星は帰路を映すか


「行かないで」

 絞り出された言葉とともに、滲む左目から涙が滑り落ちた。祈るように膝を折る私を三秒間真っ直ぐ見下ろしたキャプテンは冷たい目をして踵を返した。

「おれは誰の指図もうけねェ」

 冬島圏内を泳ぐイエローサブマリンの床は私の熱を容赦なく奪い取って行く。
 その冷たさを私は忘れられないままでいる。


§


「おォーい! キャプテンが帰って来たぞ!」

 肌寒い風と共に大手を振って駆けてくるシャチがもたらしたニュースは瞬く間に我々ハートの海賊団クルー全員へ伝播した。雲をつく象の背に繁栄するこの国はその標高に見合う気温を保っているが、場はわっと熱気に包まれた。
 キャプテンが生きていることは懸賞金額の上がった新しい手配書を見て何とか把握していたものの、実際に姿を確認できるとなると喜びもひとしおだ。ペンギンは胸を撫で下ろし、ベポは嬉しそうに両手を挙げ、ジャンバールはひとつ頷き目を閉じた。
 対して私は“キャプテン”と言う単語にびくりと肩を跳ねさせる。もちろんキャプテンのことを嫌いになったわけではないし、彼の帰還は純粋に嬉しい話題だ。けれども、身の程をわきまえていなかった自分の行動を恥じた私はあの日以来キャプテンと顔を合わせることができず、一人旅立つ彼の見送りさえもしなかったのだ。今さらどんな顔をして会えばいいと言うのか。
 腹の中があの晩の続きのように急激に冷えていく。不安と憂鬱は波となり絶え間無く打ち寄せていた。

「何してんだよナマエ! 早く行こうぜ!」

 あの日の会話を知らないシャチが、うつむく私の腕を引いた。サングラスの下の目尻は優しく下がっていることだろう。今にも踊り出しそうな雰囲気だった。
 この船のみんなは自分勝手で強くてかっこよくて優しくて寂しいキャプテンのことが大好きなのだ。一帯を占める空気はふわふわと浮き足立っている。弱虫の私はそれに気圧されていた。

「私はいいよ」
「なんで! ……お前さぁ、キャプテンと仲直りしろよ。あの日見送りにも来なかっただろ?」
「そんなんじゃない。……みんながいっぺんに行ったら、キャプテンも疲れちゃうでしょ」
「……お前はお行儀が良いよなァ」

 嫌味とも取れる言葉を残しシャチは手を離した。私に兄貴風を吹かせがちな彼は私の頑固さを良く知るひとりだから、引き際を読み違えない。
 向こうでベポが私たちを呼んでいる。返事をしたシャチは私の背を軽く叩いて来た道を戻る。それを合図に同じ方向へ駆け出す仲間たちの背中を眺める私の両足は地面に根を張っているかのようだった。あれに混じってキャプテンに一言お帰りなさいと告げれば私の失言はチャラになったかもしれないというのに。
 彼らは毎日毎日キャプテンの身を案じ、そしてこの日を信じていた。未来へ走る彼らを見送る私は、まだあの日から一歩も進めていない。
 握りしめた拳はまるでイエローサブマリンに触れているかのように冷たかった。


§


 どんちゃん騒ぎの宴は島のミンク族をも巻き込んで、しっちゃかめっちゃかの状況だ。
 結局キャプテンと言葉を交わす機会を失ったまま、半ば引き摺られて宴の輪の端に腰を下ろした私は遠くに懐かしい彼の姿を捉えた。キャプテンは私の記憶と同じように、騒ぎの根幹から一歩引いたところで酒を煽っている。時折麦わらの仲間たちが声を掛けてくるのを軽くいなしているその様子は、私の知らないキャプテンでもあった。
 酒に呑まれたメンバーがひとり、またひとりと地面に転がっていく。小さな話し声だけが灯る宴会場の隅ではキャプテンも目を閉じていた。酒瓶を片手に転がっているシャチを跨いで恐る恐る近づくと、獣のような瞳はぴったり閉じられて、人の気配に睫毛が震えることもない。
 目の下に刻まれた隈は出会った頃と寸分違わず深いままだったが、どこか憑き物が取れたような穏やかな寝顔だった。ひとりで旅をして、何を清算してきたのか。キャプテンはきっと話したがらないだろうから、私たちには知る由もない。
 自分が羽織っていた上着を、彼のおびただしく彫られた刺青を隠すように掛けて私は踵を返した。宿所から毛布を取ってきてあげなければ。他の酔っ払いたちもこのまま転がしておくと風邪をひいてしまうかもしれない。


 重みの減った肩口に触れる冷気は容赦がない。腕をさすり首をすくめ、数時間前に来た道を戻る。波の音が遠いこの地は、少し落ち着かなかった。

「おい」

 近くなった空を見上げ澄んだ星をなぞっていた私は肩を震わせる。聞き間違いようのない低音に心臓を掴まれたような気がした。彼に心臓を取られるならばそれは本望でもあるが。

