「また君か。君も大概、諦めが悪いね」
「諦めの悪いところが私の長所なので」
「時に長所は短所にもなるよ」
赤く燃える夕陽が差し込む黄昏時。
男と少女以外、誰もこの世界には居ない。と、錯覚してしまいそうになるほど静けさに包まれた教室で男が嘲笑した。
「何度気持ちを伝えてくれたところで結果は同じだよ。」
「じゃあ私が卒業したら、」
「……あのね、卒業したって君は18だよ。私といくつ離れてると思ってるんだ」
男の冷めた声が静かに響き、それ以上少女は何も話せなくなった。
「君のソレは思春期特有の一過性のものだよ。文学的に言うなら恋に恋してる、ってとこかな。大人と子供の狭間の時間で揺れて、大人に恋してるってだけで自分も大人になったような気になってね。何とも幼稚だ。」
少女が俯き黙り込んでも尚、畳み掛けるように言葉を続ける男──こと夏油傑は東京都立呪術高等専門学校で非常勤講師として働いている特級術師の1人だ。
少女は東京都立呪術高等専門学校──通称呪術高専に通う生徒であり、夏油の同期で親友でもある五条悟の教え子だった。
夏油と少女の出会いは教師と生徒という関係においてごく一般的な、ロマンチックの欠けらも無いものだったが少女は夏油を一目見た瞬間に恋に落ちてしまったのだと後に語った。
"アイツよりはマシね"というのは栗毛の勝気な少女の言葉で、"夏油センセー強いし優しいしカッケーよな!"というのは退紅色の髪の少年の言葉だ。
少女を含め4人しかいない同期のうち2人は肯定的な反応を示したが、黒髪の少年だけは"五条先生より常識人に見えるけど実際、夏油先生の方がぶっ飛んでるとこあるからな"と、若干の難色を示していた。
破天荒な五条よりぶっ飛んでいる、と言われても、少女には突拍子も無いことをする五条の隣で手網を握る夏油、というふうに見えていたせいでいまいちその意味を理解することは出来なかった。
◇
教師と生徒。2人の関係はそれ以上でもそれ以下でも無い。
故に、少女が夏油傑という人間について知り得ることは極端に少なかった。
情報としてあげるなら名前、生年月日、身長、術式、特級術師であること、五条家入らと同期であること、くらいだ。
数ヶ月間見てきたと言っても夏油は非常勤講師、担当するクラスも持たなければそもそも高専に居ることの方が少ない。
つまり、少女は夏油のことを何も知らなかった。
たった数回、両手で足りる程度しか顔を合わせたことがないにも関わらず、優しく大人の余裕がある人、という印象だけが独り歩きして、少女の中の"夏油傑"に肉付けした。
黒髪の少年こと伏黒恵の言葉などすっかり忘れていた少女だったが、初めて想いを伝えた日、それを思い出すことになったのだ。
◇
その日は朝から雨が降り続き、湿気にあてられた木造の教室は建付けが悪く引き戸の開閉に苦労する、そんな日だった。
1年生は少女以外それぞれ任務に出ており、担任の五条も任務で不在の為、五条に代わり教壇に立つ夏油と二人きりという、秘めた想いを抱える少女にとっては甘く心煌めく時間だった。
好き、とうっかり口を滑らしたのは、形だけのホームルームが終わり、夏油が教室の扉に手を掛けた時だった。
何の脈絡も無く飛び出した言葉は少女の想定より大きな声で室内に響き、夏油はぴたりと動きを止めた。
冗談だと取り繕おうかと考えたが、この機会を逃したらもう二度と応えてもらえない、そんな気がした。
真面目な夏油のことだ。生徒に手は出せない、そんな答えが返ってくるだろうことは容易く想像出来た。
しかし、全く希望が無かった訳では無い。
夏油は比較的少女に甘く、少女もそれを自覚していた。
いち生徒として目を掛けている、と言われればそれまでなのだが、彼が生徒、術師として目を掛けているとしたら退紅色の同級生、虎杖で、自分はそれとはまた違う、そんな気がしていた。
歯に衣着せぬ言い方をするならば、少女は術師としては一切期待されていないのだ。
少女は粒揃いと噂される1年の中で圧倒的に弱く、術式も特に面白味も強みもないもので、『補助監督目指すのもアリだよ』と担任からも遠回しに"向いていない"と言われたくらいだ。
だからこそ、少女は夏油が何かしら特別な感情を自分に抱いているのでは無いか、と期待していたのだ。
結果として、夏油の答えは想像通りだったのだが少女は食い下がって諦めなかった。
「私が生徒じゃなくなれば、卒業すれば…付き合ってくれますか?」
手汗の滲んだ手のひらでぎゅ、とプリーツスカートの裾を握り、未だ此方に背を向ける夏油へ視線を送る。
現時点での勝算はない。しかし、ゼロではない。
卒業したら。そんな言葉を期待した。
「……いいかい、名前。私達は教師と生徒という関係以前に、一回りも歳が離れている。"大人と子供"なんだよ。確かに君が高専を卒業したら教師と生徒という関係では無くなる。だけど私から見たら18なんてまだまだ子供だよ。そういう目で見られない。」
