「待って!」
その一言で、その空間を支配していた空気は飛び散ってしまう。偶然にも二人の休みが合った水曜日の午後。部屋を満たしていた春の陽気ごと吹っ飛ばしてしまったようで、手や首が感じる空気は冷たい。寒さか、はたまた他の何かのせいか、降旗の手が少しばかり震えたのを、人よりずっと目の良い彼が見逃すはずもなかった。
「三月とはいえまだ少し寒いね。羽織れるものを持ってくるよ。」
どうやら降旗の手の震えは寒さのせいだと、”わざと”勘違いしてくれたようだった。赤司の『勘違い』のために、降旗も”わざと”両手で自らを抱き、寒さに耐えかねる振りをした。そうしなければ、彼の気遣いが無駄になってしまうとわかっていたから。

今日もまた拒否してしまった。

ここ最近の悩みはずっとそれで、もうこれが何度目かと考える度に、今にも赤司に見放されるのではないかと底知れぬ恐怖で身体が震える。そうして来るかもわからない別離に怯えながらも、心のどこかで、「あの目はズルい。」と考える自分がいるのも確かだった。
触れる時、赤司はこの世で一番大事なものに対峙しているかのように、ゆっくりと、優しく手をこちらへと伸ばす。それに何の反応もしないでいると、今度はその手がそっと降旗の手に重ねられる。その時点で降旗の心臓はドッドッと音が聞こえるほどに胸を打ち鳴らしているのに、赤い髪の美しい悪魔が耳元で囁くのだ。「こっちを向いて、光樹。」
生クリームのようにどろりとした甘い囁きに、誰が誘惑されずにいられるのだろう。頑なに下を向いていた首は少しずつ上へ、そして隣で逸らすことなく降旗を見つめ続けているだろう存在へと向いてしまう。目が合うと赤司はこの世で一番幸せな人間の顔をして、そっと顔を近づけてきて、そうすると、降旗の心臓は限界を迎えてしまうのだった。
ぐっと両手で相手の肩を遠ざけると、二人の周りに広がっていた優しく甘い空気はたちまち消えてしまう。そうして初めて、降旗は自分が拒否してしまった事実を認識するのだ。
「すまない、良いものが見つからなくて。ブランケットしか無かったのだけど、これでも良いかな。」
「大丈夫、ありがとう。」
ブランケットにくるまってソファに身を沈めると、その隣に拳一個分くらいの隙間を空けて、赤司は座った。いつも同じような距離でいるのに、なぜか拒否したあとだけはその距離が果てしなく遠くに感じる。
「さっきはごめん。まだ慣れなくて。」
「いいんだ、気にしないでくれ。俺がやりすぎてしまうのも悪い。」
「赤司は何も悪くないよ。……赤司みたいに余裕持てたらいいのに。」
そう言うと、赤司は困ったように笑って、「そんなに余裕があるわけじゃないよ。」と言った。些細なことでも嘘を吐くような人間ではないから、きっとそうなのだろうけど、ならば赤司と自分で何が違うのだろうか。
「人より少し、我慢出来るだけだ。それと、降旗が顔を真っ赤にしているのを見ると、心臓の鼓動が聞こえなくなって、ただ手を伸ばしてしまうんだよ。」
顔がカッと熱くなった。
きっと今、赤司は世界で一番恥ずかしいことを言っている。
自分が触れ合いだけではなく、そういう言葉にも弱いことをわかったうえで、あえて言っているのだ。
でも、と降旗は思った。降旗が拒否したあと、離れる彼の瞳に浮かぶのは後悔ではなくて、寂しさと少しの痛みと、ほんのわずかの失望だと降旗は知っている。そしてその失望がいつか赤司を飲み込んでしまうことを、降旗は一番恐れている。
だから、次は絶対拒否しない、拒否してしまっても何か行動をすると、つい昨日の夜に決めていた。
先ほど赤くなった頬をそのままに、降旗は拳一個分の距離を詰めた。
「今はまだ、キス……とかは無理なんだけどさ、近くにいるだけなら、平気だから。……多分。」
そう言いながらブランケットを赤司にもかけた。
二人分の身体を覆っても、ブランケットは少し余るほどには大きい。たったこれだけの、本当に簡単なことなのに、降旗にはどうも恥ずかしくて、既に赤くなっているはずの頬がさらに熱を持ったような気がした。
最後に多分と付け足してしまったのは、どうも自分の言葉に自信がなくなってしまったからで、それは赤司にもバレてしまっているのだろう。
「これで、今は許して。」
赤司は目を見開くと、パッと手を口元に当てた。
小刻みに肩が震え、抑えきれない笑い声が漏れ出している。降旗がちらと赤司を見ると、その顔も、漏れ出る笑い声も、喜びが多分に溢れて赤司とは思えないほどに甘ったるいのだった。

book / top


ALICE+