後戻りなんてできっこない
ついに、わたしは自分の本当の気持ちを自覚してしまった。気付きたくなかったが、こればかりは悔いても嘆いても仕方がない。きっと、あのとき気付かなくても、いつかは向き合うときが来る。時間の問題。そう思わざるを得ないほど、この気持ちは大きなものだった。…まあ、それは置いといて。当面の問題は、これからどうするか、だ。
自分の気持ちに気付いてしまったけれど、だからなんだって感じだし。それにお友だちをやめようとか、そういうことは考えてない。逢うのをやめる、お友だちをやめる、このままお友だちとして仲良くしてもらう……どの選択肢を選んでも、辛いことに変わりはない。究極論かつ結果論だが、わたしが翠くんに恋愛感情を向けることさえなければよかった。ただそれだけのこと。…それだけのことだと、わかっている。それでも、どうしようもなかった。気付いたときには既に、好きになってた。
よくよく考えれば、誰かを「好き」って思ったの、いつぶりだろう。ちゃんと好きになったの、いつぶりだろう。どうやら覚えていないくらい久しいことのようだ。わたしにも一応、こういう純粋な部分は残ってたんだなあと変に感慨深くなってみた。それもこれも、相手が翠くんだからだ。翠くんじゃなかったら、興味をもつことも、好きになることもなかった。だから結局、考えれば考えるほど…悩めば悩むほど、無駄なんだよな、きっと。
「芽衣さん」
「ぴゃっ!!?」
背後から急に聞こえた声に驚いて、くっそ変な声を上げてしまった。……なんかこんなの、前にもあったよね。またやっちゃったのか。振り返った先にいた翠くんは「なんスか、今の」と、おかしそうに笑った。なにそれ、その顔めっちゃ素敵。どちゃくそ格好いい。…って、見惚れてる場合じゃないね。
「えっと…気を取り直して。いらっしゃい」
「はい。…珍しいっスね。外のお掃除してる」
「そう?結構な頻度でしてるよ」
「そっスか?はじめて見ました」
不思議そうな顔の翠くんに、自分の頭の中でも記憶を呼び起こしてみる。そういえばお店の中でも外でも、がっつり掃除中に翠くんと逢ったことなかったかも。偶然と言ってしまえばそれまでだけど。
「今日、ちょっと風強いからさ。しょっちゅう枯れ葉が散っちゃうの。だから暇見てやってる」
「なるほど。お疲れさまです」
「ありがと。…えっと、今日は、どうする?寄ってく?」
「そのつもりで来たんスけど」
よく知ってるはずの、いつもの穏やかな顔と声なのに。過剰なまでに反応する、わたしの心臓。あーもう。今まで気にならなかったことが気になって仕方ない。好きって自覚したら、もう止められない。いやいや、しっかりしろ、わたし。
翠くんに気付かれないよう深呼吸して、一息ついてから「どうぞ」とお店の戸を開ける。……こうして翠くんをお出迎えして、ドアを開けてあげるっていうの、はじめてだ。そのせいなのか、慣れているはずのカランというベルも音色も新鮮に聴こえた。
「今日もカウンターでいいの?」
「はい。なんか、こっち慣れちゃったんで」
「そっか。さて、今日はどうする?」
「いつもの、お願いします」
「畏まりました」
いつもの、といったらココアだね。絵も込みで、いつものってことだよな。…なんだかもう、すっかり常連さんになってくれたなあ。ココアを出してる回数よりも、自然と上手くなっていく絵を見てそう思った。翠くんが来なければ、こうしてお絵かきする機会なんて絶対なかったもんな。あと、ゆるキャラのこと知ろうなんてことも思わなかったよな。
「はい。お待たせ致しました」
「ありがとうございます」
出来上がったココアと、定番になったお絵かき済みコースターを一緒に出す。翠くんはいつも丁寧に「ありがとうございます」と言ってくれる。翠くんは、わたしの絵を楽しみにしてる。そしてわたしは、それ以上に翠くんの反応を楽しみにしてる。
「芽衣さん!」
「はあい」
「芽衣さん、このキャラ知ってたんスね!今これ俺の中でめっちゃブームきてるんですよ!」
「おかげで最近ゆるキャラに詳しくなってきてるよ」
「嬉しいです!うわー、どうしようやばい、超かわいいー…!」
