その海は燃えているか
私が仲間になったばかりの頃、船長であるエースはまだ能力を扱いきれていないふうだった。とは言え、本人の戦闘センスには目を見張るものがあったし、その性質に炎はお似合いだったから、戦いにおいて敵に遅れを取ることはそうなかった。まあそもそも、敵相手には加減せず炎を出せば良いのだから、やり易かったと言うのもあるだろう。ただその代わり、思いもかけない場面でのちょっとした炎の暴発は少なからずあった。
クルーの多くはそれに巻き込まれ、私も例外ではなかった。
「悪かった!」
医務室で横になっている私へ、エースは深々と頭を下げた。綺麗な90度を少し和らげてこちらを窺う彼は、まるで叱られる前の子どものようだった。もう十分元気を取り戻している私は、上体を起こした。
「私はこの通り元気だし、気にしないでよ」
「でもその、痕が残っちまうんだろ? デュースに聞いたよ」
エースはしゅんとしたままベッドに浅く腰掛ける。伏せられた瞳がちらりと私の腕へ走った。変なところで繊細な人だなァ。普段の溌剌とした彼を見慣れている身としては、そのしおらしさは少しばかり怖い。
横付けされた敵船からはうちのクルーの倍以上の敵が雪崩れ込んでいたが、エースは今日も絶好調だった。私が一人を伸している間に、彼は五人近くを再起不能に追いやっていて、力の差は歴然。だからこそ、少し気が抜けたのかもしれない。身軽に動き回っていたエースは、船縁で足を滑らせたのだった。
海に落ちかけた彼の手を、近くにいた私が咄嗟に掴んだ。しかし、動揺したのかエースの指は炎を纏い、私の肌を焼いた。見かけるたびに、夕陽のように美しいと思っていた彼の炎が、私の手首を回る。ジュウ、と。聞こえた音が現実だったのかは分からないが、肌が感じたことのない温度に跳ね上がったのは確かだった。
けれども、だからといって。能力者であるエースが海に落ちるのをみすみす見逃すわけにはいかない。持っていた刀を放り投げ、その手もエースを引き上げるのに使った。その結果、私の両手には、こうして包帯が巻かれることとなった。
私としては、この傷は仲間を見捨てなかった証明、勲章だ。そもそも、エースの暴発で火傷痕を残しているクルーは何人もいるし、これでようやくスペード海賊団として一人前になったような気持ちですらある。つまり、少なくとも、船長であるエースが私などに深々と頭を下げる必要は、全くないと言えるのだ。
「海賊やってるのに傷痕とか気にすると思う?」
「……傷があってもなくても良いってンなら、ないに越したことはねェだろ。そもそも、仲間を傷付けるなんて、許されねェ」
「そう? 気にしすぎじゃない? 私はこの傷イカすと思うけど。……エースは傷のある女は嫌なの?」
「そうじゃねェよ! アレだよアレ、イッパンロン」
「へェ、そんな単語知ってたんだ」
「あァ?!」
目を吊り上げたエースが勢いよく顔をあげたので、思わず笑う。怒った顔はまるで極悪人。こんな顔で謝罪する奴がいるか。ケラケラ笑う私を見て、彼の怒りはすぐに萎んでしまった。
「あーあ、傷のある女は嫌とか、その思考に傷つくなァ」
「だから違ェって! ……昔世話になった人が言ってたんだよ。女は大事に扱えって。今のがダメだってんなら、おれァ、お前が何に怒るか、もうよく分かんねェよ。でも自分のしたことに責任は持ちてェ。だから、どうやって詫びれば良いのか教えてくれ」
はあ、オンナゴコロっつうのは難しいな……。彼はそうひとりごちた。だから詫びなんて要らないんだけど。責任なんて大袈裟な。確かに、悪意を持って仲間を傷つけたのならば、それは裁かれるべきだろう。だが、エースは違う。ただの事故だ。もうそれで良いではないか。あなたはどうしてそんなに、自分を罰したがるのか。
でも、何だかだんだん、らしくないエースが見れるのは、火傷を負った私の特権なのかなと思えてきた。折角だし、海賊らしく悪いことを企んでしまおうか。
「それゆっくり考えても良い?」
「あ?」
「エースが私の言うことを一回だけ、何でもきいてくれるってことでしょう? 貴重な機会じゃん。じっくり考えるよ。偉大なる航路を一周し終える前までに決める。良い? 何か文句ある?」
「いや……まァ、良いけどよ。一体何させられちまうんだ……。一億ベリー寄越せとか言われても無理だからな」
「そんなこと言わないよ」
「本当かァ? イヤな予感しかしねェ」
言い出したのは自分のくせに、制限を設けた上訝しげな表情。
クソガキをそのまま成長させたような男だというのに、気付いたらその魅力に引き付けられている。そうしてこの船に乗り込んだのは、何も私だけではない。不思議な雰囲気のある奴だなと、改めて思う。
その独特な空気は、仲間が傷ついたときに、ひどく自分を追い詰めたり、誰よりも無鉄砲に敵陣へ飛び込む理由に関係しているだろうか。時折、虚のように暗くなる瞳に何を映しているのか、この船で世界を一周し終える頃にはエースの口から聞けているだろうか。
