あああ


一番になりたかった。

迎えにきた仲間を下級海賊と称したサンジは、このまま結婚するのだと言った。抗議するでもなくじっと状況を見つめていたアオに残した言葉はこうだ。おれはお前なんかと付き合ってたつもりはない。
踵を返したサンジをナミが呼び止め、その横っ面を容赦なく引っ叩いた。ヒリリとした痛みを感じる音が響いて、サンジの兄弟たちはヒュウと口笛を吹き冷やかす。
目の前で起こった一部始終をまるで他人事のように目に映しながら、体じゅうが空洞になった気分だった。
ゾウからホールケーキアイランドに向かう間には、サンジにぶつけてやろうと思っていた言葉がたくさんあったはずなのに結局、彼の言葉にグサリと刺され、怒ることも泣くこともできず、ただひたすら心の傷口からダラダラと血を流すのみだった。
──やっぱり結局、こうなるんだなあ。
仲間たちを必要以上に傷つけて去る“王子”の背中を眺めながら、アオはこれまでの自分の人生を脳裏に浮かべそう思った。

そう、思えばずっと敗け越しの人生だった。
元々生まれはどちらかといえば裕福な家庭。両親は子どもを駆使して爵位を上げたかったのか、「なんでもいい、一番になりなさい」と娘達に説いた。
しかしアオは彼らの期待に応えられなかった。勉強、運動、いくつかの習いごと。どれも懸命に頑張ったつもりだが、テスト当日の発熱や本番での緊張などを毎回繰り返し、手にするのはいつも決まって二番だった。
初めこそ厳しく叱り付けていた両親だったが、次第に思い通りにならない娘を存在しないものとして扱うようになった。幸いにもアオの姉は非常に出来が良かったこともあり、余計にアオは家の中で透明人間になってしまった。そんな扱いを受けてもなおしばらくは世界でたった二人の両親に愛されたい一心で一番を目指し頑張ったが思うような結果は出せず、そのうち自分はきっとそういう星の元に生まれついた人間なのだと、そう思うようになった。
そうしてだんだん家に居づらくなり、逃げるように家出をして、幸いにも偶然麦わらの一味と縁が生まれた。
彼らの中に混じるのはとても心地良かった。アオには料理の才能も航海の知識もなかったが、目と耳の良さは抜群で、生家にいた頃には役に立たなかったその特色は航海において索敵に適していた。助けてもらわなければ生きていけないなんてあっけらかんと言い放つ太陽のような船長の元、ようやく自分の居場所が出来た気がした。
仲間たちと旅を続けるうちに、アオとサンジはお互いを特別に思い合う仲になった。自分の後ろ暗い過去を詳しく話したりなどしていないのに、サンジは欲しかった言葉をくれる唯一だった。
君はおれのいちばんだよ。
初めてそう言われたのは不寝番中の逢瀬の時だ。あの瞬間はきっと、死ぬ間際にも思い出すだろう。雷を食らう以上の衝撃だった。
やさしく眉尻を下げて目を細める彼がアオは大好きだったし、その言葉は胸に巣食っていた虚しさを全部取り払い、海に出てもなお澱のように残っていた「一番」への強迫観念を和らげてくれた。
それだけに、ルフィを蹴り飛ばした彼が残したセリフは実に良く効いた。
船には戻らず、可愛くてとても親切だったプリンと結婚するらしい。正直なところ、やっぱりなと思った。彼の心移りに納得したのではなく、自分の運命に対する納得と諦めであった。やっぱり敗け越しの人生なんだ、と。
もちろんあの優しすぎる彼が仲間をこうも傷つけるのはおかしな話だし、あの態度が本心でないのはわかる。絶対に、そうしなければならなかった理由があるだろう。けれど一方で、彼がいたずらに女性を不幸にする男ではないこともよく知っている。
結婚という決心は、けして冗談では片付けられないはずだ。その選択肢がアリだと判断したのは紛れもなくサンジ自身なのだから。きっと、相手を幸せにしようと胸に誓っているに違いない。
明らかに血の気の引いた顔をするアオをナミは優しく抱きしめた。
「ごめん、あんたに殴らせるべきだった。あいつ、本当に信じらんない!」
「ううん、良いの。私の分まで怒ってくれてありがとう」
「私は私のために怒ったの。だからアオ、あんたの分は自分で殴ってやりなさい」
「アハハ…」
また会えるとも限らないのに。そう思うと首を縦には振れなかった。

