現実は優しく、残酷だ





自宅に着くなり、鞄を適当に置いて、着替えもせず、化粧も落とさずベッドに雪崩れ込んだ。化粧がつかないようには気を付けたけど、それ以外はどうでもよかった。自己嫌悪というものが、今のわたしを表現するのにいちばん近いと思った。そして、この体勢になって、どれくらいの時間が経過しただろうか。帰ってきてからずっと、無意味な問答を自分のなかで続けている。

…今日は、いろんな意味で最悪の一日だった。翠くんに「行くからね!」とあんなに高らかに宣言しておいて、あのザマだ。わたしの完全なるエゴで、翠くんに逢える直前で逃げ出したのだから。翠くんに逢いに行けるのは楽しみで仕方なかった。本当だよ、嘘じゃないよ。会場にはたくさんのファンがいて、流星隊が、翠くんがこんなに愛されているなんて素敵だねって、前なら思っただろう。実際、海賊フェスのときは、そうだった。でも今回は違った。女の子のファンの子たちと交流する翠くんを見て、どうしようもないくらい辛かった。胸が苦しかった。それを自覚したのと同時に、とうとう本当に、わたしは純粋なファンでいられなくなってしまったんだなと思った。

これから、どんな顔して接すればいいのだろう。きっと翠くんは、以前までと変わらず、わたしを友だちって思ってくれるのだろう。それは嬉しい。嬉しいけど、辛い。わたしと翠くんのあいだに、決定的な差ができてしまったから。どうやったって、この差は埋まらない。埋められない。

……ああもう、だめだ。考えたって埒が明かない。時計を見ると22時をゆうに回っていた。どうしようもないし、今日はもう寝よう。お風呂は明日の朝イチでいいや。現実から逃げるように布団に潜り込んだ途端、携帯が鳴った。正確に言えばマナーモードだから、震えてるという表現の方が合っているのだろう。………長い。電話だ。誰だろう。出たくないな、出なきゃだめかな。電話に出んわ……うーわ、くっそつまらない。ていうか社会人として、いち人間として無視は良くない。お店かな。あるいは…あの子かな。わたしの下手な言い訳をばか正直に信じてくれて、ずっと心配してくれてたもんな。布団から腕を伸ばして、放ったばかりの携帯を取った。


「…はい」

「……芽衣さん」


反射的に飛び上がった。聞こえてきたのは翠くんの声だった。驚いた、なんの前触れもなしに…そもそも電話もらうのなんて、夏以来だ。やばい、こんなダイレクトに翠くんの声が聞こえるなんて心臓に悪い。相手をよく確認しなかったわたしが全面的に悪いが。


「み、翠くん…!」

「あの…すみません。体調よくないときに、電話して…」

「う、ううん。全然、平気…」


翠くんの気遣いに良心が痛む。ずきずき、なんて可愛いものじゃない。鈍器で容赦なくタコ殴りにされてるみたい。本当はなんでもない、仮病に近いドタキャンなのに。


「あ、えっと…そ、それより今日、ごめんね。行くってあれほど言っておきながら…」

「いえ。…具合、どうっスか」

「う、うん。だいぶ、良くはなってきた」

「そっスか。……それなら、よかった」


翠くんがわたしに気付いていたことは知っていた。あの子に預けた鞄を見て気付いたのだろう。「お連れの方は…?」と、翠くんが声をかけてくれたとあの子から聞いたから。ちなみに、そのとき咄嗟に「急な体調不良」と答えてくれたことも知っている。


「……あの…今から、行ってもいいですか」

「え…ど、どこに?」

「芽衣さんのところ」

「うえぇぇえっ!!?」


突然の提案に自分のものとは思えない声が出た。なにを言い出すんだこの子は。一応、翠くんには体調不良ということにしている。だから設定上は病み上がりみたいなものなのに。幾ら家を知っているからって突撃してくるつもりか。なんて強心臓。


「…やっぱり、まだ本調子じゃないですか」

「そうでもな…くは、ないけど……てか高校生が今の時間に出歩いてるの見つかったら補導される」

「見つからなきゃ大丈夫です」


いやいや、そういう問題じゃないよ。事実22時回ってるんだから。見つかった場合を考えなさい。翠くんって変なところで度胸あるっていうか、強情っていうか……


「…わかった。でも、翠くんは待ってて。わたしが行く」

「でも、芽衣さん……」

「車で行くから、わたしは大丈夫。わたしも翠くんに万が一のことがあったら嫌だよ。着いたらまた連絡するから、待ってて」

「……わかりました。気をつけて」


本当は調子悪くなんてない。精神面では良くないけど、体調面では問題ない。心配してくれるたびに心がちくちく痛むが、そんなこと言ってる場合じゃない。免許証が入ってる財布と携帯、車のキーだけ鞄に入れる。着替え…は、いいか。パーカーだけ羽織っていこう。

