版権/服部耀と部下



タン、とエンターキーを押してほっと一息ついた。
すっかり冷め切ったコーヒーを口に含み、舌に広がる苦みを堪能してからゆっくりと嚥下する。
画面に写る文字の羅列をしっかりと見直し、誤字脱字がないか最終チェック。
マウスを動かし、印刷ボタンを押すと、すぐ近くでコピー機が動き出す音が聞こえた。コピー機から出てきた紙の束をホッチキスでとめてから、パラパラと中身を確認する。あ、ホッチキスを止める前に確認するんだった。そうは思ったが、特に問題はなかったので安堵のため息をつく。
最後に、この書類に上司から判子をもらえば、私の今日の業務は終了する。しかし、その上司から判子をもらうという単純な作業が一番の難関だったりするのだ。
私の上司、警視庁捜査一課、課長。服部耀。
くせ者揃いの捜査一課を束ねあげるドSの大魔王。なんて呼ばれているらしい。大魔王という二つ名には全力で頷ける。
趣味はお昼寝というユルい側面も持ち合わせる彼は、今日もどこかへお昼寝に出かけているらしい。
服部課長の席を見て、その姿がないことに肩の力が抜けたことは内緒にしておきたい。
正直に白状すると、私は服部課長のことが苦手だ。
しかし、仕事は仕事。どんなに苦手な相手とも、向き合わねばならないのが仕事なのだ。臆病な自分を変えたい、困っている人を助けたい。そんな思いで必死に努力して、やっとなれた刑事という職。向き合っていると、そんな思いすら握りつぶされそうになるほど威圧感のある服部耀にも、果敢に向き合っていかなければいけないのだ。スゴイコワイ。今すぐおうちに帰りたい気分だ。
つまり、この書類に判子をもらい、無事に家に帰ることが今日の私の最後のミッション。こんなところでメンタルを潰されている場合ではないのだ。

「服部課長どこ行きました?」

変わり者だらけの捜査一課でも、比較的話しやすい菅野君に声をかけ、服部課長の行方を聞き出そう。とするが、菅野君は服部課長の席を見ると不思議そうに首をかしげる。

「あれー?さっきまでそこにいたんだけど」
「どこに行ったかは……」
「ごめん。わかんない」
「ですよね…」
「あ、耀さん探しに行くんなら、これも一緒に届けといて!俺ちょっとこれから出なきゃだから!」
「え、あ、」

私に書類を押しつけ「じゃ、よろしくー!」と爽やかな笑顔で課を出て行った菅野君をぽかんと見届け、閉まった扉に向かって小さくため息を吐いた。見事な押し付けっぷりだった、涙が出そうだ。
微妙な空気の中、勇気を振り絞り、菅野君の机の向かいに座る朝霧さんにも声をかけるが、「わざわざ行き先を伝えて行くような人ではないと、貴女も分かっているでしょう」と一蹴されてしまった。ごもっともな答えにズキリと痛む胸を押さえて、ひとまず部屋を出た。
いつからか緩くなった涙腺にぐっと目をつむり、大きく深呼吸をして歩き出す。とりあえずアテを一つずつ潰していくしかない。たいして数のないアテに頭を抱えそうになるが、前を歩いてくる二人に気がつき喉の奥が緩く締まる。

「…あ、」
「おつかれ〜」
「お疲れ様です芝さん、荒木田さん」
「おつかれ」

にこやかに話しかけてきた芝さんと、いつも通り強面な荒木田さんにぺこりと一礼する。躓かず言葉が出たことにほっとしつつ、そのまま通り過ぎようとした二人に声をかける。得られる情報を逃がしちゃだめだ。

「あの、服部課長をお見かけしませんでしたか?」
「耀さん?…見てねーな」
「ん〜俺も見てないかな。力になれなくてごめんね〜」
「い、いえ。ありがとう、ございます」

歯切れわるく答えて二人に背を向ける。ああ、言葉が切れてしまった。悪い印象を与えてたら申し訳ない。もっと感情を隠す努力をしなければ、刑事としてやっていけない。唇をしっかりと一文字に結び、前を向く。日が沈む前に見つかればいいんだけど。と祈りながら、まずは喫煙所に行くために階段を降り始めた。



「いない…」

日はとっくに沈み、月明かりと街灯の明かりが公園を照らす。
喫煙所や、昼寝場所、非常階段なども探し回ったが、服部課長はどこにもいず。一度課に戻ってみるも、すべて空振り。公園に向かうところを見かけたという人の証言を頼りに公園へとやってきたが、どうやら無駄足だったようだ。
作成した書類も、菅野君から預かった書類も、長時間持ち歩いていたからか所々にしわができていた。
ベンチに座り、書類にできたしわを眺める。わざわざ探し行かず朝霧さんにでも預けておけば良かったんじゃないか、とか。これだけ探してもいないなんて嫌われているんじゃないか、とか。嫌な考えがどんどんあふれて、じわりと視界が滲んだ。
書類に斑点模様ができないように、慌てて腕を上げると、スッと書類が手からすり抜けていった。風も吹いていないのに、と咄嗟に後ろを振り向く。