結局その後、紆余曲折の末サンジはルフィに根負けし、結婚式をみんなでぶち壊す計画が立てられた。アオとしてはサンジの優しさをバカにして踏みにじったプリンと、その隣に立つタキシード姿のサンジなど見たくなかったがそんな我儘を言える状況ではなく。
当日は真っ白なウエディングドレスを着た美しいプリンを見て、黒いパーティドレスに袖を通した自分が惨めに思えてならなかった。しかし、それでも大切なサンジを本当の意味で取り返すべく走り回った。
もちろん四皇の一人という強大な敵を前に全て計画通りとはいかなかったが、結果としてルフィを抱えて、サンジがサニー号に戻ってきた。
帰ってきてくれて本当に良かった。純粋に仲間の一人として涙ぐんだアオだったが、彼の唇の端に色移りしているピンクのリップを見て顔が強張った。
誓いのキスは未遂に終わった。彼はプリンたちと共に別行動を取った。式の途中から、プリンのサンジに対する態度はおかしかった。そしてサンジは、とびきり優しい。総括して、導き出される答えはひとつだけ。なんて罪作りな男だろうか。
当の本人がだらしなく顔をゆるめたりしていないあたり、彼女の能力で記憶の切り取りが行われていることまで容易に想像がついた。
サンジはロクでもない家族に巻き込まれた被害者で、プリンは加害者であると同時に被害者でもある。個人を憎むのは違う気がするアオだが、しかしどうしても心が苦しい。折角みんなが喜んでいるタイミングに自分の思考が水を差しているようで、余計に苦しい。深呼吸もままならないまま唇を噛み締める。
口の中に鉄の味が広がり始めたとき、轟音が響き船が揺れた。それもそのはず、ここはまだ戦場なのだ。無事に全員で生き延びるため、逃げなければ。戦わなければ。
余計なことは考えず、まずはただひたすら、前へ。


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あの日、サンジはどうにかしてルフィたちをあの島から無事に出港させたかった。自分について回る最悪の運命に彼らを巻き込みたくなかった。全員が自分に怒り、呆れて、あんな男と旅を続けるのは願い下げだと思ってくれればそれが叶うと考え、思いつく限りの嫌なことを言ったつもりだ。
それは恋人だったアオに対しても例外ではなかった。もう好きではない、なんて大嘘は彼女の目を見て言い切れる自信がなかったので、痛む胸を堪えながらなんとか、「お前なんかと付き合っていたつもりはない」と言ったのだ。アオは烈火の如く怒るか、もしくは泣いてしまうかもしれない。しかし、覚悟して言ってはならないことを口にしたサンジに対するアオのリアクションはそのどちらでもなかった。
世界で一番愛しいと、絶対幸せにすると思っていた彼女から一瞬にして表情が消え、立ち込める沈黙から痛みだけが伝わってくる。思わず走り寄って抱き締めそうになる身体を懸命に制御するサンジに向かって、ハッと我に返ったアオは、あろうことか笑ってみせたのだった。
「そっかあ……」
誰がどう見ても、失敗作の作り笑いだ。サンジにとってそれは、泣かれるよりも数倍こたえた。
君はおれを責めもしないのか。それでいてどうして、自分自身を責めているんだい。
もちろん今更そんなこと口に出せるはずもなく、ナミによる強烈な平手打ちを甘んじて受け入れるほかなかった。


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「なァおい…メシ…作っていいか?」
ジンベエたちにしんがりを任せ、わたあめ雪の降る海域を抜けた頃。おずおずと切り出したサンジの言葉に、仲間たちは諸手をあげて喜んだ。アオももちろん嬉しかった。それと同時に、再び彼の特別になろうとするのはやめると心に決めた。もう傷つきたくなかったし、何より自分のクソみたいな運命にサンジを巻き込むのは懲り懲りだった。
世界一のコックの料理で腹を満たした後も、気を利かせて見張りを買って出た最年長のブルックを除いたみんなが、何となくダイニングに残っている。特に、普段なら真っ先に外に出て行くルフィは、めちゃくちゃになったキッチンを片付けるサンジの背中に話しかけ続けていた。
チョッパーは仲間たち、主にルフィの怪我の様子をもう少し詳しく診たいようでソワソワしているが、当の本人はしばらく動きそうになかった。少し時間を置く必要がありそうだ。
「チョッパー、悪いんだけど私の包帯を新しく取り替えてくれない?」
「あ、あァ。良いぞ。じゃあ医薬室へ」
「ルフィ、次はあんただから順番守ってよね」
「おう、分かった!」
元気良く返事したルフィ越しにサンジがこちらを見た。視線を逸らすのも感じが悪い気がして、なんとか頑張って、かつてよくそうしていたようにニコリと表情を作れば、彼は眉を下げた。
「傷、痛むか?」
ツンとした薬草の匂いがする部屋の中、アオよりずっと小さな手を器用に使ってチョッパーは包帯を新しくしてくれた。香水はダメでも、この匂いは大丈夫なのだなあと今更ながら鼻をヒクヒクさせていたアオは我に返った。
「ううん、平気。ルフィやサンジに比べたら大したことないし」
数多の切り傷擦り傷打撲以外の大きな怪我といえば、手のひらに空いた穴くらいのものだった。これは、サンジとルフィの大喧嘩の後ビッグマムの部下に捕えられた時にできた、ルフィともナミともお揃いの傷。
両手にドーナツのような空洞が残ってしまうと思っていたが、チョッパーの処置が的確だったのか、そもそも大したことのない傷だったのか、穴は塞がり始め、目の前にかざしてみても向こう側はもう見通せない。もちろん、痛いか痛くないかで言えば痛いし、皮膚が引き攣るような違和感もある。でもやはり、今回最後の最後まで戦場に残った二人に比べると、ちっぽけな痛みだ。
肩をすくめてアオは笑ったが、チョッパーは笑わなかった。
「痛みやつらさは人と比べるものじゃないから、アオが痛いとかつらいと思うならそう言っていいんだぞ」
真新しい包帯越しに、チョッパーの硬い蹄の感覚がした。
「……うん、ありがとう。手は、少しだけ痛い」
ぼんやり熱くなる目頭を押さえている間に、優しいドクターは専用に調合した痛み止めを渡してくれた。礼を言って医薬室を後にする。
本当は、手よりも心の方が痛んでいた。これにも痛み止めがあれば良かったのに。

