稲葉が本丸に顕現したのは皐月の初めだった。
主、と紹介された人間はまだ元服も済ませていないような年若い娘で、随分と驚いたのを覚えている。
このような幼い娘で大丈夫なのか、と訝しんだのも束の間。やかましさを除けば審神者はかなり優秀な将であった。
泰平の世の生まれとは思えないほど戦の采配は効率的で的確。かといって上でふんぞり返るわけでもなく、刀剣達との仲も良好。稲葉とてこの審神者の下でならば、天下を目指せると思ったのだ。



顕現してひと月が経ったとはいえ、百振り以上が暮らす本丸は広い。いくら明かりがあり夜目が利くとは言え、まだ慣れきっていない本丸では迷うのも仕方がない、と自分に言い聞かせる。
厠から自室に戻るべく長い廊下をうろついていれば、ぼんやりとした月明かりの下、外に面している廊下の隅に座る人影に稲葉は足を止めた。
かなり距離があるが、戦のために喚ばれ、打刀として顕現した稲葉には離れていても姿は判別できた。

(こんな夜中に何をしている)

月に照らされた長い飴色の髪と線の細い体は、間違いなくこの本丸の主である審神者だった。
男士ならいざ知らず、審神者は人間__それも、この本丸の審神者は歳若い娘だ。こんな深夜に寝間着代わりらしき浴衣だけでは体を冷やす。稲葉は少し考えた後、驚かせないよう静かに近寄り、声をかけた。

「そこで何をしている」
「稲葉…?」

普段の本丸中によく通るやかましさとは正反対の静かな声。ゆるり、とこちらを向いた審神者の顔に、稲葉はほんの少しだけ目を開いた。

「恥ずかしいとこ見られちゃった」

泣いていたのだろう。へらり、と力なく笑う審神者の目元は赤い。普段は晴天を思わせるような青い瞳が、今は微かに曇っている。

「…泣いていたのか」
「…意外。稲葉気にしなさそうなのに。なんなら上に立つ将なら涙を流すなど言語道断とか言いそうだと思ってた」
「我を何だと思っている」

へらり、と笑いながら本気か冗談か分からない温度でそう言われ、稲葉は眉を顰める。自他ともに厳しい自覚はあるとはいえ、さすがに成人前の年若い娘相手にそのような事を言うつもりは無い。
上手くはぐらかされているような気もするが、何か言うべきかなのか、と考えながら見下ろしていれば、何がおかしいのか審神者が笑いながらゆるり、と立ち上がった。

「こんなとこまで来るってことは迷子でしょ?送ってこうか?」
「いらぬ。道案内だけで良い」
「そ?」

審神者に送り届けられたと知られれば面倒なことになるのは目に見えている。他の本丸の同位体は知らないが基本的に自分は1人で静かに過ごす方が好きなのだ。

「稲葉って以外と分かりやすよね〜。後ろに戻って、2つ目の角を右に曲がったとこの3つ目が稲葉の部屋だよ」
「感謝する。…体が冷える。お前も早く部屋に戻った方が良い」
「そうだね…ありがと、稲葉」

おやすみ、と手を振る審神者を背に、稲葉は教えられた道を歩く。
声をかけたあの一瞬。こちらを振り向いた時に見えた顔が、脳裏から離れなかった。top