びうびうと春
「うわ、大盛況だね〜!」
そう言って冷やかすと、ボロボロのジローは苦笑いを浮かべ私の向かいに腰を下ろした。制服のボタンはシャツまでほぼ完売状態で、だらしなく糸が飛び出している。今朝は珍しく綺麗に整えられていた髪もすっかりぐしゃぐしゃでせっかくの男前が台無しだ。
「女の子たちってスッゲーんだね、俺びっくりだC〜。制服を今度入学する新入生にお譲りすることになってっから家帰ったら母ちゃんに怒られるかも……」
疲れを滲ませた声を発したジローはゴツンと机に頭をぶつけて撃沈した。まだ満開とは言えない桜が可愛らしく揺れる。女子の黄色い声がその風に乗ってはしゃいでいる。その姿は可愛くもあり、逞しくもあり。きっと今頃は学校イチの色男も彼女たちにもみくちゃにされているのだろう。
「中学の時はエスカレーター式であんまり卒業の実感湧かなかったけど今回はそうじゃないもんね。ここの大学に進まない子も多いし、かっこいい男テニレギュラーの思い出が欲しいんだろうね。ドンマイ」
「思い出か〜……。ハンターみたいなのに、欲しがるものは可愛いらしいなぁ。あ、思い出と言えば! ナマエにもさ、これ書いて欲C〜んだよね!」
勢いよく顔を上げて、鞄を大きく開いた。プリントやら卒業証書の筒やらがめちゃくちゃに突っ込まれている、汚さの化身であるジローの鞄も今日で見納めかと思うと少し寂しい。
「えーと、あった、これこれ! 寄せ書きして!」
差し出された卒業アルバムのフリースペースにはカラフルな字が所狭しと並んでいて、ジローの人となりを主張している。男女関係なく、人に好かれる才能に長けている彼はこの先も人に恵まれるに違いない。
「どこに書けばいい?」
「好きなとこに好きな色で! って言ってもスペースあんま残ってないんだけどね」
「おっけー」
「じやあさ、俺もナマエのアルバムに寄せ書きしてE〜?」
「もちろん! むしろ書いて書いて!」
ジローへ、とお世辞にも綺麗とは言い難い字で私が思いを綴り始めたのを確認したジローは先程までの落ち込みは何処へやら。ペンを片手に楽しげな声で話を始めた。とりとめがなく、話題もコロコロと変わるジローの話は肩の力を抜くのに最適で、楽しい。うんうんとややおざなりに相槌を打つと彼はいつだって嬉しそうに目を輝かせる。
「俺、ナマエの字好きなんだよねー! こう、カクカクしてる感じが!」
「それ褒めてる?」
「褒めてるC〜! あ、つーかナマエ全然寄せ書きしてもらってないじゃん!岳人のも宍戸のも、跡部の字だってない!」
「そりゃあみんな女の子に囲まれて忙しそうだったし」
「それもそっか〜! そう言えばねー、俺なんかより跡部の方がもっと大盛況だったよ! ボタンとかいろいろ!」
「そりゃそうでしょ。かっこいいもん」
大好きだよ! で締めくくった寄せ書きを渡すと、ジローは楽しい夢を見ている時のように口元を緩めた。
「わ〜ナマエに好きって言ってもらえるの激レアじゃん! 超嬉C〜〜!」
「大袈裟だなぁ」
「お返しに俺も大好きって書いとくね!」
オレンジのペンで元気よく書かれていく文字を見て、思わず私も破顔する。私とジローの間にある好きは友人に向けるそれだ。自分がここまで素をさらけ出すことができるのは家族以外では彼の前だけかもしれない。同学年だというのにまるで弟を見ているような感覚に陥ってしまうのも仕方ないだろう。優しい時間はゆっくりと進んでいた。
§
「そういや、ナマエは跡部の第二ボタン欲しくないの? 好きなんでしょ?」
不意に振られた質問に私は目をまたたかせた。ぼーっとしているように見えて、その実天才肌な彼は私の秘めた想いを私より先に見抜いた張本人だ。内緒にしている真実をあっけらかんと話題にされ私の反応はワンテンポ遅れる。けれども昔はこの手の話を振られるのは非常に苦手だったにもかかわらず自由気ままな彼にデリカシーを求めることは無駄だと自分に言い聞かせることで私自身ずいぶん図太くなっていた。
「うん。そりゃあ私だって一応女の子だし、欲しいけど」
「A〜!? じゃあなんでこんなところにいるの!? 行って来なよ〜! 売り切れちゃうよ!」
「てかもう売り切れてるでしょ。そうじゃなかったとしても無理無理。部長様の好みのタイプ聞いてから私すっごい猫被って勝気な女演じてたのに、今日第二ボタンもらいになんか行っちゃったら今までのが嘘だったってバレるじゃん」
苦笑いを浮かべ大きくかぶりを振る私を眺め、ジローは不思議そうに首を傾げた。
「でもそれがきっかけで付き合えるかもしれないよ」
「えー、あり得ないなぁ。それに私はね別に付き合えなくてもいいんだよ。いつかあの王様がさ、過去を振り返った時に、そういやアイツはなかなかいい女だったなって思ってもらえればそれで幸せなの」
「ん〜よく分かんねーや、変なの!」
「なんだとー!? 駄目だなジローは乙女の繊細な恋心が全然わかってないよ」