名前を呼ぶとルフィはすんなり言うことを聞いて、大人しくチョッパーの元へ向かった。しばらくサンジに相手をしてもらって気が済んだらしい。
カウンターキッチンで忙しなく動いている金糸が目に入ると、緊張で身体が強張る。処方された痛み止めを目一杯握りしめてしまい、おかげで突き抜けるような痛みが走った。もしかしたらまた後でチョッパーに診てもらう必要があるかもしれない。
もう少しスマートに、今まで通り振る舞えると思っていたのに彼を目の前にするとどうにもうまく出来ない。その事実が、アオがまだサンジを完全には諦め切れていないことを如実に表していた。
「傷は大丈夫そう?」
いたわるように肩を叩いたナミが、硬く握られたアオの手をひらいた。彼女だって同じ傷ができているのに、気を使わせた。
「ごめん、大丈夫だよ」
苦笑いをこぼすせば、空気を上手に読む航海士はウインクを飛ばす。
「一度部屋に戻りましょ。いい加減着替えたいわ」
「そうだね。……サンジ、診察はルフィの次だって」
「あ、あァ……」
そのまま黙ってダイニングを去るのも気が引けて、ついつい必要のないひと言を添えてしまった。返ったのは歯切れの悪い返事。自分は上手に取り繕えなかっただろうか。内心不安がっているアオの背を押すナミが、小さな声で「バカね」と呟いた。
部屋に戻るなり、彼女は着替えるよりも先にアオに拳骨を落とした。ゴムのルフィにもなぜか効く、愛のある拳はもちろんルフィ以外にも有効だ。
「イテ」
「あんたは優しすぎんのよ」
「優しいのはサンジだと思うけど……」
頭をさすりながら条件反射のように口答えしてしまうと、ナミは傷み知らずの長い髪を揺らした。
「そうだとしても!あんたには怒る権利があるの!」
「サンジだって被害者なのに……」
「同時にあんたのことを傷付けたんだから。怒って困らせてやんなさい」
とても難しい話だった。わざわざ傷付いたと主張せずとも、サンジはおそらく仲間たちみんなを傷付けたと思っているだろうし、そのことで自分自身を責めていてもおかしくない。そんな彼にさらにダメ押しで罪を突きつけるような真似をしても、アオの気が晴れるわけでもない。誰も幸せになれないことだと思った。
「……お互い傷付いてるから、それは、もういいかなって思ってる」
「それじゃあこのままサンジくんを許すわけ?」
「許さないなんて元々思ってないよ。……でもね、流石に「お前なんかと付き合ってたつもりはない」は効いた」
今でも、目を瞑ればあの瞬間を鮮明に思い出せる。サンジの、相手を拒絶する鋭い眼差し。自分の心臓の音。外野が息を飲んだり口笛を吹いたりしたこと。全部覚えていた。その上でやはり、あの時のような寒々とした気持ちになるのは耐えきれそうになかった。
せめて、嫌いになったと言われたのならまだ耐えられたかもしれないのに。よりにもよって、「付き合ってたつもりはない」なんて。きみがいちばんだと甘く囁いてくれた、アオにとって世界一大切な記憶すらも嘘にしてしまうなんて。心の一番柔らかい部分をピンポイントで突かれてしまい、気持ちが完全に折れてしまっていた。
「流石にもう傷付きたくないから、サンジのこと好きなのをやめようと思うんだ。私ってやつは結局、どうしたって一番にはなれないみたいだから。はなから、彼の特別になれるなんて、思うんじゃ、なかっ、た」
やけに喋りづらいと思ったら、自分の目からはとめどなく雫が落ちていて驚いた。サンジにキツいことを言われた時ですら涙は出なかったのに、全部今更だった。
「ごめん、こんなつもりじゃ……。もっとスマートに前に進もうって私、」
「もう一発、あんたの分まであいつを殴るべきだったかしら」
「ふふふ、そんなのかわいそうだよ」




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