「……そんなの、歳がどうこう言われたらどうにも出来ないじゃないですか。」
「そうさ。君がどんなに私を想ってくれても、年齢という自分ではどうにも出来ない理由で私は君を女として見られない。だから、そんな不毛な思いは忘れるんだよ。」
「嫌です。想うのは私の勝手ですから。」
「……参ったな。それなら少しハッキリ言わせてもらうよ。私は同年代、もしくは少し年上の女性がタイプなんだ。顔は可愛いより綺麗系、背は高い方が良いね。華奢で細身の子より程よく厚みがある方が良い。つまり、」
スカートの裾を握りしめた手に力が入った。
くしゃりと崩れた裾に、皺が刻まれることなど少女にとっては瑣末なことだった。
「──君は、生徒どうこう以前にそもそも全く私のタイプでは無いんだよ。何があっても君を好きになることは無い。だから早いとこ諦めてくれると嬉しいんだけど。興味が無い相手から向けられる好意って、中々鬱陶しいものなんだ」
冷たく言い放った夏油は俯く少女に、それじゃあまたね、と何事も無かったかのように声を掛けると教室を出ていった。
少女は暫くその場から動けないまま、黒髪の少年、伏黒の言葉を思い出していた。
"ぶっ飛んでるとこあるからな"
未だ、"ぶっ飛んでる"という意味はよく分からないが、確かに自分は夏油傑という人間を全く知らなかったのだとその日少女は思い知ったのだった。
◇
「そこまで言うなら、先生の言う通り私の気持ちは一時的な憧れかどうか試してきます!」
少女のきっぱりした声が高専の廊下に響き渡り、近くを通りすがった補助監督が振り返った。
夏油は少女へ声が大きいとジェスチャーで伝え、補助監督へ何でもないと手を振った。
事の発端は数分前、廊下を歩く夏油へ少女が駆け寄り声を掛けたことだった。
最早恒例となった少女の告白を嘲笑混じりに否す。
それ自体は珍しいことでも何でもない、いつもの光景だったのだが、普段ならわざとらしくむくれるなり、非難の声を上げるなりする少女が今日は声を荒らげたのだ。
面食らった夏油は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに胡散臭い笑みを浮かべ首を傾げた。
「…で、試すって、どうやって?」
「恋人を作ります。」
「恋人…?高専内で無闇に手を出すのはオススメしないよ。狭い業界だから後が─」
「高専関係者とは付き合いませんよ。気まずくなるのは嫌ですから。…有難いことに、少し前に中学の頃の同級生に告白されたんです。私は先生が好きだからお断りしましたけど、その人と付き合ってみようかなって。」
「それで、その子を使って自分の気持ちを確かめようって?君も中々残酷だね。」
「残酷でしょうか。もちろん相手には気付かれない様にしますし、求められれば恋人らしいこともするつもりです。」
「……恋人らしいこと?」
「デートしたり、手を繋いだり、キスしたり、その先だって。」
「不純異性交遊は教師として見過ごせないな」
「ちゃんと避妊はします」
「…そういう問題じゃない」
夏油の纏う空気が変わったことに少女は気付いた。
教師として容認できないだけだと分かっていても、少女はそれが嬉しかった。
「まぁ、先生としてはそうですよね。でも私、先生に何言われても止める気はないですから。先生が言うように一時的なものなのか、ちゃんと確かめてきますから。それでその、色々経験して大人の女に─」
「そんなこと聞いて、私が許すと思うのかい」
「許すも何も先生には関係無いじゃないですか」
「私は教師であり君の、……」
「君の、何ですか」
「……君が好きなのは私だろう」
「でも先生は私に諦めて欲しいんですよね。先生にとっても好都合じゃないですか」
挑発するような少女の声が廊下に響く。
補助監督はもう居ない。
「だからって好きでも無い男と、なんて見過ごせない」
「じゃあ先生が私の初めて貰ってくれますか」
「……は?」
「もう辛いんです。先生は想うことすら許してくれないから…諦めたいのに諦められなくて…苦しいんです。私だって好きでも無い人と付き合うなんて、触られるなんて嫌です。でもそうでもしないと、もう前に進めないんです。……諦めるために、最後に思い出をください」
そこに先程までの威勢の良さは無く、真っ直ぐ夏油を見上げる瞳は不安気に揺れている。
「……君は本当に諦めが悪いね。」
「そこが私の長所ですから。……でも、短所でもあるって認めてます。」
「そう、その諦めの悪さは短所でもある。けど、やはりそれは長所だ。……私の負けだよ」
「負け…?」
目を伏せ、大きく溜息を吐いた夏油は"着いてきて"と言うと歩き出した。
