毎日に小さな楽しみ
9月になって、幾らか日が経った。学生さんは二学期とやらに入った時期だ。二学期。懐かしすぎる響きだ。学生っぽい言葉を聞くたびに、翠くんを思い出しながら若いなあと思う。
社会人になって変わったことは、個人的にふたつ。ひとつは長期休暇がないこと。もちろん会社次第なのかもしれないが、それでも学生時代は当たり前だった約40日間の夏休みなんてものは、まずない。そんなことしてたら給料なくなるし、出勤するのが億劫になるから要らないのだけど。
もうひとつは、曜日感覚が無くなることだ。消費期限などがあるから日にちは忘れることはないけれど、こと曜日においては、必要がないからてんで忘れるのだ。定休日だけは前日になって辛うじて思い出す程度だけど、土日休みってわけでもないので覚える必要がない。学生のときは月曜日が憂鬱とか、水曜日は中弛みしやすいとか、金曜日は嬉しいとかいろいろあったと思うけど、今はそんなことは一切考えなくなった。曜日関係なく働いているから。
平日の昼過ぎの時間は、基本的に落ち着いた営業だ。お客さんで賑わっているお店も無論好きだが、ちょっと一息つける時間帯も好き。やるべきことを、ゆっくり、確実にできるから。でも最近は、平日のこのくらいの時間帯を好きな理由が、ひとつ増えた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
そう、これ。放課後、翠くんが来てくれるかもしれないという楽しみだ。このくらいの時間にドアが開くと、真っ先に反応するようになっちゃった。
今日はわたしから言わなくても、翠くんの方からわたしの前のカウンター席に座った。…このあいだ誘導したせいか、なんとなく座らなきゃいけない雰囲気にさせちゃったかな。嫌々じゃないと、いいんだけど。そして翠くんは、今日は珍しくメニューを手に取って眺めている。なにか欲しいのかな。
「なにか気になるものあった?」
「あ、いえ…なんとなく眺めていただけで」
「そっか。いつでも声かけてね」
「はい。……こうやって見ると、結構食事ものも充実してるんスね」
「そうだね。軽食からちゃんとしたものまで、割と幅広く用意してるよ」
「へえ…すごいっスね」
「おなかは空いてない?」
「今は大丈夫です。…ココア、ください」
「かしこまりました」
ココアとだけ言ったということは、ご所望はホットココアね。本来ならちゃんと確認しなきゃいけないんだろうけど、わかるんだよね。なんとなく、だけど。
ホットココアを用意して、翠くんの前に出す。「お待たせ致しました」とカップを差し出して、手を引っ込める瞬間気付いた。今翠くんが持ってるスマホのケースに、わたしは見覚えがある。
「あ、それ…」
「早速使わせてもらってます」
翠くんのスマホには、この前わたしがあげたケースがくっついていた。本当に使ってくれてるなんて。…どうしよう、めちゃくちゃ嬉しい。
「こんなにすぐ使ってくれるなんて嬉しい。ありがとう」
「俺こそ、ありがとうございます。こんなに可愛いスマホケース、はじめてです。嫌なことがあったときは、こうして眺めているだけで汚い心が浄化されていくんです。ほんと、俺の癒しです」
「……お姉さん、きみのことが少しだけ心配だよ」
スマホケースというか、ゆるキャラを見て汚い心を浄化って…なかなか深刻だと思う。でも当の翠くんは至って真面目なんだろうね。だって今こうしてゆるキャラを眺めている瞬間も、緩みきった顔をしている。翠くんがそれで満足するなら、余計なことは言えないや。
「そういえば芽衣さんは、ゆるキャラに興味ないですか」
「うーん……人並みかなあ。それに、メジャーどころじゃないと名前と見た目が一致しないかも」
「入り口なんて、みんなそんなもんっスよ。芽衣さん、好きなゆるキャラいないんですか」
「そうだなあ……いることは、いる」
「教えてください」
翠くんは身を乗り出してきた。ゆるキャラのことになると人格変わるよなあとつくづく思う。…好きなゆるキャラ、かあ。ゆるキャラに限らず、あんまりこういう話したことないな。あの親友は別だけど。あの子以外とこういう話するって…翠くん、ガチめに親友じゃん。
「メジャーすぎて引くかもよ」
「絶対に引きません。だから教えてください」
「…バリィさん」
わたしの答えに、翠くんはすかさず目を輝かせる。同時に表情も一気に明るくなった。普段は大人びた顔なのに、こんなふうに年相応の顔もするんだなーと呑気に考えてしまった。
「おおー!芽衣さんはバリィさん派でしたか!すげえいいセンスしてますよ!」
「ま、まじですか」
「はい!俺もバリィさんお気に入りです!こんなところでバリィさん愛好家に出逢えるなんて!運命です!」
いや、これ絶対「運命」の使い方間違えてる。こんな日常で使うような言葉じゃないぞ。それに愛好家と名乗れるレベルでもない。名乗ったら翠くんに失礼だろう。
「よかったら今度、俺のバリィさんグッズお裾分けしますよ」
「そんな、気を遣わないで。翠くんの大事なものでしょ」
「だからこそ芽衣さんにも、良さをもっと知ってほしいんです。どんなものがいいですか?実用的なものか、置物みたいなものか」
ああー…エンジンかかっちゃったなー。なんかもう渡すこと前提で話を進めてる。ひとの話を聞いているのかいないのか。こうなるともう選択肢は受け取るか否かじゃなくて、実用的か置物かのふたつしかないのだろう。それに今の翠くん、とてもいい顔をしている。これを断るのは、いかがなものかと思うくらいに。
「その二択なら、実用的なものがいいな」
「実用的なものですね!わかりました!明日持ってきますね!」
「あ、明日!?」
「もしかして明日じゃ遅いですか?気が利かなくてすみません。今から帰ってソッコー持ってくることも可能ですから、そうしましょうか」
「いやいや!逆!そんな急じゃなくていいよ!」
テンションが上がりきって暴走気味な翠くん。どこまで突っ走ってしまうつもりなのか。本当に今にも帰りそうな翠くんを慌てて制した。
「急がなくていいから。翠くんなりに考えて、わたしに譲ってもいいって思ったものを持ってきてほしい」
「わかりました。期待していてくださいね。とっておき、用意しますから」
そう言って笑った翠くんは、相変わらずいい顔。わたしにとっては、楽しそうな翠くんの姿が、既にとっておきなんだけどね。本人に言えることじゃないんだけどさ。だってこんな顔、普通のファンだったら見られないわけだもんね。……こんなにおいしい思いさせてもらって、ごちそうさまですって感じ、ほんと。
.【back】