無意識なのはお互い様
「芽衣ちゃん。なんかいいことあった?」
「え?な、なんで?」
「だって、珍しく歌ってるからさ。それ、なんて歌?」
…気付かなかった。完全に無意識だった。同僚に指摘されるまで気付かないって、どんだけ上機嫌だよって話だ。お客さん少なくてよかった。ていうかお客さんいるのに気抜くなってね。
「…ごめん。うるさかった?」
「ううん。口ずさむ程度だったから特にうるさいとは思わなかったよ」
「ならよかった。…えっと、友達の付き添いで行ったライブでやってたの。楽しかったから、つい」
「そっか。よかったね」
「うんっ!」
同僚が後ろの倉庫へ行ったのを見届けて、ふう、とひとつため息をついた。ああ、まだ夢見心地だ。あの流星隊のライブも、とってもよかった。……グッズ、大人買いしちゃったもんな。ライブ前に買ったにもかかわらず、ライブが楽しすぎてハイになってしまって、終わってからも物販に行った。まだ僅かに残っていたキーホルダーとマフラータオルの予備を買った。
このあいだのライブは『UNDEAD』というユニットと合同開催のようで、また彼らの新しい一面を見ることができた。UNDEAD海賊もよかったけれど、流星隊海軍に夢中だった。そのなかでも海軍衣装の翠くんは、とりわけ格好よかった。友人が言っていたように、推しができてからのライブは楽しくて仕方なかった。びっくりするくらい翠くんばかり目で追っていた。本当に整った顔してるんだなって改めて思った。それ以上に驚いたことがあった。翠くんのことばかり見ていたら翠くんの歌声もわかるようになったんだけど、べらぼうに歌が上手かった。ぶったまげるくらい綺麗な声をしていた。もともと普段の話し声が綺麗だもんな。でも歌うとまた一段と透き通った声になって、とても素敵だった。あのまま何時間でも何日間でも聴いていられると、馬鹿げたことを本気で思ってしまった。翠くんの喉を枯らす気か。
そんな心ここにあらずなわたしを現実世界へ引き戻すかのように、カランと心地よいベルが鳴る。お客さんだ。いい加減、ちゃんとしなきゃね。
「いらっしゃいませ」
来店したのは夢見心地の張本人、翠くんだった。いや、来てほしくないわけではない。むしろ嬉しい。夏休みに入って、暫くあの海岸でライブしていたからだろう、ここに来るのは久しぶりだ。「こちらへどうぞ」とカウンター席へ誘導すると、翠くんは頷いて、わたしの前の椅子に座った。
「えっと……アイスココア、ください」
「かしこまりました」
珍しいな、と思った。アイスココアの注文は、わたしが知る限りでは初だ。今日はちょっと暑いから、なんとなくアイスにしたい気持ちもわかる。今までホットココアだったもんね。わたしも季節関係なくホットココアばかり飲んでる……って、わたしのことはどうでもいいわ。
まず、いつものようにコースターに絵を描く。グラスに氷を入れて………と、ここで気付く。アイスココアだと水滴がつくよな、と。慣れとは怖い。でもこれがあるから翠くんは来てくれてる。楽しみにしてくれてるのを知ってる。注いだココアの上に生クリームを乗せて「滲むといけないから」と小声で先に断りを入れて、コースターとグラスを別々にして置いた。
翠くんがいつものようにコースターを存分に眺めて、ココアに手をつける。ちょうど今、翠くん以外のお客さんがお精算を終えて捌けた。同僚も、まだ後ろだろう。話しかけるなら今かな。あ、もちろん仕事はする。カップやグラス、お皿を片付けながら話しかけてみよう。
「久しぶりだね。夏休み、やっぱり忙しい?」
「まあ、ぼちぼち。…あの、芽衣さん」
「はい」
「勘違いだったら、すみません。……海賊フェス、来てくれました?」
持っていたお皿を落としそうになった。だって、あんな大人数のなかで、気付いてくれたなんて。………いや、待て、浮かれるのは早い。他のひとと間違えてる可能性だって大いにある。行ったことは間違いないから、ここは否定しないけど。
「…う、うん。遊びに行かせてもらったよ」
「初日の、割と前列の、真ん中くらいに、いませんでした…?…海軍シャツ、着てて……このあたりで髪結んでて…」
呼吸が止まるかと思った。初日に行ったことはおろか、あの日のわたしの特徴を、ことごとくドンピシャで言い当ててくる。気のせいなんかじゃなく、本当にわたしだって気付いていたんだ。…やばい。これは完全に、やばい。
「ご、ごめんなさい!」
「え!な、なんで!」
「だって、気持ち悪いじゃん!ここでお話するだけじゃ飽き足らず、流星隊のライブのスケジュール調べて、アイドルしてる翠くん観に行ってたなんて…」
「…俺に、逢いに来てくれたんスか」
「……あ!いや、えっと…!」
しまった!完全に墓穴掘った!翠くんに逢いに行ったと、はっきり言ってしまった。こんなに潔くストーカー宣言するなんて。幾ら動揺したからって、ほんとに馬鹿!