「……キャプテン」
「これはお前が着ておけ」
「うん」

 返された上着からは消毒液の匂いがした。いったい私たちと別れたあとどんな冒険をしたのだろう。目新しい包帯の下でキャプテンの右腕は大きなダメージを受けているのかもしれない。本当のことを何も知らない自分がもどかしかった。
 改めて顔を上げると星色の瞳と目が合う。

「ナマエ、その足どうした」
「えっ、あ……これはジャックが攻め入ってきたときにちょっと……」
「……座れ」

 私がほんの少し、他のクルーが気付かない程度に庇っていた左脚に目ざとく気付いたキャプテンは木の根を顎で指す。有無を言わせぬ圧に押された私は大人しく腰を下ろした。目の前にしゃがんだキャプテンは墨の入った長い指で私のつなぎの裾をたくし上げた。

「……下手くそが」

 乱雑に巻かれた包帯にため息を落とされた。死の外科医の異名を持つ彼は黙ってそれを解き、綺麗に巻き直していく。右手が問題なく動いているのを見て少し安心した。肌に触れる指の冷たさでキャプテンが本当に帰ってきたんだと理解する。

 鳥も鳴かない月夜の中落ちる沈黙は深い。息をするたび肺が痛むのは寒さのせいか緊張のせいか。

「キャプテン、……おかえりなさい」
「あぁ」
「……帰ってきてくれてよかった」

 言い終わらないうちに雫が落ちた。まるであの日のやり直しだ。キャプテンの目が怖くて見られない。続けてぼたぼたとつなぎにシミを作っていく涙を止めようと目を擦った。

「……擦るな、腫れるぞ」

 それは優しさと呼ぶにはぶっきらぼうな響きかもしれないが、私には十分だった。
 頭の中であの日の後悔がとぐろを巻いている。

「あの日、行かないでなんて言ってごめんなさい」
「……」
「詳しい事情は分からないけどキャプテンにとって大事な決断だったって事くらいは分かってる。それなのに水を差してしまってごめんなさい。……扱いに困るようなら私、船を降りるから」

 そう告げながら俯く。自分の口から出た船を降りるという案はずっと考えていたことだったが、実際に口に出すと言葉が重く肩にのしかかった。

「そんなこと考えてやがったのか」

 処置を終えた彼の指が、そのまま私の顎を掴み無理矢理目線を自分のそれに合わせる。切れ長の瞳は、暗闇でも尖るように輝いている。

「ほんとうは、もうお前らと会うことはねェと思っていた」
「……」

 指にはもう力は込められていなかったけれど、拘束から抜け出そうとは微塵も思わなかった。どきりとするほど冷たいキャプテンの手が少しでも人肌を取り戻してくれますようにと、そんなことばかり考えてしまう。

「最優先事項はドフラミンゴを倒すことで、相討ちになるならそれも本望だと考えていた。だが結果的に生き残ったおれが何を考えたか分かるか?」
「……カイドウのこと? それとも昔少し話していた恩人のこと?」
「それも間違いじゃねぇが、質問の答えとしては不適だ。おれは当たり前のように、帰ろうと思った。お前たちが待つおれの居場所に」

 私は唖然とし言葉を失う。それはクールな我らが船長にしては熱烈な口説き文句だった。 キャプテンに陶酔している私たちには、そして、キャプテンのことを好いている私には有り余るほどの言葉だ。カッと顔に集まった熱が平衡を目指し彼の指へ流れていくのがわかった。
 その事実に軽く笑ったキャプテンは手を離した。

「ナマエのいるところがおれの巣だ。お前が何を考えて何を言おうと、おれからそれを奪うのは許可できねえ」
「な、何言ってるの」
「いい加減気づけよ」

 ふと視界が翳ったかと思うと、額に息遣いを感じた。リップ音を立てて離れた彼の唇は、さらに私の体温をぐんとあげた。
 彼は右の口角だけを上げて笑う。月明かりが見せた幻にすら思えた。

「そんな、嘘。だってあの日のキャプテンは嫌な顔をしてた……」
「自分の意見を曲げるつもりがねぇのに、お前の涙を拭いてやるわけにはいかないだろう。お前に泣かれると調子が狂う」
「うそ……酔ってるの?」
「おれが自分を見失うまで酔ってるとこを見たことあんのか?」
「ない……でも、」

 うわごとのように否定を繰り返す私にしびれを切らしたキャプテンがグイとこちらに身を寄せた。慌てた私は仰け反ったが、後頭部を木に打ち付けることとなった。鼻先が触れるほど近くに整った彼の顔がある。彼の瞳はいつのまにか蜂蜜のように甘く溶けていた。

「そんなに信じらんねェなら、嘘かどうか今ここで試してみるか?」

 何を?と惚けられるほど純粋ではないつもりだ。私は小さくかぶりを振る。

「分かった。分かったから、少し頭を整理させて」
「却下」

 囁き声とともに距離がゼロになった。

 あの晩キャプテンが私に言い残した言葉が、熱を持って蘇る。繋がれた手のひらは冷めた記憶をかき消した。

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