夜の風邪

あの教室で私たちが交わした言葉は数える程度。数回のおはようと、それと同じだけのさようなら。それから。

「冨岡くん」

人もまばらな放課後の教室で、開け放たれた窓から入り込む夕方の風が、カーテンと冨岡くんの綺麗な黒髪をさらさらと揺らす。

「先生が呼んでるよ」

職員室、と付け加えると、冨岡くんは小さく頷いて、鞄に教科書を詰め込む手を止めて立ち上がった。そのなんてことない仕草を私はただ目で追いかける。

「ありがとう」

すれ違う瞬間に小さく聞こえた冨岡くんのたった一言の言葉は、呆気ないほどに私の耳を熱くさせた。

私と冨岡くんの間にあったもの。数回のおはようと、それと同じだけのさようなら。ただ一回のありがとう。たったそれだけのことだったけれど、十七の私にはそれが全てだった。



「で?いつまでそうしているつもりなんだ?」

空になった中ジョッキのグラスをテーブルに置いて、錆兎くんは真正面に座る私に尋ねた。酔うと若干説教じみたことを言い出すけれど、今の私はこの人に頭が上がらない。すみませんと平謝りで俯き呟けば、はぁと大袈裟なため息が降ってきた。

十七の淡い恋心は、そのまま一生胸にしまって生きていくつもりだった。はずだったのだけれど。たまたまうちの会社の取引先の営業マンが高校の同級生の錆兎くんだったのだ。卒業以来の再会につい会話が盛り上がり、最近どうなの?高校の時の友達とはまだ会ったりしてる?と話したところで、唐突に思い出した。錆兎くんが冨岡くんと仲が良かったことを。

「義勇にはよく会うよ。腐れ縁ってやつだな」

その言葉に仕舞い込んでいたはずの想いが目を覚ましてしまった。大人になった冨岡くんはどんな風に変わったのだろう。彼女はいるのかな。もう一度会いたいと願うのは、私のわがままだろうか。気がつけば錆兎くんに連絡先を聞いていた。今度飲みに行こうよ、冨岡くんも一緒に、と付け加えて。察しのいい錆兎くんはそれだけで私の下心に気がついて、ふーんと意味ありげに笑って早速冨岡くんに約束を取り付けてくれた。

そんなやりとりがあったのはもう数ヶ月前のこと。それから何度かこうして三人で(時々は他の同級生も誘って)飲みに行くようにはなったのだけれど、そこから先にはまるで進展しない私に、錆兎くんもそろそろ痺れを切らし始めている。お手洗いに立った冨岡くんのいない隙に、今日は何度も私に発破をかけてくる。

「あいつはモテるぞ。手遅れになっても知らんからな」
「わかってるよぉ…でもなんか、いざ二人になると緊張しちゃって」
「お前なぁ…俺たちいくつだよ」

大人になった冨岡くんはあの頃と変わらずかっこよかった。ううん、あの頃よりもうんとかっこよくなっていた。それなのに私ときたら、あの頃と同じで遠くから見ているだけで満足してしまっている。そんな私に錆兎くんはもう一度大きなため息をついて、片手を上げて店員さんを呼んだ。

「すいません、生二つ」
「錆兎くんまだ飲むの?」
「お前と義勇の分だ。もう少し飲んどけ」
「何の話だ?」

店員さんが注文を取り終えたのと同じタイミングで冨岡くんが戻ってきた。すると今度は冨岡くんと入れ違うように錆兎くんが立ち上がった。ポケットにねじ込んでいたお財布を取り出して、中からお札を取り出しテーブルの上に置く。

「悪い、急な用事が入ったから先に帰る」
「えっ錆兎くん」
「じゃあな、頑張れよ」

最後の意味深な言葉に思わずドキッとしたが、冨岡くんは特に気にもとめない様子でまたなと呟いただけだった。

「冨岡くんは、時間大丈夫?」

そう問いかけると冨岡くんは腕時計をチラリと見た。

「まだ大丈夫だ。苗字は?」
「私も、まだ大丈夫」

そう返事をすると錆兎くんが注文していったジョッキのビールが二つテーブルに置かれた。確かに錆兎くんの言う通りだ。もたもたしていて冨岡くんに彼女ができたらたまったもんじゃない。ここはアルコールの力を借りてでも、となみなみと注がれたジョッキに口をつけて体をアルコールで満たしていく。