車を使えば翠くんのおうちがある商店街までは早い。ハザードを点けて路肩に停めて「商店街の入口に着いたよ」とメッセージを送ると、秒速で「すぐ行きます」と返事が来た。この速さは尋常じゃない。まさかずっと待っててくれたのか。ならばせめて、わたしも車の外で待っていよう。そう思って車から降りて、わかりやすいよう街灯の近くに移動する。割とすぐに向こうから走ってくる人影が見えた。タイミングとあの背格好からして、間違いなく翠くんだ。


「芽衣さん」

「ごめんね。お待たせ」

「いえ。…俺こそすみません、無理言って」

「ううん。これくらい、いいよ。それより翠くん、大丈夫?おうちのひと、なにも言わなかった?」

「遠くには行かないって言ったんで、たぶん大丈夫です」


おいおい、たぶんって。本当に大丈夫なのか?それに、おうちのひとも大らかというか、なんというか。短時間といえど息子がこんな時間に外出すると言い出して不思議に思わないのか。翠くんのおうちは、そこらへん厳しくないのかな。…それとも今時の男の子って、こんなもんなのかな。わたしは女、ましてや一人っ子だからわからないけど。

このまま外で話を続けるのも変だと思って、取り敢えず「乗って」と案内する。それ以上言わなくても翠くんは助手席に乗ったから、わたしも運転に座ることにした。別に運転するつもりはないから、まあ大丈夫でしょう。


「えっと…すみません。来てもらっちゃって」

「ううん、全然。…わたしこそ、改めて今日はごめんなさい。どういう形であれ、ドタキャンになっちゃって」

「いえ。芽衣さんに、なにもなければ…それでいいです」

「そ、そう。ありがとう…」


翠くんの気遣いに、やっぱり良心が痛んだ。本当はこんなに心配してもらう権利なんてない。臆病者で卑怯者のわたしには。そんなことを考えて俯いたわたしの視界に、大きな手が映り込んできた。顔を上げると、当たり前なんだけど翠くんが右手をわたしに向かって差し出していた。


「…翠くん?」

「俺ひとりじゃ、物足りないかもしれませんが……」

「………えっ」

「その…仕切り直し、ってわけじゃ、ないですけど…それに俺、今は衣装着てないから、ただの高峯翠だし…」


差し出された手に、今の言葉。これがどういう意味なのか、わからないほど馬鹿ではない。わたしが逃げ出したのが悪いのに、どうしてここまでしてくれるの。もしかして、この為だけに来てくれたの。体調不良を鵜呑みにして、こんなことまでしてくれるの。……やばい、どうしよう、泣きそうだ。でも泣いたって仕方ない。どうにかなるわけじゃない。今はとにかく、翠くんに感謝を伝えなきゃ。


「ありがとう。翠くん。……一応、流星グリーンって呼んだ方がよかった?」

「あ、いえ…芽衣さんに任せます」


分別するべきか、お言葉に甘えるか。迷ったが、ここは分別すべきと判断して「流星グリーン」と呼んだ。「はい」と返事をしてくれた翠くんの大きな手に、わたしも手を伸ばして、ゆっくり、でもしっかり握る。


「いつも元気をくれて、ありがとう。どこまででも、ついていきます。今までも、これからも、ずっと応援します」

「…はい。ありがとうございます」


これは紛れもなく、今日言おうと思っていた言葉。ちゃんと、目を見て言えた。高峯翠ではなく、流星グリーンに向けて、ちゃんと言えた。偉い。今のわたし、世界でいちばん偉い。

最後にもう一度、わたしよりもずっと大きな手を、きゅっと握って、そっと離した。そんなに温度差があるわけではないのに、翠くんから離れた手が急に冷たく感じた。


「今日中に、芽衣さんに逢えてよかった」

「うん。わたしも、翠くんに逢えてよかった。ほんとにありがとう」

「…まあ、芽衣さんの為ってのも、なくはないですけど……殆ど自分の為ですし」


だからお礼を言われるようなことじゃないです。この言葉の意味は、よくわからなかった。その真意を知ろうと百面相をしていたであろうわたしに、翠くんは表情を緩めた。


「…今日、芽衣さん、来るって言ってくれたから。俺、それだけが楽しみで一日がんばったんですよ」

「……え…っ」

「だから……もらってもいいですよね。ご褒美」


いつもより優しく見えた翠くんの表情に、心臓が爆発するかと思った。ああもう、だめだ、これはだめ。翠くんを好きなんだって自覚したその日に、こんなのよくない。心臓というか、全身が一気に熱を帯びる。

好きになっちゃいけないって、わかってた。そもそも好きになるなんて思わなかった。歳の差、立場の差、わたしたちには沢山の差がある。そんなことは出逢ったときから解りきっていた。

前途多難どころか、うまくいくとは到底思っていない。それでもわたしは、アイドル高峯翠じゃなく、等身大の翠くんに恋をしてしまった。



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