近くにあるものは大抵見えない

 最寄駅から入り組んだ道を十分ほど歩いたところに私の家はある。学校から少し距離があるけれど、天気がいい日には心なしか海の香りがするマンションの五階を私はとても気に入っている。
 幼い頃は何度も迷いかけた道も今や正解の線が引かれた迷路のように簡単に抜けられるようになった。うららかな春の陽気のおかげで足取りは軽い。最近引きこもりがちだったので次の週末には海を眺めにいくのもいいかもしれない。海開きまではまだもう少しかかるだろうけど。
 駅と家のちょうど中心にあるコンビニを超えたところで背後から凛とした声が響いた。

「ナマエちゃん、こんにちは」
「わ!こんにちはお姉さん」

 パッと目を引く綺麗な髪にスラリと伸びた細い手足。肩で風を切って歩くその姿は昔から姉が欲しかった私の憧れの存在。
 彼女は同じマンションに住む、うちのお隣さんである。眩しそうに細められた目に、それによく似た彼女の弟の面影が重なった。見惚れていると彼女は私の隣、それも車道側に並び立ちニコリと人好きのする笑みを浮かべた。
 家までの道すがら、久々に顔を合わせたお姉さんに大学生活の話を聞き自分の未来への期待で胸を膨らませていると神妙な顔をした彼女と目が合った。そういえば、いつもはどちらかといえば口数が多い人だけど今日は少し控えめだった。何かあったのだろうかと首をかしげる。

「どうかしましたか?」
「んー、最近雅治とは仲良くやってるかなと思って」

 照れているのかバツが悪そうに笑う彼女を見て仲の良い姉弟だなと感心した。

「うーん、険悪というわけではないですけどなにぶん仁王くん……あ、雅治くんは人気者だから最近はあまり話をする機会がないですね」
「そう……」

 仁王さん一家は私が小学五年生の時に越して来た五人家族だ。転勤が多かったらしく三人の子どもたちは私には馴染みのない方言を使っており、標準語にしか親しみがない私にはそれがとてもかっこよく聞こえた。その姉弟の中間子である雅治くんは私と同い年だった。
 引越しの挨拶に来た雅治くんはお父さんの足に隠れるようにして立っていた。日を浴びてキラキラ光る銀髪に少しきつい目つき。両親に促され渋々「同じ学校やき、よろしく」と発された独特の訛り。私が食い気味に「よろしく! 髪の毛は染めてるの? 本に出てくるお狐様みたい!かっこいいね」と畳み掛けると、彼は眉間にしわを寄せてそっぽを向いた。
 今思えば第一印象はきっと最悪だったのだろうと思うが、小学生の間私たちは雅治くんの弟も含めた三人で一緒に登下校をした。最初は口数が少なかった雅治くんも次第にちょっと意地悪なツッコミをするようになり、私はそれがひどく嬉しかった。
 学校での雅治くんの評価は良くも悪くも「よくわからないやつ」というものがほとんどだった。大人びた雰囲気で自分の意見をしっかり持っているがあまり言葉にしない、どこか人を深くまで踏み込ませない空気があったのだと思う。警戒心の強さが猫みたいだねと何気なく投げかければ、お狐様じゃなかったんか?と鼻で笑われた。
 そんな彼が決まった曜日には私も弟くんも置いてそそくさと勝手に帰宅してしまうので私は一度彼の後をつけたことがある。その先で見たのはテニスをする雅治くんの姿だった。学校の体育ではいつも気怠そうに必要最低限の動きで済ませようとする彼が、真剣な顔をして全力で走り回っている。その様子から目が離せなくなったのをよく覚えている。夕陽に照らされる横顔がとても綺麗だった。
 それはきっと私の初恋だったのだろうと思う。


 テニスコートに行ったのは初めてだったから、家までへの道は果てしないものに思えた。帰り道うっかり迷子になりかけていた私を見つけたのはやはり同じ道を辿る雅治くんだった。そして、尾行を咎められ俯きながら謝った私に手を差し出したのもまた雅治くんだった。温かい手のひらは所々マメで硬くなっていて、普段クールな雅治くんの意外な一面を垣間見た気がした。

「おまんが迷子になると、迷惑じゃき」
「ありがとう。勝手について来てごめんね。……あのね、テニス初めて見たけど雅治くんすごくかっこよかったよ」
「……おまんの“かっこいい”は安売りじゃな」
「本当にそう思った時しか言ってないもん!」