「は、ずいぶんと不細工な顔だねえ」
「ひゃっ、はっとりかちょっ」

薄い唇に弧を描きこちらを見下ろすのは、ずっと探していた服部課長だった。
パラパラと書類を捲っていく服部課長を呆然と見上げていると、不意に課長の視線がこちらに向き、ゆるりとした動作で首をかしげられる。

「なーに?俺に見惚れちゃった?」
「へぁっ!?い、いいいえ!そんな!滅相もっ!!」
「ほーん」
「あっ、いやっ、あの…えっと…」

考えの読めない目が私を射貫く。そしてごく自然な動作でそらされた視線。たったそれだけなのに、全身が冷え、胸の奥がズキリと痛んで俯いてしまった。
いつからこんなに喋るのが苦手になってしまったのか。いや、どうしてこんなにもこの人が苦手なんだろうか。伝えなければいけないことが沢山あるのに、舌がうまく回らない、肺から空気が抜けていかない。喉の奥で息が詰まって息苦しい。全身に力が入って、指の先から震えが襲ってくる。訳の分からない恐怖に支配され、呼吸が浅くなる。

「よくできました」
「へ、」

ぽんと頭に乗せられる大きく骨張った手。いつの間にか隣に座っていた服部課長は、優しい目をして私の頭を撫でていた。
まるで魔法にかけられたみたいに震えが止まり、息苦しさがなくなる。なのに、目からは洪水が起きたように涙があふれ、口からは嗚咽しかでない。

「ありゃ、もっと不細工な顔になっちゃったねえ」
「はっ、とりかちょ…あの、うっひぅっ…」
「はいはいよしよーし」
「うぅ……ぅっぐっ」

頭を撫でられ、背中を優しく叩かれ、ほとんど抱き合っているみたいな状況で、服部課長から離れることもできず、泣き続けることしかできなくて、訳が分からなくて、訳が分からない。どうしてこんなにも怖いのに、服部課長に撫でられるのはこんなに安心するのか。

「はっどりかちょ……あの、」
「んー?」

少し落ち着いて、今の状況にまた落ち着きがなくなりそうになる。
大魔王様に抱きしめられてる!いやいやそんなことは置いておけ、いや置いておいちゃだめだ、今すぐ離れて、離れて何だっけ?そうだ、書類に判子を、判子をもらいに来たんだよぉ…。そんなことにもこんなに時間をかけてしまう自分が心底情けなくなって、また涙が出そうになったけど、ぐっとこらえて服部課長を見る。
整った顔が至近距離にあって思わず身を引いてしまったが、大丈夫だ、頑張れ!恐れるな、立ち向かうんだ私!

「…は!んこを…くだ…さ、ぃ」

ようやく絞り出した声は、かすれて鼻声で、ものすごくひどい物だった。恐れまくりじゃないか私。全然だいじょぶくない。
泣き腫らし、たぶん鼻も垂れている状態でなにを言っているんだ。と、いつもは考えの読めない目が、わかりやすく丸くなった。珍しい表情にあっけにとられるが、そんな表情は一瞬で崩れ、大魔王の笑みが視界いっぱいに広がった。

「ちゃんとおつかいが出来た泣き虫わんこには、ご褒美をあげないとね――はい」
「ぅへっ?」

楽しそうに笑った服部課長。頬に当たった丸い印鑑。確実に着いた。インクが。
今の私は服部印の印鑑が押され、呆けた表情のまま固まる愉快な人間になっているだろう。いやなんで私にポンッて押したんだろう?なんの儀式?生贄?大魔王の儀式の素材にされてしまうの??
どこか楽しそうに私を撫でる服部課長の表情からはその意図は全く見えない。いつも何も見えてないけど、いつも以上に何を考えてらっしゃるのか分からない。

「へ、えっ、あの…かちょ…いえ、あの」
「花丸が良かった?」
「えっ?!あっ、いえ!ハンコは、…しょるいに…」
「次は花丸をあげようねえ」
「ぇぇ…?」

混乱する私を横目にベンチから立ち上がった服部課長。

「はいこれ」
「か、ばん…?あれっ私の」
「今日はこのまま直帰ね」
「あ、…は、い」
「じゃあ、おつかれさん」

ひらひらと振られる手と遠ざかっていく背中を眺めながら、呆然と立ち尽くす。
直帰、おうちに帰れる。そう頭が理解した時には既に服部課長の姿はなく、ベンチと共に暗い公園の中に取り残されていた。

「かえろ…」

疲労からかふらふらとした足取りで帰路につく。帰り道のことはよく覚えていない。

化粧を落とすために見た鏡でふと目に付いた赤い丸。ご褒美と言われ押された服部と書かれたハンコのあと。
鏡越しに赤い丸にそっと触れると、ぶわ、と頬に熱が集まった。慌てて冷水を顔にかけ顔を洗う。
スッキリした気分で再び鏡を見ると、赤い丸は綺麗消えていて、何故か少し気が抜けた。

「…明日もがんばろ」


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