わたしの

 海外遠征後の短い休暇を終え、合宿所に戻った面々が自然とラウンジに集まってきた。その一角に陣取る男の様子に、無言の注目が集まっている。

「お? なんやいい匂いしよるけど?」

 その場にいたチームメイト達が聞くに聞けないでいたことを臆さず口にした種ヶ島は、どっかりとソファに腰を下ろした。全員がこっそり聞き耳を立てている中、ローテーブルを挟んで向かい側に座る平等院の眉間には皺が寄る。しかし返事はない。

「無視かい」

 半笑いの種ヶ島は、男所帯にはそぐわない甘ったるい香りの発生源となっている男を指差した。弓形に細まる瞳に隠す気のない好奇が浮かぶ。

「まあ俺には分かってんで。彼女ちゃん、なかなかやりよるなぁ」
「エッ!」

 思わず声を上げてしまった毛利は慌てて口を手で覆ったが、当然、誤魔化すには至らなかった。背もたれから身を乗り出すように振り向いた種ヶ島が満面の笑みを浮かべるのに対し、その肩越しに見え隠れする平等院はこの上なく機嫌が悪そうだ。あまりの圧に大きな体躯を縮こまらせる毛利だったが、種ヶ島はというと相変わらず平等院の機嫌などどこ吹く風だった。

「何驚いてんねん。そら平等院かて彼女の一人や二人いてるわ。なあ?」
「エッ!?」

 毛利が再度目を白黒させるのと同時に、平等院渾身の舌打ちが部屋に響き渡る。

「二人もいるわけねえだろうが」
「ははは、大事なコはナマエちゃんだけってことやな〜」
「なぜ貴様がアイツの名前を知っている」
「インスタ相互フォローやもん」

 何やってんだお前は、と突っ込みたいをの堪えた大曲はチラリと二人の様子をうかがう。インスタが何なのか知っているのか否か、平等院はそれ以降何も答えなかった。

§

 元々海外を放浪していた時期があったこともあり、遠征から帰るたびにわざわざ連絡を入れることはしなくなった。土産片手にアポ無しで彼女を訪ねることももう何度目になるか分からない。けれど、なぜかいつも運良く会うことができていた。

「うわ、本物。本当に帰国してたんだ」

 インターホンを鳴らすと、目を丸くした彼女がすぐに扉を開けた。

「誰かに聞いていたのか」
「SNS経由で確かな筋から情報を仕入れたっていうか、なんというか……」
「あ?」
「まあ、そんなのどうだって良いじゃん。私が今日たまたま留守番してて良かったってことで。ほら、突っ立ってないで上がりなよ、今日親いないし」

 防犯意識の低さに呆れつつも、玄関で靴を揃え家主の後に続いた。どうせ近所に住んでいるだけあって、お互いの関係は親にも割れているし、少し顔を見に来ただけなのでやましいことも特段ない。

「これを渡しに来ただけだ、長居はせんぞ」

 土産は消え物が良いというのは本人たっての希望であり、平等院は素直にそれに従い適当な菓子を見繕うのが常だ。今日も例に漏れずそれなりに凝った意匠の缶を渡せば、嬉しそうな声が上がった。ぐるりと360度箱を回しながら、そのまま本人まで回り出しそうな勢いだった。

「落ち着け」
「はぁーい。すぐ帰るって言ってもお茶の一杯くらいは時間あるでしょう? その辺適当に座ってて」

 間抜けな返事を寄越した彼女は、一度台所に引っ込み湯呑みを持って戻ってきた。平等院が待ち時間のうちにテーブル上に散らばっていた郵便物を手早くまとめていたおかげで、出来上がったスペースに湯気の上がる緑茶が置かれる。
 海外に出たことが一度もないという彼女は毎回海外生活に興味津々の様子で話を聞きたがる。平等院が向こうでしていることはほぼテニス一色なのだが、そもそもの生活様式が物珍しいらしい。そんなに気になるのであれば冬に行われるW杯に着いてくるかと訊いてやってもいいかもしれない。会話の切れ目にそう考えながら平等院はようやく茶に口をつけた。
 いつもなら彼女はこういうタイミングでそそくさと土産を開けるはずなのに、今日に限ってはその丸い瞳は菓子ではなく平等院に注がれている。何か思うことがあったとしても、本人が声にしないので大した内容でないのだろう。しかし、だからといって構われたがっている様子を無視してしまうほど彼女相手に無関心でもない。

