とあるさざめく愛のおはなし

 雨が降ると、嫌なことばかり起こる。靴はもちろん濡れてしまうし、それどころか、地面から跳ね返った雨粒のせいで、服の裾までビショビショになっている。ただでさえ湿気でうねるくせっ毛は、天井の低い傘の中で巻き上がった風によって、四方八方に忙しなく踊った。
 重力を無視して乱れる髪をおさえつけるナマエは、しかしながら、この忌々しい雨の日が嫌いにはなれないのだった。

 猫背気味の背中をさらに丸めて、かかとを引きずりながら歩いても、雨は一向に弱まる気配を見せなかった。なんの変哲も無い透明のビニール傘の向こう側では、青色の紫陽花が楽しげに揺れている。桜の季節に手を振り別れを告げたのはつい先日のような気がするのに。まだ学生という身ではあるが、歳を重ねるにつれて、時の流れが早く感じるようになってきた。もう少ししたら、今度は蝉が音を降らせるはずだ。来たる晴れの匂いに思いを馳せつつ、足元に飛び出してきた蛙を飛び越えると、濡れたつま先から水滴が跳ねた。
 本当は、傘はもう一本あった方が良い。とうの昔に、その模範解答を導き出しているが、ナマエはずっと気付いていないフリをしている。こういうちょっとした、自分のズルい部分に、鋭い彼は勘付いていてもおかしくないのだけれど。今のところ指摘を受けたことはない。その“ズルい部分”がお互い様であることに気付けない鈍感さが、ナマエにはあった。

「おっ、ナイスタイミングじゃ」

 利き手側から吹く風が止むとともに、薄膜越しに滲んでいた視界が開けた。右手に感じる自分のものでない体温は名残惜しかったが、ナマエは大人しく拳をひらく。すると、ぐん、と天井が高くなった。傘の持ち主が変わったのだ。
 これこそが、雨の日を嫌いになれない唯一の理由。
 足元と三メートル先の進行方向とを往復するばかりだったナマエの目が、透明の空へ向かう。上手くセットされた仁王の髪から、小さなしずくが滑り落ちた。

「傘はどうしたの?」
「家出た時は降っとらんかった」
「天気予報って文化、知ってる?」
「知らん、初耳ナリ」

 そんなわけがあるか、と。堪えきれず下を向いて、ケタケタ笑うナマエの隆椎を愛おしく思いながら、仁王はほとんど中身のない薄い鞄を、右の肩に掛けなおした。
 一人用の、狭い傘の中だ。ほんの少し傘を左へ差しむけると、鞄もろとも肩が濡れた。しかし、この冷たさが仁王は嫌いではない。
 どちらかと言えば、自分は人に尽くすタイプではない。
 昔から、ふらふらと自分の好きなように動き、自由を愛していた。他人と深い部分で関わるのが億劫だし、気持ちや技術など、誰かに何かを“与える”ことはいくつになっても多大なストレスなのだ。けれども、しかし。隣を歩くナマエに対して、となると話は違ってくる。
 ナマエは、仁王が知っている他の女の子と比べて、あまり仁王に何かを望んだりしなかった。だと言うのに、いや、だからこそなのか。あの、ツンとすましたナマエが照れ笑いをした時の、細まる目だとか、色づく頬だとか、唇から覗く犬歯だとかを思い出しては。彼女を自分の手で、もっと幸せにしてやりたい。などと、ガラにもないことを思ってしまうのだった。
 だから仁王はこうして、雨の日にわざと傘を忘れてくる。そうすればいつも、帰り道をノロノロ歩くナマエの隣で雨宿りができた。

「お前さんノロノロずるずる歩きよるけえ、かたつむりかと思うたぜよ」
「だって雨だし。ノロノロずるずるになるでしょう?」
「それじゃあ、ナマエは、雨好かんのか?」
「どうだろうね。……たぶん、雨は好きじゃないけど、雨の日は嫌いじゃないよ」
「へぇ」

 ナマエは、自分の鞄を胸に抱きなおすついでに、頬をかいた。照れ隠しって、バレバレだ。こんなの。音は、生死と同じで回収できる代物ではない。たとえ、傘の縁からぼたぼた落ちる雨の数を数えたって、口から出て行った言葉をなかったことにはできない。それどころか、右上からは明るい笑い声が降ってくるのだ。
 低音のシャワーを止めようと、咎めるように仁王を見上げ、そして、出鼻をくじかれた。いつだってそう。ズルいんだ、仁王は。そうやって、黙って私に恋を注ぐのだから。“相合い傘 濡れてる方が 惚れている” なんてベタなことを。ゆるむ頬を無理やり引き締めると、口元がひしゃげた。そのままナマエは一歩分、仁王の方に寄って歩いた。二人の間の良識が埋まる。そのせいで、時折お互いの濡れそぼった靴がぶつかった。

「ねぇ。私、もらうばっかりなのは嫌だよ。もらった分はきちんと返したい。好きな人への愛情は、何倍にできるんだからさ」
「ずいぶん熱烈じゃね」
「仁王がそれ言うの? 肩、濡れてるけど?」
「お前さん相手だと、詐欺師も形無しなんよ」

 そのあだ名、久しぶりに聞いた。と。眉を下げて、照れ隠しにはにかむくせに、目を逸らさない彼女の真っ直ぐさが、仁王にとって、たまらなく可愛く映る。それを知る術は、ナマエにはないのだが。
 いつの間にか、仁王が傘を右手に持ち替えていた。代わりに空いた利き手が、ナマエの肩を抱き寄せる。一人分の世界に、ぴったり二人が収まった。まるで、ビニール傘はこのために作られたんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。タイミングを揃えて、二人一緒に水たまりを跨いだ。

「こうしてくっついて歩いてたら、バカップルみたいだね」
「まぁ、あながち間違いじゃなかろ」

 ニヤリ、と。同じ笑い方をする二人の肩は、同じ分だけ濡れていた。
 仁王の歩幅が、普段より小さくなるこの時間が、ナマエはたまらなく好きだ。もらった気持ちに、この人に、何をお返しすれば良いか。どうすれば、彼を笑顔にできるのか。頭上で踊る雨音を聴きながら、そんな難題に頭を捻るのも、好き。
 だからやっぱり、こと私たちに関して、傘は一本で正解なのである。

tittle by 花洩

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