傷が痛くなったらすぐ言えよ! と最後に言い残し部屋を後にするエースの、寝癖だらけの後頭部を見つめながら、実を言うと痛みはさっきからずっとあるんだよ、とひとり思うのだった。
§
エースは、何ひとつ遺してくれなかった。
エースの持ち物といえば貴重品と、いつものテンガロンハットくらいのものだったから、彼がいなくなった後こっそり覗いた部屋の中はがらんどうだった。唯一もらったビブルカードも、燃え尽きてしまったから、もう何もない。
新聞はエースの出生、エースと親父の死を大スクープとして報道し、世間はそれに翻弄されている。売り上げのために紙面で語られるゴール・D・エースの名が、瞬く間に世界中の記憶に刻まれてゆく。それを見るたび、私の知ってるエースを、否定されたような気持ちになった。つらい、悲しい、寂しい、苦しい。どう言い表してもしっくりこなくて、虚しかった。うるさい。あいつの名前は、ポートガス・D・エースだろうが。しかしもちろん、喚いたところで、私の声などどこにも届かない。
エースがずっとひた隠しにしていたのは、本当の父親ことだったのだろう。真実を何ひとつ聞かされていなかった私は、ただただ唇を噛む。信用されていなかったのかな。そう思って延々と泣きじゃくる私に、目を真っ赤にしたデュースが言った。
「あいつは、お前のことを本当に大事に思っていたから、真実を話してお前に嫌われるのを怖がっていたんだ。ティーチの件が片付いたら、腹を括って話をするって言ってたんだぜ」
その話が本当なのかは、今となってはもう、誰にも分からない。デュースの作り話かもしれない。残酷なことだ。
項垂れると、目に入った無力で軟弱な手には、昔負ったあの火傷痕が残っていた。ああ、遺してくれたものがここにあった。ほんの少しの引きつるような感覚は、まるでまだ彼に掴まれているのではないかと錯覚させる。
「なあ、お前、後追って死ぬなんて言うなよ……」
「言わないよ」
古い友人は、墓の前に腰を下ろして動かない私を気遣った。その言葉を鼻で笑って否定した。私は悲しんでいると同時に、怒っているのだから。
「アイツを簡単に死なせないために、生きるよ。私がずっと、ポートガス・D・エースを覚えてる。……エースがまだ船長だった頃のことを覚えてる? アイツは船長のくせに誰よりも先に戦場に飛び出すし、私たちが危険になると私たちだけを逃して自分だけは絶対に逃げなかった。クソ死にたがり野郎が、と思ったよ、本当にね。実際それを言ったこともある。そうして喧嘩するとアイツ、たまにすごく暗い目をするんだよ。私はそれに気付いてた。何か隠し事をしているんだろうとは思っていたけど、いつか教えてくれるって信じて、ここまできた。けど結局、エースはその理由を私に打ち明けてくれなかった。嫌われるのが怖かった? 馬鹿言え、みくびるな。私はエースを愛してた。好きだって何ッ回も言った。父親が誰かなんて関係ある? あるわけないでしょ。分かれよ。本当に、大馬鹿野郎だよあの男。……死に急いでやがったアイツを、そして本当に死んでしまったアイツを、私は許さない。私が覚えている限り、アイツは私の中で生き続ける。簡単に死なせてなんか、やらない」
「……」
立ち上がって墓の後ろに回り込むと、遠くに海が臨めた。海賊が眠る場所として、これほど美しい場所があるだろうか。
水平線には夕陽が沈みかけ、海には炎の道ができている。何も言わないデュースは、エースの死を引きずり続ける私を可哀想だと思っているかもしれないが、どのみち、夕陽を見るたび私は彼の男を思い出す。誰よりも愛を求めていたくせに、素直にそれを受け取れなかった彼を。
「火傷の詫びに、私に愛されて、私を愛してよって言えば良かった」
「馬鹿。お前らの間にはちゃんと愛があっただろ」
呆れ返ったデュースが私を小突いた。そうだったら良いなァ。
すっかり太陽の沈みきった、暗くて寒い世界の中で、腕の傷だけが熱を帯びていた。
§
墓には時折人がやってきては、花や食い物や酒を置いていく。親父のものを盗る度胸はないが、エースのものは別だ。アイツが詫びを済ますまで、私は怒ったままなのだから、酒くらいは横取りするさ。
墓の裏に背を預け酒瓶を煽っていると、表で人の気配がした。
「なァ、アンタ、エースの知り合いか?」
シルクハットを被った、品の良さそうな男。携えた鉄パイプがアンバランスだ。男は墓の前に盃を三つ置いて、そのひとつに口を付けていた。
「まあ、そんなところです。でも今はただの墓守なんで、気にしないで」
「そう言わずに、コイツの話を聞かせてくれよ。随分長い間、会えてなかったんだ」
人好きする笑みが、ここに眠る男を彷彿とさせる。こんな知り合いがいるなんてのも、知らなかったよ。まったく、秘密ばかりで酷いヤツ。
「はは、大したことは知りませんよ。私はただこの男に焦がれてるだけですから」