 彼は眉間にしわを寄せてそっぽを向いた。


 初恋は私の中の宝物で、何よりも綺麗なものの一つだ。あの日の夕陽と同じ色をして、ほんのり海のにおいがする記憶。ずっと触らずに眺めていたいと思うような大切なもの。だから隣のおうちの雅治くんとどうこうなりたいという欲はほとんど機能しないまま、私は中学生になった。
 部活に入ってしばらくすると雅治くんはたちまち人気者になった。友達曰くアウトロー感が背伸びしたいオンナノコ受けする、らしい。そうなんだと呟いてその様子を遠巻きに見ているうちに、私と雅治くんとの間には距離が出来始めていた。
 オンナノコに「仁王くんのこと紹介して」と頼まれるたび、好きな人の恋のキューピッドになりたくなくて「たった二年同じ小学校にいただけだから、そんなに深い関係じゃないよ」と嘘とも本当とも言えない断り文句を使い続けた。すると、その言葉がじわりじわりと心に沁み出し私の両肩に重くのしかかった。
 加えてちょうどその頃、雅治くんが自宅を他の人に知られたくないと言っているのを聞いてしまった。それが秘密主義の雅治くんらしいと周りには評判だったが、彼の家をよく知っている私にとっては冷や汗ものの発言だった。

 雅治くんにとって私って何なんだろう?

 終わりのない問いかけにたどり着いてしまえばもうネガティブ思考に歯止めは利かず、勝手に卑屈な気まずさを抱えた私は次第に雅治くんのことを仁王くんと呼ぶようになり、彼と言葉を交わすこともほとんどなくなってしまった。
 馬鹿馬鹿しいと言われれば返す言葉もないけれど初恋は実らないのが定石だし、甘酸っぱいどころか苦いこの経験も彼への恋心が消滅した暁には笑って話せるようになるだろうと思っている。だからそう、私は別に現状をさほど嘆いてはいない。

 思考を現実に戻しお姉さんと一緒にマンションのエントランスを通過する。お姉さんの細い指が五階のボタンを押した。閉まるエレベーターの隙間に差し込む西日が眩しかった。もう少ししたら空はあの宝物のような茜色に変わることだろう。
 静かなモータ音を聞きながら私は口を開いた。

「本当にすごいですよ雅治くん。中学の時からですけど他のテニス部の人たちと一緒に軽くアイドルみたいな扱いされてますし」
「ナマエちゃんは?」
「えっ?」
「ナマエちゃんは雅治のことどう思ってるの?」

 お姉さんの口角は綺麗に弧を描いているが、その声音は強張っていた。普段なら仁王くんのことを褒めると愛情の裏返しなのか苦虫を噛み潰したような表情をするというのに、珍しい日もあるものだ。何か企んでいるのではなかろうか? とは言え、そう疑ってみたところで仁王くんや彼の家族と心理戦で私は勝てる気がしないので早々に匙を投げた。前に仁王さんちの姉弟とババ抜きをした時の私の惨状ったらなかったもの。話が逸れた。
 同じ階でエレベーターから降りつつ、そうですねぇ、と私は記憶を辿るように斜め上に視線を飛ばす。

「私からすると、雅治くんはかっこいい男の子ですよ」
「“かっこいい”の安売りね」
「いえいえ、お世辞なんか言いませんよ。初めましての時もかっこいい男の子だなって思いましたから」
「最初はお狐様じゃなかったんか?」
「えっ?」
「何でもないわ、忘れてちょうだい」
「はあ……」

 お姉さんはそっぽを向いて黙り込んでしまった。その様子があの日の雅治くんと重なって見えたから、私も思わず顔を赤らめて閉口する。いくら似てるからとはいえ、本人のお姉さんにまで照れてしまうなんて。なんだか節操なしみたいじゃないか。
 恥ずかしさが先行した私は、不自然に明るい声で彼女に別れを告げ自宅へ飛び込んだ。


§


 母に頼まれた買い物を遂行すべく、玄関のドアを開けると何とまたもやお隣のお姉さんと鉢合わせた。隣のドアノブに手をかけたお姉さんは、先ほどとは違う服を着て大きめの旅行鞄を肩に下げていた。いかにもたった今帰ってきましたと言わんばかりのご様子だ。帰宅してからまだ三十分も経っていないというのに。あれ?と首をかしげる私を見て、お姉さんはパッと花が咲くような笑みを浮かべた。