「…ありがとう、ございます」
翠くんがかけてくれたのは、予想外なことに感謝の言葉だった。なんで。絶対に軽蔑されると思ったのに。だってどう考えても気持ち悪いじゃん。
「前、ライブに来てくれたって、言ってたじゃないですか。だから今回も、来てくれたんだなって。……それに、真っ先に俺の名前出してくれて…」
そりゃあ、お目当ては翠くんだった。もちろん流星隊のライブであることが前提条件だけど、それでも、いちばん楽しみにしていたのは、翠くんの姿を見ることだった。本人にはそんなこと恥ずかしくて言えないけど。
「俺は全然、気持ち悪いとか、思ったりしないんで。…これからも来てくれたら嬉しいです」
「あ、う、うん!翠くんがいいなら、是非!」
「それと……もし、来られるときは事前に教えてください。芽衣さんに見せても恥ずかしくないよう、ちゃんと練習するんで」
「いや普段からしなよ」
「だって、めんどい……」
思わず苦笑い。めんどいというのはさすがに予想外だった。翠くんは、おもしろい。予想できない返しをしてくる。
「そういえば、わたしも翠くんのこと見つけたんだよ」
「そりゃあ、俺ステージにいましたから」
「そうじゃなくて。開演直前、ステージから飛び降りてきて、着ぐるみのもとにダッシュしていったでしょ」
間もなく開演するという瀬戸際にもかかわらず、目を輝かせてステージから降りてきて着ぐるみに話しかけていたのを目撃した。ゆるキャラじゃなくても、着ぐるみにも反応するんだねって、ファンの間でほっこりしてたんだよ。
「ああ、あれですね。近くの海の家のマスコットキャラだったみたいで。あの適当なデザイン、絶妙なゆるさが最高で。思わず飛びついちゃったんスよ」
「ふむ、海の家のキャラクターだったんだね」
「はい。プロデューサーの先輩が着てたんスけど、ステージがんばったらデートしてくれるっていうから」
「あらあらあらー。翠くんも女の子とデートかあ。ちゃっかりしてるのね」
「へ…?キャプテン喜怒哀楽…あ、マスコットの名前なんスけど。俺のデート相手はキャプテンっスよ」
「……なかなか斬新なジャンルだ」
翠くんの目はマジだった。女の子の先輩とデートじゃなくて、あくまで着ぐるみ相手ということか。大丈夫か。…まあ、翠くんがそれでいいなら、いいのかな。
「夏休み、まだあるね。これからもお仕事ありそう?」
「多分。…でもまあ、今回がんばったんで。先のことは、少し休んでから考えたいです」
「そうだね。お疲れさま。がんばったね」
なにはともあれ、翠くんがあのライブでがんばっていたのは事実だ。だから少しくらい休んでもいいんじゃないかな。ついこの間まで中学生だったんだし、いきなりそんなにハードに働いたりなんてできないだろう。たまには羽を伸ばしてリフレッシュするべきだ。
もし疲れが溜まってどうしようもなくなったときは、ここで一息ついてほしい。アイドルじゃない、普通の高校生高峯翠の、心休まる場所をつくってあげたい。それが、翠くんが見せてくれたパフォーマンスへの恩返しになると信じて、わたしは万全の準備をして、いつだってここで待っていよう。
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