「何が言いたい」

 部屋の隅でレースカーテンが穏やかに揺れた。午前の優しい陽射しをより受け入れて、部屋の雰囲気がほんのり春めく。

「大した話じゃないけど、久々に見たらまた一段と髪が傷んでるなと思って」

 そよ風のように長閑に答えた彼女がテーブルに頬杖をついた。その拍子に、手入れの行き届いた髪がさらりと流れる。平等院の肩に広がる金色とは質の異なる柔らかさが見てとれた。

「それだけ伸ばすんだったら、もう少し髪をいたわってあげてもバチは当たらないと思うんだけどなぁ。遠目に見てもバサバサで可哀想」

 言いながら手が伸ばされたが、テーブルを挟んだ距離だとこちらまでは届かない。空を切るばかりの細い指に対し傾いて応じてやらなかった平等院はフンと鼻を鳴らす。

「どうなっていようが俺は気にならん」
「そうなの? じゃあ私が勝手にケアしても気にしないってことだよね? ちょっと待ってて」
「オイ、待て」

 踊るような足取りでリビングを後にする後ろ姿への制止は効果などなく。すぐに戻った彼女の手には桃色の容器があった。
 記憶が正しければ自分の妹も似たような物を持っていたはずだ。既に嫌な予感しかしない。
 眉根を寄せることで拒否を表したが、自分に付き合う女なのだからそのような態度に怯むタマではない。むしろ「なに? 男に二言があるわけ?」などと煽られてしまい、平等院は押し黙るしかなかった。
 ほどなくして、トレードマークでもある黄金色の髪によく分からない液体が塗り込まれる。時折引っ掛かるような感覚があったが、彼女は小言の一つも言わず傷みきった髪を丁寧に梳かしていく。
 諦念の末好きにさせていたものの、自分からあり得ない匂いがしてくる事実に頭痛がしそうだった。

「……チッ、甘ったるい」
「ええ? 臭い? これ、私も使ってるんだけど……」

 事実として確かに、嗅ぎ覚えのある匂いではある。ただし、たとえ同じものでも相手から香るのと自分から香るのでは、また質が変わる。普段好ましいと思っているものでもすんなり受け入れるには抵抗があった。

「お前ならまだしも、俺には合わんだろうが」
「そ? フローラルで良いじゃん。それに、私が近くにいるような気分にもなれちゃうからお得だよ」
「本物がいないのに意味があるのか」

 振り向くと、彼女は元々大きな目をさらに大きくした。しばし見つめあったのち、「そうなんだ」と独り言をこぼして薄い手のひらと平等院の髪とを交互に見やる。

「私って馬鹿だなぁ」

 へにゃり眉を下げ放たれた言葉の真意が平等院には掴めない。詳しく暴こうとしたところタイミング悪くポケットに突っ込んでいた携帯が震え、短すぎる逢瀬の終わりを告げた。反射的に時計へ目を走らせればそれに目ざとく気付いた彼女が先回りをする。

「長居はしないんだったね。折角だから最後にお願い聞いてくれる?」

 目を細めて先を促すと、腕を引かれて立たされた。二の句を続けようとしたが、華奢すぎる細腕が腰回りに纏わりつき平等院の言葉を遮る。

「それじゃ、テニス頑張ってね。風邪引かないようにね。怪我もしないでね。雷にも絶対気をつけて。えーっと、あとは、合コンに誘われても断ってね。それと、たまには私にも連絡してね」

 手が小さく揺れているのは言い残したことを指折り数えているためか。ずいぶん多い“お願い”を黙って聞き届けると、引っ付いたままの彼女がにわかにこちらを見上げた。

「聞いてる? 全部同じだけ重要だよ、オーケー?」

 返事代わりに屈んで唇を寄せると、同じ匂いが混ざり合った。


§


「やっぱ彼女ちゃんとおんなじ香りなん? それ」

 悪気のないフリを演じ、ズケズケと立ち入ったことを聞きまくるお調子者の視線を、平等院は目を閉じることでシャットアウトしている。
 けれどその程度でめげる種ヶ島でもない。同世代のトップであるこの男と恋バナができる機会などそうそうないのだから、面白い反応のひとつくらい引き出さなければ気が済まないのだ。

「マーキングってことなんやろな。……お?」

 瞼を押し上げた平等院はわずかに目を伏せ、いまだ香りの漂う己の髪を視界に収める。あの時聞きそびれた真意を、目の前の男経由で理解してしまったことは面白くなく、種ヶ島へ焦点を結ぶと自然に舌打ちが漏れた。
 彼女へ文句の一つでも連絡してやろうと心に決め、平等院は腰を上げラウンジを後にした。

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