でも結局。冨岡くんとは他愛もない話をしただけで、ただいたずらに時間が過ぎただけだった。



お店に着いた頃には降っていた雨が、外に出るといつのまにか止んでいた。濡れたアスファルトに一歩足を踏み出して息を吸うと、雨上がりのむせ返るような空気が体にまとわりついてくる。

「送っていく」
「うん、ありがとう」

無駄に煽ったアルコールと、少し無理して履いたヒールのせいで足元が覚束ない。よろける姿を悟られないようにゆっくりと歩き始めれば、冨岡くんも合わせるように歩調を緩めてくれる。

「雨、止んでよかったね」
「ああ、そうだな」

大人になっても、変わらず恋は難しいままだ。見てるだけで十分だと言い聞かせたあの横顔が今はこんなにも近くにあるのに、私はやっぱり何も言い出せないまま。

「随分飲んだみたいだが…大丈夫か?」
「まあなんとか…明日は仕事も休みだし」

苦笑いでそう答えると、冨岡くんは前を見たままそうかと呟いた。その横顔がふっと綻んで、柔らかな表情に色を変えた瞬間、胸の中にあの日の冨岡くんが鮮やかに蘇ってきた。すれ違いざまにありがとうと言ってくれたこと、ほんの少し表情を緩めて笑いかけてくれたこと。

きっと、もう次はないだろうと思う。もしこのまま何も言い出せず、冨岡くんに好きな人ができて、その人が冨岡くんの恋人になったなら。私はもうきっと冨岡くんに会うことはなくなってしまうだろう。気持ちを伝えてうまくいかなくても、このまま諦めて伝えなかったとしても、いつかは冨岡くんに会えなくなる。だったら後悔することになったって、好きだって言わないと。なんて、そんな風に考えてしまうほどに私は酔っ払っているのかもしれない。

のぼせた頬のまま、気づけばマンション手前の曲がり角まで来ていた。やっぱり何にも言えなかったなと小さくため息をついて、冨岡くんと呼びかけた。

「ここで大丈夫だよ。ありがとう」

すぐそこだからと指差せば、冨岡くんが少し心配そうな顔をした。大きく空いたマンションのエントランスが、まるで両手を広げているみたいにこっちを見ている。

「本当に大丈夫だから。じゃあまた…わっ!」

湿ったアスファルトに足を取られ、思わずふらついた私の腕を咄嗟に冨岡くんが掴んでくれた。おかげでなんとか体勢を立て直すことはできたけど、今度は冨岡くんの白いシャツが視界いっぱいに広がった。アルコールのせいで感覚が鈍っているのか、近いな、なんて呑気に思う自分がいる。

「全然大丈夫じゃないな」

飲み過ぎだ、と付け加えて歩き始めた冨岡くんの進む先は、言うまでもなく私のマンションの方向だ。

掴んだ手が離れても、私の腕は熱を帯びたまま。そして思った。全部お酒のせいにしてまえば、今なら言えるかもしれないと。大人になっても恋は難しいままだけど、あの頃より大人になった私は少しのずる賢さを覚えたのだ。

マンションに向かう冨岡くんのシャツの裾をそっと引っ張った。冨岡くんがゆっくりと振り返って、黒い髪の奥にある二つの瞳と目が合う。

「や、やっぱり、まだ、帰りたくない…」

今更ながら心臓が激しく鼓動して、うまく息ができない。全部お酒のせいなんだ。そう言い聞かせて冨岡くんを見つめたままいると、冨岡くんがこっちに向き直った。街灯の光が冨岡くんに差して、長いまつ毛に反射する。

「もう少し、一緒にいよう…?」

振り絞るようにして吐き出した言葉に冨岡くんは一瞬目を開いて、それから一歩こちらに近づいた。骨張った冨岡くんの大きな手が、私の頬を掠め耳の辺りに触れる。

「わかった」

明日の朝が来るまでに、私はどれくらい伝えることができるんだろう。燻り続けた想いはもう底が見えないほどで、一度溢れたら止まることを知らない気がして少しだけ怖かった。

緩やかに弧を描く冨岡くんの唇に私はうっとりとして、そのままゆっくりと目を閉じた。


(210828)