど丸くなったなーとは思ってたね」
「ま、丸!?太ったって言われるより嫌かもしれない…」
「いやいや、太ってるってレベルじゃないし僕はもちもちしてて好きだよ?柔らかくて抱き心地も良いしさ」
「悟君はそう言ってくれるけど体重なんて過去最高だし、見た目にも出ててそろそろヤバいからダイエットしようと思うの。…フルーツサンド、嬉しいけど今から食べるのは気が引けるから明日の朝貰ってもいい?」
「えー、ダイエットなんてしなくて良いと思うけどなぁ。今のままで充分可愛いのに。てか食べないの?一緒に食べたくて並んでまで買ってきたんだよ」
そう言って大袈裟にむくれる姿は成人男性とは思えないほど愛らしい。
あの綺麗な顔は本当に罪深い。
決意も何もかもなぁなぁにされてしまいそうになる。
だが、ここで流されてはダイエットは始まらない。
それに多分悟君はわざとむくれている。
あの顔をすれば私が折れると分かっているのだ。
しかし今日の私は意思が固い。
そう簡単に折れやしないぞ、と話をすり替え逃げ切る作戦に出た。
「…本当は伊地知さんに並ばせたでしょ」
「え。なんで知ってんの?」
「わ、今のカマかけたんだけど本当に伊地知さんに並ばせたんだ。可哀想」
「ちょっとちょっと、話が逸れてる!確かに伊地知に並ばせたけど!たまたま任務がこのお店の近くだったから僕が仕事してる間に並んでもらっただけだもん。てかそもそも行列に並ぶ時間もないくらい忙しいのが悪いんじゃん。」
確かに悟君は忙しい人だ。行列に並ぶ時間など無いだろう。
だからと言って、伊地知さんだって悟君を待つ間暇なわけでは無いのだろうから並ばせるのは如何なものか。
「並ばされた伊地知が不憫だと思うならさ、尚更食べなきゃ。並ばされた挙句食べても貰えなかったら伊地知が可哀想じゃん」
「食べないって言ってるんじゃなくて"今"食べないって言ってるの!明日朝ごはんで食べるもん」
「鮮度が落ちて美味しくなくなっちゃうよー?こういう生モノって大抵賞味期限当日だよね。腐りはしなくてもだいぶ味落ちちゃうんじゃないかなぁ。美味しいうちに食べて貰えないなんて、コイツも並ばされた伊地知も浮かばれないね」
さも悲しげに芝居がかった口調で話す悟君の言うことに一理ある、と言葉に詰まってしまえば、もうひと押しとばかりに畳み掛けてくる。
「それに僕はたとえ名前が太ったって今と変わらず愛し続けるし、何ならどんどん太って僕以外の男からやらしい目で見られなくなるなら嬉しいくらいだよ」
「そ、そこまで言ってくれるのは嬉しいけど…!でも、自分なりに可愛い姿で悟君の隣に居たいの…だからダイエットはする!」
「えー。ムチムチしてて最高なんだけどなぁ」
「悟君は私に甘すぎるんだよ!」
「そりゃ甘くもなるよ。大好きだもん。まぁ、名前がそこまでダイエットしたいって言うならあとで付き合ってあげるからコレは食べ納めってことで一緒に食べよ?」
ね、と言ってビニール袋から取り出されたそれはたっぷりの生クリームに大ぶりにカットされたフルーツが彩りを添えていて食欲をそそられる。
悟君がしつこいから諦めた、と食欲に負けたことを人のせいにして悟君の手からそれを受け取り透明のフィルムを剥がしていく。
そういえば悟君は病気を心配するレベルで糖分を取っているのに太るどころかムキムキだ。
鍛えてる人と言えばタンパク質メインの食事にプロテイン、そして筋トレというイメージだが食事はもちろん、筋トレしている姿すら見た事がない。
私は筋トレが苦手、なんてレベルではなく、もはや出来ない。
数回腹筋をしただけで気分が悪くなるのだ。
そんな訳で筋トレは初めからするつもりも無かったのだが、悟君は食事制限無し、筋トレ無しで引き締まったボディを手に入れられる凄い方法を知っているのかもしれない、と期待してしまい、美味しそうにフルーツサンドに齧りつく横顔に問いかけた。
「ダイエット付き合ってくれるって言ってたけどどんなダイエットするの?」
「そりゃもちろん、2人でする運動と言えばひとつでしょ」
「え、何?筋トレは私無理だけど」
「んもう、しらばっくれちゃって!男女が2人でする運動と言えばアレしかないでしょ!」
「…ねぇ、もしかしなくても下品なこと言おうとしてる?」
「下品じゃないでしょ、愛を確かめる行為なんだから、」
「あぁもういい!黙って!最低!おっさん!悟君に付き合ってもらおうと思った私が馬鹿でした!明日から自力でダイエットします!」
「おっさん!?僕達たいして歳変わらないでしょ!」
「歳の問題じゃないの!思考がおっさん!セクハラ!」
「彼氏に向かってセクハラって何!」
正直、"2人でする運動と言えばひとつでしょ"と言い出したあたりから何となく下品なことを言おうとしている気はしたけれど。
『本当に痩せるらしいよ』と言って力説してくる悟君を無視して味わったフルーツサンドは背徳感の味がした。
その後、ダイエットは明日から、とロクにカロリーを消費する努力もせずベッドに入った私に"ダイエット付き合ってあげるって約束したから"と言って覆いかぶさってきた悟君の"ダイエット"に明け方近くまで付き合わされることとなった。
翌朝寝不足と身体の怠さに呻きながら体重を測ってみると昨日よりも減っていたが、ラクに痩せる方法なんて無いことを思い知り、真面目に食事制限と運動をすると心に決め、"今日からお土産は買ってこないで"と悟君にメッセージを送ったのだった。
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