夏油の纏う雰囲気がどこか刺々しく感じた少女は話し掛けることも憚られ訳も分からず後を着いていく。
辿り着いた先は使われていない空き教室で、先程自分が口にしたことを思い出した。
「あ、あの、先生…もしかして、ここでする気じゃ、」
「何、自分から言い出したんだろ。ここなら滅多に人は来ないからまずバレないさ」
「でも私、その、初めてで…」
「さっき聞いたよ。…あぁ、初めてだから優しくしてください、って?なるべく痛くしないように善処はするけど、ここ布団も代わりになる物も何も無いからね、体は痛むかもね」
「え、えと…部屋、とか…」
「部屋?君の?生徒の、それも女子寮になんて上がる訳ないだろ。万が一見られでもしたらどうする気?私の部屋も論外。パーソナルスペースには気を許した人間以外、極力他人を入れたくないんだ。」
淡々と言葉を交わしながら、夏油は奥に纏められた机へ真っ直ぐ歩いていき、積もる埃を適当に払った。
本当に此処でする気なのだろうかと少女は狼狽える。確かに、"抱いて欲しい"と、とんでもない頼み事をしたのは少女なのだが、まさかこんな場所で手酷く体を暴かれることになるなど予想もしていなかった。
と言うより、いつものように嘲笑われてあしらわれて終わりだと思っていた。
「ご、ごめんなさい。やっぱり、その…ここじゃちよっと…」
少女の言葉に埃を払う手を止めた夏油は、ゆっくりと振り返った。
狭い教室内、夏油の長身に見合った足では数歩進んだだけで2人の距離は縮まってしまう。
「随分勝手じゃないか。人をその気にさせておいて、やっぱりやめてください、なんて」
「だって、こんな…こんなの」
「何を期待してたのか知らないけど、私は好きでも無い女を丁寧に抱いてやれる程優しくないよ。」
地を這う様な低く冷たい声に、悲鳴とも、喉が鳴る音とも取れない小さな音が少女が漏れた。
瞬間、少女は手首を思い切り引かれ、机の群れへ追いやられた。
痛い、と非難の声を出せなかったのは、眼前に迫る夏油の瞳が酷く冷たいものだったからだろうか。
「ほら、早く脱いで。私は暇じゃないんだ」
「や、やだ……」
「早く。」
「ごめ、ごめんなさい…ごめんなさい、もう、こんなこと言わない、ので…」
夏油を見上げる瞳には恐怖の色が滲んでいる。
少女の知らない夏油の一面。
勝手に肉付けされた少女の中の"夏油傑"が、崩壊していくのを感じながら、伏黒の言葉を思い出す。
「……こんな事って?」
「だ、抱いて欲しいとか…」
「それだけ?」
「え…えっと…好きとか言わないので、」
「それじゃない」
「あ、……恋人作るとか、色々するとか、言わないし、しないです」
少女がそう言った時、漸く夏油の纏う雰囲気が柔らかくなった。
目元は細められ口元は弧を描き、それはいつもと変わらない柔和な印象を与える微笑みだったが、少女はどこか薄ら寒いものを感じた。
「そう。分かったなら良いよ。それじゃあ、私はこのあと任務だから。また明日ね」
「あ、はい……失礼します…」
小さく会釈をした少女は足早に教室を出ていった。
足音が聞こえなくなった頃、ろくに掃除もされていないせいですっかり煤けた窓へ視線を移した夏油が大きな溜息をひとつ吐いた。
「いつまでそこに居るつもりだ、悟」
「なーんだ、バレてたんだ」
窓枠の下からひょこり、と顔を出したのは夏油傑の親友であり少女の担任を務める五条悟だった。
「バレバレ。覗きとは随分良い趣味してるね」
「ロリコン先生には言われたくないでーす」
「やめろ、人聞きの悪い」
「でも割とマジに見えたけど」
軽口を叩きながら窓枠を超え教室内へ入り込んだ五条は、夏油が雑に埃を払った机のひとつに腰を掛けた。
「自暴自棄になってたから少し痛い目見せてやっただけさ。」
「ふぅん。それなら良いけどさ。僕の可愛い教え子に手出さないでよ。」
「出さないよ。…って、少し前までなら断言出来たけど」
「え、マジ?どんな心境の変化よ」
「…花を育ててみるのも悪くないかと思ってね。あの子、私に詰められて中々良い顔したんだ。」
「うっわぁ、怖い怖い。卒業までは我慢しろよ」
「あぁ。生徒に手を出すのは教師としての矜恃が許さないからね。」
「傑じゃなくて僕を好きになればイケメンの担任に恋しちゃった学生時代ってことで良い思い出で終われたのにねぇ」
五条の言葉に小さく笑った夏油は、可哀想にね、と呟き少女がぶつかり乱れた机を指でなぞった。
その頃、担任に覗かれていたことも夏油の思惑も何も知らない少女はついぞ夏油を怒らせてしまった、と頭を抱えていた。
羞恥や後悔、その他様々な感情から夏油を避けはじめた少女が少年の言葉の意味を身をもって知ることになるのは、まだ少しだけ先の話。
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