目隠し滲んで笑ってしまうね


 前の席の椅子を引く音がした。顔を上げると柳生が微笑んでいた。

「お手伝いします」

 そう言って腰を下ろした紳士は頼んでもいない作業を始める。私が押し付けられた仕事なんだけど、それ。
 同じ委員会の女の子たちはコイツのことを優しいだの素敵だの憧れるだの言ってるが、そんなのはまやかしだ。人の返事も待たず強引に「手伝う」なんて耳触りのいい言葉を使うコイツはエセ紳士に決まっている。だって絶対に、私がその申し出を断ることを予知していたに違いないのだから。
 机に積まれたプリントを七枚ずつ掬ってホチキスの針を刺す。単調な作業を流れるようにこなす指先の、短く切りそろえられた爪が彼の神経質な部分を浮き彫りにしているようだった。
 私たちの間に会話はない。ただ、パチンパチンと紙をまとめる音が教室に響いていく。俯いた柳生の眼鏡の縁から、長い睫毛が見切れていた。


 それは、あの夏と寸分違わぬものに見えた。


 ゆっくり目蓋を下ろせば、音が聞こえてくる。野球部のランニングの声に混じり、特徴的な黄色のボールの音。砂を踏む足音こそ聞こえないが、ラケットのスイング音はいつだって思い出せた。

「部活」
「……はい?」
「アンタは部活行かなくていいの?」

 柳生が顔を上げたので、憂いの乗る睫毛は胡散臭い眼鏡の向こう側へ消えた。彼は私をみつめているのだろうが、私は彼をみつめ返すことができない。それが歯がゆい気がして奥歯を噛んだ。

「私はもう引退しましたから」
「でも、真田たちはまだ部活に出てるんでしょう? ラケット持ってたし。アンタも行けばいいじゃん、部活」
「それはミョウジさんも同じでは?あなたこそ部活へ行かなくていいのですか?」
「私は行きたくないの。アンタもそうなの?」
「今私はあなたのお手伝いをしていますから」
「……別に頼んでないけど」

 柳生は答えず、ただ困ったように微笑んで再び手元に視線を落とした。これが紳士なんて。銀髪の詐欺師にスマートな会話のはぐらかし方を教わった方がいい。
 いつもそうやって本心を封じて口角を上げる柳生のことが、私は気に食わない。
 準決勝でわざとボロ負けした時も、立海男子テニス部が全国三連覇を逃したあの日も、柳生は文句の一つもこぼさなかったのだ。その姿を目の端に捉え、ロボットかよと心の中で悪態をついたのはまだ記憶に新しい。
 思い出すとまた腹の底がムカムカしてきて、口から毒が流れ出た。

「決勝に出られなくて、しかも最後の試合でわざと負けることになって、悔しくないの?」

 柳生はほんの一瞬手を止めたが、すぐに作業を再開した。長い指が一枚、また一枚と紙をめくって枚数を数えていく。
 無視してくれるなら逆にありがたい。今のは我ながら失言だった。踏み込み過ぎた。
 流石に謝ろうと顔を上げれば、初めて柳生と目が合った、気がした。

「勝利のためにはあれが最も理にかなった戦略でした。結局最後には負けてしまいましたが、私が出ていたところで結果が変わったかなんて誰にもわかりませんから」

 凛と澄んだ声でそう言った柳生は、やはりそっと微笑んだ。
 馬鹿だ。馬鹿は私だ。柳生は自分の能力を見極め、チームのことを思って悔しいはずの気持ちに蓋をして微笑んでいる。だというのに部活動最後の試合で彼と同じような境遇を辿った私は、スタメンから外されたあの試合をいつまでも睨み続けているのだ、もう意味がないのに。
 悔しさを押し込める柳生の気持ちは、痛いほどわかった。「なんて優しい人」と頬を赤らめる同級生の声が脳内で響いた。彼女の言葉は、あながち間違いではなかったのかもしれない。そしてこの人は、なんて強いのだろう。
 ポタリ、落下した涙がプリントの文字を滲ませる。慌ててそれを拭うと、柳生は小さく息を吐いて笑った。

「なんで笑ってんのよ……ほんっと、お人好し。紳士なんてあだ名つけられてかっこつけて……優しすぎて馬鹿みたい」
「いいえ、優しいのはあなたです。私はそうではありませんよ」
「はぁ?」
「あなたが私の分まで泣いてくださるから、私が暗いところへ落ちずに済むのです」

 言いながら彼は、真っ白いハンカチを差し出した。私が小さく首を振り受け取りを拒むと、一言断りを入れた紳士が私の目元へ手を伸ばした。ハンカチを持つ綺麗な指の間からチラリと覗いた手のひらには硬そうなマメが残っていた。それは、柳生がテニスを嫌いになれない証拠でもある。私も明日は部活に顔を出そう、そう思った。

「……紳士って気障なのね」
「好意を持っている相手限定です」
「私なんかと付き合うなんてほんと趣味悪いよね、柳生は」
「私にとって、あなたはこの上なく魅力的ですよ」

 再び困ったように微笑んだ彼氏様を見て、私は声を上げて笑った。まったくもう、泣く理由も笑う理由も柳生が関係してるなんて、まるで私が柳生のことを大好きみたいじゃないか。
 ま、泣いて笑って忙しい日々も、あなたと一緒なら悪くないものね。

tittle by エナメル

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