ものを引き摺る音が、暗く静かな部屋に響く。扉から一番遠い壁に辿り着くと、財前は日吉を壁にもられかからせ、自分もその傍に腰を下ろした。隣から呻き声が聞こえた。
酷い怪我だ。
右足が膝まで喰われてなくなり、頭からは出血している。
他にも擦り傷や切り傷だらけで、服で隠れているが痣も体中にあるだろう。
一方で自分は、酷い怪我といえば左腕を覆うような火傷だけだ。

血の匂いがする。

「ありがとう。」
小さな声で日吉が言った。
「あのまま死ぬのは御免だからな。」
「……日吉のスマホ使ってもうた。」
「気にするな。」
逃げる為に囮として使ったスマートフォンは、もう使い物にならないだろう。
雑音交じりの音楽が、何かが割れる音とともに止まったことを、財前は知っている。
日吉に、何かしてほしいことはあるか、と尋ねると、特になにもと返ってきたので、文字通り財前は何もしないことにした。今あるのはお互いに身一つのみだ。傍にいる以外、日吉の為にしてあげられることはない。
「日吉。」
「……なんだ?」
気怠そうに日吉がこちらを見やる。
部屋が静かなので、日吉の小さな呼吸音はすぐ傍にいる財前にはよく聞こえる。
穏やかに、けれどとても弱く息が吐きだされる度、日吉の命ごと空気に溶けていくような気がした。
「……痛い?」
そう尋ねる自分は、幼い子どもみたいだと思った。
「不思議と、痛くない。」
その言葉を聞いて、財前は初めて人前で嗚咽を漏らして泣いた。

この人は死んでしまう。
ここから出られず、治療の一つもしてあげられないまま、呼吸をやめようとしている。

傷だらけの手が、優しく財前の頬に触れた。
「泣くな、財前。怪我より、そっちの方が辛い。」

しばらくの間、財前は泣き続けた。
財前の涙が枯れるまで、日吉は財前の手を握っていた。握る力ももうないのかほとんど重ねるだけだったが、それが余計に涙を誘うことを日吉自身もわかっていた。
「財前、お前は……。」
日吉は、自分を置いてここから出てほしいと言おうとした。
けれど、財前の涙はこの館を出られないからではなく、自分が死んでしまうからだと気づいて、言うことをやめた。
こいつがこんなに泣くのなら、死にたくない。
そう思った。


財前が落ち着いた頃には、日吉はもう体が動かせないほどに弱っていた。壁を支えにしている体がそのまま横に倒れそうになるので、財前は日吉と距離を詰めて、自分に寄りかからせる必要があった。
いよいよ日吉が息を引き取るのかと思っても、もう涙は枯れているので出なかった。
ちょっとだけ、財前は焦った。
日吉が死ぬ瞬間は見たくないけれど、この部屋を出て日吉を一人にすることもしたくない。
タイムリミットはもうすぐそこまで迫っている。
自分の手をひっくり返して、日吉の手を握る。
自然と恋人繋ぎになってしまって、そうして初めて、財前は自分の中にある日吉への想いを自覚した。
今になってわかるなんて、遅すぎる。
涙は出ないけれど泣きたい気分になった。

「ざいぜん。」
もうほとんど意識のない日吉が、ゆるく財前を呼んだ。今まで聞いたことのないくらい弱弱しい声だ。
「……おん。」
眠ってしまおうと思った。
日吉が死ぬ瞬間も、自分があの化け物に喰われて死ぬ瞬間も、深く眠ってしまえば知らずにいられる気がした。
目を閉じて、日吉の手を強く握る。
日吉もまた、握り返してくれたように思った。

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