重度の欠乏症
スマホを起動させて、電話帳を開いて、特定の場所までスクロール。そこに記された文字を眺める。そらの名前が、載っている。その事実が嬉しくて。夢みたいで。頬をつねってみたけれど痛い。夢じゃない。少々予想外の再会だったが、それでもまたそらと逢えたことに変わりはない。
連絡先を交換し合ったあと「男の子のお友だち、はじめてです」と笑ったそら。やっぱり覚えていないみたいだったが、裏を返せば後にも先にもそらと親しい男は俺だけなんだと思ったら、無性に嬉しくなった。俺だけが、そらの特別のような気がしたから。
そして俺は先程から、そらの連絡先とにらめっこ。……さて。ここで問題。電話をするべきか、メールをするべきか。そらはSNSだったりトークアプリを一切使っていないようで。「今まで必要性感じたことがない」という理由で流行りに乗らないあたり、そららしい。まあ、いきなり電話は…あれだな。俺は声を聴きたいが、そんなにがっついて引かれたら元も子もない。どちらかといえば当たり障りないであろうメールを起動させた。さて、なんて送ろう。
「今日、は…いきなり、すまなかった……いや、待てよ。最初のメールで謝ってどうする。どうせなら、ありがとうと伝えたほうが心象いいよなあ………うーん…」
我ながら、大きすぎる独り言だと思った。無意識だった。言ってから気付いたくらい。メールひとつ送るだけなのに、なんとも迷っている。今まで誰かに連絡ひとつ取るだけで、こんなに迷っただろうか。…それだけ、慎重に進めていきたいからだろうけど。
ふう、と溜め息をひとつ吐いて、スマホを置くと。無機質な音が聞こえた気がした。なんだろうとスマホを確認して驚いた。いつの間にかさわっていたのか、電話をかけてしまっている。切らなきゃと思っているのに、ここでぶつ切りもおかしいだろうと迷ってしまう。そうこうしているうちに「呼出中」の表示がなくなって、それに替わって「通話中」の文字がディスプレイに現れた。
「はい」
次の瞬間、当たり前かもしれないが、スマホから聴こえてきたのはそらの声だった。さっきまで焦ってばかりだったのに、俺のなかで最初に生まれたのは、出てくれた!という安堵の気持ちだった。……って、感動してる場合じゃない。こうしているあいだも、電話は繋がっているんだ。想定外だけど、このまま放置するという選択肢なんてなかった。
「もっ、もしもし…!」
「はーい。どうしました?」
「あ、いや、その…すまん。間違って掛けてしまって、切るのもあれだと思ってだな……その、今大丈夫だったか?」
「うん。全然問題ないですよ」
俺の下手な言い訳にも、優しく返してくれた。やっぱりそらは、驚くほどに優しい。記憶がなくとも、人柄は変わらないんだな。
「改めて、今日はいきなり声かけてすまなかった。びっくりさせたよな」
「まあ…それは、びっくりしました。でも、嬉しかったです」
嬉しかった。そらから出てきた予想外の言葉に驚いた。驚かせはしたが、喜んでもらうようなことは、なにひとつしていないと思うんだが……?
「はじめてだったんです。昔のわたしのことを覚えていてくれて、しかも声までかけてくれたのは。だから、びっくりしたけど、嬉しかった」
押し黙った俺に、嬉しかった理由をしっかり伝えてくれたそら。その言葉に、そらに、俺はまた救われた。あの頃のままだ。俺を変えるのは、俺に自信をくれるのは、いつだってそらだ。……俺も、そらにまた逢えて嬉しかった。たぶん、いや絶対に、そらの「嬉しい」より、もっと嬉しい。
「そらに時間があるときでいい。近いうちにまた、ゆっくり話す機会をつくってほしいんだが…いいか?」
「もちろん。前もって守沢さんの予定を伺えれば、シフト空けますから。遠慮なく仰ってくださいね」
今までの嬉しかった気持ちが、少しだけ、ほんの少しだけ、薄れてしまった。「守沢さん」。どう聞いても他人行儀な呼び方が、どうしようもなく淋しい。
「あの…さ。そら」
「なんでしょう?」
「…その『守沢さん』って呼び方は、ちょっと…」
「え…っ」
「よそよそしいというか、なんというか……友だちっぽくないというか…差し支えなければ、変えてほしいんだが」
「うーん……じゃあ、守沢くん…?」
「いや、そもそも、名字を避けてほしいんだが…」
もっとフランクに、欲を言うなら前と同じように呼んでほしい。そらの声で、俺を呼んでほしい。…どう言えば、俺の意図は正しく、尚且つ下心なく伝わるだろう。そんなの無理だろうけど。
「…千秋くん、で、どうかな」
ぽつり、そう言ったそら。久しぶりに呼ばれた「名前」に、自分でもくすぐったい気持ちになる。ただ、嫌ではない。寧ろ嬉しい。名字で呼ばれるより、ずっと近くに感じる。
「ああ。それがいい」
「ふふ、そっか。…ごめんなさい。男の子のお友だち、はじめてだから。なんて呼んだらいいのかわからなくて」
「あ、いや。かくいう俺も、女の子の友人はそらしかいないんだがな」
「そっか。じゃあ、一緒ですね」
一緒。内容は大したことないのに、その響きが無性に嬉しく思える。俺とそら、ふたりで同じことを考えていたってことだ。それだけのことが、どうしようもなく嬉しいんだ。
「さて、もう遅いし、今日のところは切ろう。そら、ありがとな」
「いいえ。わたしこそ、ありがとうございます」
「えっと…また連絡してもいいか」
「大歓迎です。……あ、千秋くんっ」
「なんだ?」
「お、おやすみなさいっ!」
少し間を置いて届いた声は、若干上擦っていた。緊張しているのがわかる。きっと、勇気を出してくれたのだろう。そんなことが伝わる声だった。それに『おやすみなさい』なんて、あの頃にも言ったことがない言葉。何故だろうか、今は特別な響きに聞こえてならなかった。
「…ああ。おやすみ」
そらに応えた声は、自分でも驚くくらいに穏やかだった。十余年自分の声と付き合いがあるが、こんな声が出せるなんて思ってもみなかった。
名残惜しくもあるが、ぐっとこらえて電話を切る。そらとまた話せたなんて夢みたいだが、発信履歴に残るそらの名前が、夢じゃないと訴えかけてくる。夢見心地だけど、ちゃんと現実の出来事なんだ。…ああ、今しがた切ったばかりだというのに、もう一度声が聞きたくなっている。もう、恋しく思っている。もし叶うなら、今すぐ逢いたいとさえ思う。
「…重症、だな」
静かな部屋に洩れ出た一言は、紛れもなく本心だ。逢いたかった。ずっと、逢いたくて仕方なかった。ようやく逢えた。本当に、嬉しい。逢うのも話すのも、なにもかもが10年振りなんだ。多少浮かれても勘弁してほしい。
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