「いと」に合った針

あそこの少年は今どんな気持ちだろう…
あのカップルは仲良くしているのだろうか…
飛んでいる鳥は何を考えているのだろう…。
行動、言葉遣い、声、表情 ――――
動物に比べて人の心は難しい。だが本当は素直な一本の糸が絡まっていたり、途切れていたり、その糸に合った針が見つからなかっただけで、こちらが丁寧に扱えばそんなに難しい糸ではない。
そのことがわかった今は、どこか安心する気持ちと少し寂しい気持ちがあった。彼女が現れるまでは……。





▽部屋にコップが置いてある。それをぼんやり眺めていた心地良い昼過ぎ。水が半分しか入ってない……いや、半分も入っている。
自分はどちらに考える人間なのだろう…。
人は見方で考えも気持ちも変わってしまう、でも研究室にこもってばかりじゃ自分の見方しかわからない。
コップの残りの水を飲み干し、研究室を後にする。



雲がプカプカ気持ちよさそうに浮かんでいる。
公園は人間観察に最適だ、色んな人が色んな思いでここに来ている。
ブランコから少し離れた木陰のベンチに腰をかけ、遊んでいる子供たち、仲良く座っているカップル、ランニングしているお兄さん、蝶、空、飛行機、鳥――――
色んな生き物が明るい輝きを放ちながら生きていた。
あぁなんて充実した幸せな時間を過ごしてるのか…なんて微笑みながら眺めてた。



気が付くと日が傾きかけていることがわかった。夕方近くまでここにいたらしい。
たくさんの参考になるものを見させてもらったが、どの生き物もコップの水の後者の見方の人ばかりだった。まだこれだけある。人生まだまだ先がある、そんな幸せな気持ちで溢れていた公園は守っていきたいと思うくらいにホッコリした。
そろそろ帰ろうかと思った時、向かいの方のベンチに一人の女性が座った。女性の顔はどこか寂しそうで、でも寂しくないと意地を張っているようにも見える無表情だった。
人が少なくなっていく公園…、どこからか学校のチャイムが聞こえる。空もいつの間にかオレンジ色。街灯もつき始めてきた。
その女性は肩にかけていたカバンを横に置き、そこから何を出すこともなく何をすることもなく足元を眺めていた。
寂しいこと、悲しいこと、疲れた時は自然と下を向く。
職業柄、観察してしまう悪い癖のせいでそんなにじっと見ていたのだろうか、その女性と目が合い睨まれた。
ハッとした僕は目を逸らし、昇りかけている薄い色の月を見た。
空はどんどん夕方から夜に近付いているようだった。星も少しずつ見えてきている。
今日は星がとてもスッキリ見える日だ。風もとても気持ちよく、何かスーッと意識がなくなる感覚がした。



気が付くともうほぼ真っ暗になり、月もくっきり光っていた。いつの間にか寝てしまっていたと気付き慌てて腕時計を見ると午後7時30分であった。
少し風が寒いと感じたと同時に、足が温かいことに気が付く。
ブランケット……。
誰のかと周りを見ると、僕と少し距離をあけた隣に、向かいに座っていたあの女性がいた。
「寒くなってきたのによくこんなところで寝られますね。」
少し薄着な僕を見ながら、ホットの缶コーヒーを渡してきた。
「あ、ありがとう…ございます。」
あとのございますは聞こえていたかわからないくらいの声しか出なかった。
「ひざ掛けも、缶コーヒーも、ぼ、僕のためにありがとう。」
もう一度しっかりありがとうと言いたくなった。
だがその女性は常に無表情だった。
微笑みもせず、怒りもせず、ただただ無表情。
「この缶コーヒーは私が買った時に当たりが出てもう一つゲットできただけなので、勘違いしないでくださいね。…あ、あと今さっき私のことじっと見てましたけど、何か用ですか?」
相変わらずの無表情。
「あ、い、いえ、ただ少しお疲れ気味な表情をされてたように思ったので…。」
少しおどおどして答えた。どう考えても他人からすれば僕は変質者にしか思えないだろう…。
「……。」女性は黙ってコーヒーを飲んだ。
図星だったのだろうか、小さな悩みなら反発する気力があるだろうが、今のその女性にはそんな力を出すこともできないようだ。そんなに深刻なのだろうか…。
「……、も、もし良ければ悩み聞きますよ?こんなところでって思うかもしれませんが、何かの縁ですし…。こう見えても臨床心理士の免許持ってますから、愚痴でも構いませんので遠慮なく言って下さい。」
こうやって空気を読まずに行動してしまう自分はきっと心理学者としては失格なんじゃないかと思う。
だが、この女性はコップの水の前者の考えの人のように思えたので、まだ集まってないデータを集めたかったのだ。
「…わからないくせに。」女性は無表情で答えた。
「どうせわからないくせに、私の気持ちなんて誰も。」言葉は少しキツイ感じがしたが、表情は何一つ変わらない。
「では、素直に感情を表現してみてはどうでしょう?見ているところ、表情表現が少ない気がします。感情を顔に出したり、言葉で素直に伝えることは大切なことですよ!」
と、口では言うものの僕は素直に表に感情が出てしまうタイプのため、どちらかというとアドバイスする側よりも無表情にするためのコツを教えてもらいたいほどだったが…。
「……。もともとは素直に意見を言ってました。でも皆に『当たりがキツイ』『言葉が冷たい』って言われてからは自分の気持ちを隠すようにしたんです。素直に言って傷つけるくらいなら、自分を抑えて気持ちが表に出ないようにするほうが楽な気がしたので。」


その女性は結局話の最後まで表情を変えることはなかった。
もう知らぬ間に午後8時30分になっていたのでお互いそろそろ帰らなければと思い、女性は少し小走りで帰っていき、僕はそれをただ見届け研究室に戻った。

それにしても不思議であった。あそこまで表情に出さない人は珍しい。
最後に「…、なんかすみません。愚痴聞いて下さって。言いたくても聞いてくれる人なんていないものですから…嬉しかったです。少しスッキリしました、ありがとうございます。」と言っていたがやっぱり無表情であった。
「嬉しい」と言いながらもとても嬉しそうには見えない表情だったが、態度だけ見ると少しスキップ混じりの小走りで嬉しそうだった。

「…不思議な人だなぁ。」

人間の心は難しい。しかし、それは絡まった糸や途切れた糸のようなもので、こちらが丁寧に扱えば思ったよりも簡単で、典型的で、わからない心情なんてないのかもしれない…と思って安心していた傍ら、ミステリアスに思っていたものも実はそこまでミステリーではないと感じると、まだ見ていないアニメの内容をネタバレされた時のように、何か少し楽しみが減ったように思えて寂しくも思っていた。
でも今は違う。あの女性のようにまだまだ心情を読み取りにくい人がいるんだ。
素直なまっすぐの糸でもすんなり針の穴に通すことは難しい。
まして絡まっていたり、途切れている糸ならなおさら難しい。
僕は不器用だ。だから心をつかむ、気持ちを読み取る能力をつけたかった。だからこの職を極めようと思ったんだ。
たとえどんな人が何度挑戦しても通すことができない糸であっても、僕が通しやすい針になり不器用ながらでも縫えるくらい使える糸と針になるように……。



いつかあの女性が素直に微笑んでくれるように。










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