「ナマエちゃん久しぶり!元気にしてた?」
「えっ、あ、はい。元気です、とても」

 まるでさっきのことは無かったかのような態度に面食らい、しどろもどろな返事をすると今度はお姉さんが不思議そうな顔をした。

「どうかした? 雅治となんかあったの?」
「いえ、そうではないんですけど……」
「でも幽霊でも見たような顔してるわよ?」
「ゆ、ゆうれい……」

 オウム返しをする私の瞳を数秒みつめたお姉さんは、分かった。と相槌をうった。眉間にしわを寄せて扉の向こうを睨みつけている。何が分かったのだろう。幽霊の正体だろうか? さっき私が会話をしていたお姉さんは本当に幽霊なのだろうか。こんな、まだ夜でもないのに。怪談話にめっぽう弱い私は笑顔のままフリーズした。あのぅ……。声をかけるとお姉さんは再び人好きのする笑顔をこちらに向ける。

「さっきの“あたし”、雅治のことをいろいろ聞いたでしょ」
「はい」
「雅治のこと好きとか聞かれた?」
「いや……って、え!? お姉さんなぜそれを知って……!? 私言ってな……」
「オッケー。もう大丈夫、あのバカにはよーく言っておくから気にしないで」
「え、はあ……」
「これからお買い物でしょ? そこのコンビニかな? 引き止めてごめんね、行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます! ……あの、さっきの話……」
「余計なことは言わないわ」

 可憐にウインクを飛ばし手を振るお姉さんに見送られながら私はエレベーターに駆け込んだ。バレていた? いつから? 私はそんなにわかりやすかっただろうか……。いや、仁王さん一家が鋭すぎるのかも。それじゃあ仁王くんにはバレてるってことになるのでは!? 頬は熱を帯びているというのに、背中をつたう冷や汗が止まらない。私は心なしか香る海のにおいから逃げるようにコンビニへ走り出した。


§


「……よお」
「に、仁王くん……」

 あざっしたー、と気の抜けた店員の声を背に受けコンビニから出るとしかめ面の仁王くんが待ち構えていた。クラスも部活も登下校の時間も違う彼と言葉を交わしたのは実に数ヶ月振りと言えた。
 相変わらず綺麗に染められた髪の毛は、夕陽を浴びてキラキラと星のようにまたたいている。

「仁王くんもお買い物?」
「……いや、おまんがユーレイに会ったらしいち姉貴に大目玉くらっ……じゃのうて、姉貴に言われたけ様子見に来た」
「ゆ、ゆうれい……本当にいるの?」
「さぁな。ただおまんが見たのは違うぜよ。もう心配せんでええ」
「じゃあ別に様子見に来てくれなくても良かったのでは……?」
「おまんがおらんくなると困るきに」
「あ、そう……なんかわざわざごめんね? 行方不明とかになるとおとなりさんちの仁王くんにも迷惑かけちゃうもんね……? でも私もう迷子になるような年では……」
「そうじゃなくて。迷惑とかじゃのうて、俺が、焦るし、困るんじゃ」
「エッ!? ちょ、仁王くん!?」

 私の手を握った仁王くんは、そのままずんずんと歩き出した。あの日のように意外と温かい手のひらは、あの日よりずっと大きくゴツゴツしている。ひと回りほど小さい私の手は包み込まれるようなカタチになっていた。私は目を白黒させたり顔を赤くしたり青くしたりと忙しない。
 驚きのあまり足がもつれ、わっ! と声をあげ躓きかけた。類まれなる瞬発力を発揮し慌てて支えてくれた彼を見上げる。いったい何事か、急に、こんな。
 色素の薄い瞳がじっと私をとらえて離さない。

「あのぅ……」
「前みたく、雅治くんでええから。他人行儀になると嫌われたのかと思うてビビる」
「え、そんな……。嫌いになったことはないよ?」
「……おん」

 そっぽを向いた彼の美しい横顔を見つめて、むしろ好きだからと心の中でだけ付け加えた。風で波打つ雅治くんの尻尾が夕日を映す海の水面のようで、感嘆の息が漏れる。宝物がまた増えたなと思う。

「今度、」
「うん?」
「今度、またテニス見に来んしゃい」
「…いいの?」
「ダメなら誘わん」

 そう言って雅治くんは再び歩き出した。今度は私と同じ歩調。
 彼が当たり前の顔をして車道側に回ったところでようやく私もさっきの幽霊の正体が分かった。確か……そうだ、イリュージョン。彼が詐欺師などという二つ名を欲しいままにしていることをすっかり失念していた。

 何のために、なんて問いかけは野暮だろうか。呻いて頭を抱える代わりに繋がれたままの手に力を込めると隣の雅治くんが小さく息を飲む。
 ずっとしまっていた宝物が色めき輝く気配がした。

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