わたしが描いたキャラが偶然にも今気に入ってるみたいで、一段と笑顔が眩しい。今日もとてもいい反応だ。本当に喜んでくれてるみたいだから、そのこと自体は嬉しい。…だけど。それでわたしの気が晴れるかと言ったら、そうではない。……罪滅ぼし、というわけではないけど。こんなことをしたって、あの日のわたしの行動が、なかったことになるわけない。やっぱり改めて、謝っておきたい。翠くんがコースターを丁寧にしまったのを見届けて、覚悟を決めて「……翠くん」と声を絞り出す。
「この間は、ほんとにごめんね」
「え、なにが?」
「だから、その……握手会。ドタキャン紛いのことして」
「ああ、それ。そのことなら言ったじゃないスか。芽衣さんに、なにもなければそれでいいって」
「そ、そうだけど…」
翠くんはそれでいいかもしれないけど、わたしは良くない。翠くんが許してくれたとしても、あの日わたしが逃げ出したこと、あのチャンスをふいにしたことは変わらない。全部自業自得なんだけど、それでも後悔は残る。自分の情けなさに腹が立つのと同時に、誘ってくれた翠くんに対しても失礼極まりなくて。
「……そこまで落ち込んでる原因って、なんスか」
「え?」
「俺が何度言っても、全然響いてないみたいだし。本当に俺は、芽衣さんが無事ならそれでいいって思ってるのに」
…気のせいだろうか。翠くんの口調が、少し強い。機嫌が悪いとか、怒ってるってわけではないんだろうけど……拗ねてる、ってわけでは…ないのかな。そもそも翠くんが拗ねる原因がないよな。
「そう簡単には割りきれないの。楽しみにしてたことに変わりはないから」
「…なにを楽しみにしてたんスか」
「なにをと言われても…そんなの全部だよ」
「具体的にあるでしょ。例えば……どこのユニット見たかったとか…誰かに逢いたかった、とか」
核心を突いてくる一言に、どう返せばいいものかと戸惑ってしまう。誰に逢いたかったって、そんなの、誰かじゃないよ。そりゃあ流星隊のみんなにまた逢えることになるのは楽しみだった。挨拶は出来なくても、また顔を合わせられるのは純粋に楽しみ。ならば、じゃあ誰に逢いたかったのと問われれば、その答えはひとつしかない。
「…翠くんさ、前にわたしが自爆したの知ってるよね」
「なんの?」
「海賊フェスのとき。誰に逢いに行ったか、知ってるはずだよ」
翠くんに逢いに行ったと、ついうっかり口を滑らせたことがある。あのときはまだ、ここまでなかよしってわけじゃなかったし。そのこと自体を翠くんは全然普通に受け入れてはくれたけど、あれはなかなかの地雷を踏み抜いたと思った。そして翠くんはそのことを思い出したのか、一瞬目を大きくしたあと、ばつが悪そうに視線を下げた。
「いや、それは、その……覚えてます、けど…あれからだいぶ経ってるし。……心変わりとか、しててもおかしくないかなって」
「残念。してないんだわ」
だからこんなに凹んでるんだよ。この一言には自然と気持ちが入ってた。自分でもわかるくらい、いつもより低いトーンだった。さすがにわかりやすかったか、それとも理解してくれたのか。翠くんはようやく納得したのか柔らかい口調で「わかりました」と言ってくれた。
「…じゃあ、その代わりと言っちゃ、なんスけど」
「うん」
「いつになるか、まだわかんないけど。……またライブ来てください。それでチャラにします」
それでチャラって………なんだろうなあ。どうして翠くんは、こんなに優しいんだろう。こんなにもわたしを励ましてくれるのだろう。好きってことを差し引いても、これはうれしい。だって、まだファンでいていいってことでしょう…?
「うん。次は、必ず」
「次からは、にしてほしいんスけどね」
わたしの言葉を翠くんはすぐ訂正した。なんでとわたしが訊く前に、続けて「次だけじゃ、さみしいんで」と言った。口調と一致する優しい顔つきに正気を失うところだった。仕事忘れて泣くとこだった。だってさ、そんな言い方、やめてよ。ただのファンだったとしても勘違いするよ。わたしの場合はそこに私情を挟んでるから尚更だけど。この浮かれた思考を鎮めるには、漫画みたいに壁に頭を思いっきり打ち付けたほうがいいかな。そうでもしないと、本当にまともでいられないよ。
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