29.5p
「あっ、ごめん…さっきの講義室に忘れ物しちゃった…。ナミ、バイトだもんね?ここでいいよ、気をつけてね!」
心配そうな顔をする友達を見送り、来た道を戻る足を早める。
寒いし、早く帰りたかった。
ひとりでいると、まだ泣きそうになるから。
***
3号棟の一番奥、一番広い講義室にはもう人の気配はない。
「…電気、ついてる」
少しホッとして扉を押し、夢中で自分のいた席の側まで行ってしゃがみこむ。
「…あっ、…あれ?」
てっきりここに落として、忘れて行ったんだと思ってた。
「…ない。」
どうしよ、とバッグを下ろしてそこへ置いた。
『○○?』
「…!」
呼ぶ声に振り向くと、鼻の頭を赤くした彼が立っていた。
「…望、」
空気に変な意味を持たせたくなくて少し無理に笑った。
「……寒そう。(笑)ちゃんとマフラー巻いてるのに、なんでそんなに寒そうなの」
『…寒いからな』
「答えになってないよ(笑)」
これがいまのわたしの精一杯。
*
『別れて欲しい。』
「…えっ」
約束した時間にその場へ行くと、彼がそう言った。
『付き合うんはやめにして、普通に友達として居ればよくない?』
「…」
『2ヶ月付き合ってみて思ったんやけど、…オレには○○は無理やわ。』
少し困った顔をされつつのその言葉、わたしは心に穴が空いた。
好きとか、嫌いとか、友達とか、恋人とか全部が分からなくなって、その瞬間まで自分がどんな気持ちで彼に接していたのかも分からなくなった。
答えを待つ彼に、うん、と遅すぎる返事をして、普通に駅まで一緒に帰った。
その手には、一度も触れたことがなかった。
「…」
彼に隠れて泣いた春。
友達にも上手く戻れてない。
幸か不幸か、秋の履修は彼とかぶるもの無かった。
そもそも学部が違えば、かぶることなんかほとんどなくて、むしろあの時間が過ごせたのこそが奇跡だった。
一瞬の奇跡が何も残さず消えただけ、今はそう思うようにしてる。
…これ以上、引きずっていく強さもないから
『…これやろ?』
「…え?」
『さっき、同じ学部のやつに渡された。春頃に一緒にいた子のやろって。』
「…」
学生証と、ICカード、バイトの時に使う入館証、全ての身分証明書が入ったパスケースだった。
「…ありがと、」
『もう駅に行ったかもって言われて、駅に行ったらナミちゃんに会ってさ。○○ならそれ取りに講義室に戻ったって言ってたから、戻ってきた』
「…ありがと、…ごめん、わざわざそんな、」
『わざわざって、…これなかったらめちゃめちゃ困るやろ』
「…そうだけど、」
ハッとした。
『…』
「…」
わたしの手元を見つめる彼の鼻や頬が赤くて、少し息が荒いのも…そのせい。
「…」
アウターのポケットの中に手を入れて、取り出したものを彼に差し出す。
『なに?』
「…カイロ、あと2時間くらいはもつと思う」
『寒がり(笑)』
「…望の方こそ、しんじゃいそうな顔してる」
『走ったから、今はちょっと暑いねん』
はい、とその手にカイロ入りのうさぎのポーチを渡す。
「本当にありがとう、助かりました」
『ええよ、別に。暇やし』
「…寒いのに、ありがと」
『…ええって』
手のひらの上でうさぎを優しく緩く握りながら暖を取ろうとする指先。
「…」
ナミの言葉を思い出して、急に一段と、その場に居づらくなった。
小瀧くん、まだ○○のこと好きらしいよ。
お別れしようって言ったのは彼の方だから、絶対そんなことないと思う。
でも、ナミはそんな嘘をつくような子じゃない。
だから誰よりも居心地がよくて、優しくて、大好きな友達。
「…」
『…』
「…ありがと、…じゃあ、またね」
バッグを持って、彼の横を通り過ぎようとした。
『…待って、○○』
30センチ近い身長差は、階段2段分でわたしの方が少し高くなる。
『…』
わたしの手首を掴む彼に振り向かされ、同じ目線になったこの感覚が懐かしい。
「…、」
『これ、』
「あぁ」
手の中のうさぎを見せられ、ドキッとしたのが期待しているせいみたいで恥ずかしくなった。
「…望にあげる、それ。中身はちゃんと入れ替えてね(笑)」
じゃあ、と歩きだそうとしても腕を離してくれなかった。
『…これやなくて、』
「…」
『…オレは、○○に話そうと思ってたことがあって』
「…」
『…まだ好きやから、やっぱり』
「…」
『やっぱり、好きやから』
久しぶりの対面は心臓に悪い。
驚いて、ドキドキして、
苦しい。
「ずるいよ、そんなの」
『…』
「望から別れようっていったくせに、やっぱり好きとかはずるい」
泣きそうなのを我慢した震え声。
結局ばれてしまっているかもしれないけど、言いたいことはわたしにもある。
『…自信がなかった。○○、オレとおるより他のやつと話してる時のが笑ってたし、』
鼻をすすって、また続ける。
『めちゃめちゃ楽しそうにしてて。…でも、オレの前ではいつも俯いたり、あんまり笑ってくれへんかったから』
「…」
『…オレと、○○の好きは違うかもって、思ってしまって』
「…、」
『誰にも取られたくなかったけど、同時に、オレ自身が○○の笑顔作れないなら意味無いなって思ったんや。』
大好きな人との恋が実って、すごく幸せだった。
毎日大好きで、いつもドキドキして、赤くなる顔を見られるのが恥ずかしくて顔を伏せていた…のに、
「…そんなことで、」
『そんなことって、…オレにとっては一番大事なことやねんけど』
「…望のことが好きで、」
『…』
「…ドキドキして、…顔が真っ赤になるし、恥ずかしいから隠そうとしてっ、」
『…○○、』
「…、」
いつの間にか溢れていた涙に驚きつつ、空いている手で目元を拭った。
「…本当に好きだったの、…好きなの」
言い切ってギュッと唇を噛むと、彼はわたしを見つめながら口を結んだ。
『…』
「…」
『…』
「…、」
わたしの顔に手を伸ばし、親指で涙を拭う彼の手。
そのまま抱きしめられ、わたしは彼の首の後ろへ腕を回して応える。
『…』
タン、タン、と彼が2段登り、戻ったいつもの身長差。
彼のマフラーの端に頬を寄せながら、頭を撫でられると、小さい子供に戻ったみたいに彼にしがみついて泣いた。
『…○○、』
「…」
『…もう一度、最初から…オレと付き合ってください。』
大きな手のひらがわたしの頭を包む。
「…」
『…泣くなよ(笑)』
そう言う彼の方こそ、寒さとは関係なく目元を潤める彼を見上げた。
『…見るな。(笑)』
すんっと鼻を啜ってわたしを抱きしめ直した。
『もう、離さんから』
わたしの手を取り、駅まで歩く道の途中で、その手を持ち上げて大きく揺らす。
「…ねえ、望」
『ん?』
「…なんでもない、…(笑)」
彼の手をしっかり握り返し、一緒に大きく振った。
***
2018.12.10