「A〜俺が変なの? 違うよね?? ねぇ、跡部もそう思うでしょ?」
「……は?」
―――コツリ
教室のドアにこの学校の王様のものと思しき長い脚を見た私の動きはとにかく早かった。
風流にも揺れる桜を眺めるために開け放していた窓に行儀悪く足をかけ、スカートがはしたなく翻るのも無視して外に飛び出した。幸いにもジローと私だけの世界と化していた教室は一階にあったので難なく着地を果たすことができた。
「おい!」
夢の中でもたくさん聞いた声を背中で聞きながら、上履きのまま砂の上を走る走る。元生徒会長である彼は私の暴挙にいい顔をしないだろう。それどころか小言を一つ二つと並べるに違いない。けれどもそんなこと気にしてはいられないのだ。
いったいどこから聞いていたんだろう。ジローの反応から察するにきっと話の流れは汲んでいるのだろう。つまり今までひた隠しにしていたかっこ悪い本性を知られてしまったということになる。とんだ失態だ。羞恥で頭がおかしくなりそうだった。いいや、叶わない恋を始めた時点でとっくに私の頭はおかしくなっていたに違いないのだけれど。
足はたいして速くないほうだけど、持久力にはそれなりに自信があった。動機が不純だったとはいえ伊達に中学からの六年間部活をしてきたわけではない。ただっぴろい構内をでたらめに走り続け、人気のない場所でようやく足をゆるめた。跳ねる息を抑えながら少し歩く。少し離れたところからは王様を探す女の子たちの可愛い声が。変に猫をかぶってがんじがらめになっている私と違い、純粋に相手へ自分の思いを伝えられる彼女たちがちょっとだけ羨ましいと思った。
「……いいなぁ」
「何がだよ」
「えっ?」
気づけば右腕の自由がきかなくなっていた。指先まで余すところなく美しい彼の手が確かに私の二の腕を掴んでいる。背を伝ったのはただの汗かそれとも冷や汗か。
「逃げるのはもう終いか? アーン? 俺に持久力勝負を挑むなんて良い度胸じゃねーの」
振り返って見上げた先には息も髪も乱すことなく不敵な笑みを携えている跡部。
「詰んだ……」
絶体絶命の状況下で思わず溢れた私の本音に跡部は青筋を浮かべて顔を引きつらせた。跡部にこんな顔させるのはジローとお前だけだと笑うテニス部レギュラー陣の顔が頭をよぎる。
「テメェ、人を何だと思ってやがる……」
「あーいや、その、追いかけっこの鬼……?」
素っ頓狂な私の発言に対し、手で目を覆い大きなため息をついた跡部の上着はこれっぽっちも乱れがなく、第二ボタンどころか全てが当たり前の顔をしてそこにピッタリ収まっていた。私はその様子に少々面食らった。
「まぁ良い。それよりもこっちが優先だ。お前、何で逃げた?」
「……」
「慈郎には言えて、俺には言えねえか」
「……。」
「随分と嫌われたもんだなぁ、あぁ?」
「違っ! ……そうじゃないし……」
予期せぬ方向へ進む跡部の発言に思わず反論したものの、続く言葉が見つからず再び口を閉じる。逃げるように俯く角度を深くすると、二の腕にかかる圧力が痛くない程度に増加した。
熱が出た時のようにくらくらする頭を懸命に支えながら私はこの手から逃げる術を思案している。跡部はどこまで気付いていて、私に何を言いたいんだろうか。世界を自分中心に考えている王様の思考を読み取るのは至難の技で鈍い私には難易度が高すぎる。まともな告白もしないまま振られてしまうのだろうか。そう考えるとあまりの怖さに腰が引けた。
「手、離して」
「ハッ! 断る。どうせまた逃げるだろうが」
「……どうして逃げちゃ駄目なの? 私なんかに構うより、他のファンの子にサービスしてあげれば?」
「……お前はそれで良いのかよ。俺様に言うべきことがあるんじゃねえのか」
「……」
「またダンマリか。本当に強情だな。……そんな真っ赤な顔してよ」
強い力で腕を引かれ、体が前のめりになった。許容範囲を超えた頭はきちんと機能しておらず、反応しきれなかった足がもつれそのまま転びそうになる。ギュッと目を瞑ると、軽い衝撃とともに今までの比にならない熱量に覆われた。
慌てて顔を上げると、すぐ近くに空よりも深く美しい青。はらりと舞う一枚の桜の花びらが私の真横を駆け下りる。時間にして約二秒。跡部に抱きしめられていると言う事実に動揺を隠しきれず、離れようと腕に力を込める私の腰を跡部はさらに強く引き寄せた。
「やっとこっち見やがったな」
「ちょっ、あ、あとべ」
「何を勘違いしてるのか知らねえが、鈍すぎるんじゃねえのか」
「えっ、」
「バーカ。この状況でもまだ、俺様の第二ボタンが誰のために残ってるか分かんねえのかよ」
「うそ」
「嘘じゃねえ。……俺の未来にお前がいないなんて誰が決めた?ナマエ、てめぇも良い子ぶってないで欲しがってみろ」
低く囁かれた言葉にノックアウト。白旗を上げた私は、跡部の胸に額を当ててひた隠しにしていた二文字を口にした。
「あぁ知ってる」と答えた跡部の鼓動が速かった気がするのはきっと私の願望ではないはずだ。