エンドロールにも追いつけるよ(1/2)

 あたり一帯はとっくに一面銀世界だというのに、雪が降り止む様子はなかった。霞む地平線では陸と空の境界が曖昧に溶けている。新世界に入ってからというもの異常気象が輪をかけて厳しいものとなっていた。ひとつの海域を、島を超えるたびに自分が五体満足であることや仲間が誰一人欠けていないことに安堵の息を吐くことの繰り返しだ。
 煩雑に巻いたマフラーの下で息を切らせているナマエとは対照的に、北の海育ちのローは雪を踏み固めるようにその長い脚で歩みを進める。前後左右どこを見ても同じ景色にしか見えないが、いったいどこへ向かっているのだろうか。自分より一回りは大きい足跡を辿り、叩きつけるような吹雪越しにナマエは彼の黒いロングコートを追う。けれどもコンパスの違いと適応力の差は顕著でありお互いの距離は離れていくばかりだった。「キャプテン!」呼び声は降り積もる雪に吸い込まれて消えた。ビュウとひときわ強く吹いた風に反射的に目を閉じると、次の瞬間、ローの姿は忽然と消えていた。止まぬ雪のせいなのか足跡も見当たらない。怖くなって彼の名を何度も呼んだ。
 けれども、返事はついぞなかった。


 どうも最近、夢見が悪い。
 冷や汗で額に張り付いている前髪を払いながら、ナマエは目を開けた。浮上したままの航海を続けるポーラータング号は揺りかごのリズムを刻んでいるが、冷めきった手足のままでは眠れそうになかった。丸窓の外を見やれば、欠けた月が暗い海に映ってたゆたう。眠ってからまださほど時間が経っていないことは明白だった。
 ナマエは女部屋にひとつだけ置かれているデスクへ裸足のまま移動し、何をするでもなく読書灯を点けた。なんとなく、暗いところを避けたかったのかもしれない。周囲の環境は時として人の精神を左右するのだから。
 悪夢を見るようになったのは、キャプテンであるローが帰ってきてからだ。長期間の単独行動から戻った彼の腕には、見たこともない縫合の跡がぐるりと回っていた。それを見て、頭を何か硬いもので殴られたような衝撃を受けた。
 ローがひとりでふらりと姿を消すことはこれまでも度々あった。だから、今回も長い間離れ離れになるとはいえ、いずれ再会出来るだろうとタカを括っていたのだ。結果として、ローはナマエたち仲間の元への帰還を果たしたが、どこかでボタンのかけ違いが起きていたら? そのひとつの可能性に思い至って以降、ナマエの心臓にはずっとトゲが刺さったままだ。

「目ェ悪くするよ」

 背後のベッド上段からイッカクが身を乗り出し、ぼうっと灯りを直視するナマエをたしなめた。堪えきれなかったらしい欠伸が口の端から漏れている。

「ごめん、起こしちゃった?」
「別に良いけどさ。また眠れないの?」
「さっきまで寝てたよ」
「……そ。酷くなるようなら、キャプテンに相談しなよ」
「うん、ありがとう」

 イッカクは再び狭苦しいベッドへ戻り、やがてすぐに寝息が聞こえ始めた。小さな灯りを消したナマエは、自分の寝床で膝を抱えた。
 夢は潜在意識によってみるものであるそうだ。だとすれば、この悪夢の終わりは、一体どこにあるだろうか。


§


 雨に飢えた地だ。海水を淡水化するサイクルが確立しているのはあいにく島の東側半分のみであり、西の土地は死んでいた。
 島唯一の港から西へ走る一本道が、街の大通りらしかった。その通りから枝分かれする小道は迷路と呼んで遜色ないほど入り組んでいる。王宮などという大層な名称を持つ背の高い建物を通り過ぎ、さらに西へ進むと、街はどんどん活気をなくし、やがて道は整備の施されていない砂漠と化した。
 さらに先へ進もうとするナマエを、彼が止めた。

「方向音痴が準備もなしに砂漠に入るな。死ぬぞ」

 返す言葉もなかった。自他ともに認める方向音痴の自覚はある。砂の海で街を見失えば戻ってくるのは不可能だろう。
 砂漠へ入らない代わりに、ふたりは街並みでできた迷路を放浪した。来た道を戻りつつ、途中で順路から外れていく。家の敷地なのか公共の道なのか区別のつかない石畳のアーチをくぐり、砂の溜まる階段を上り、道なりに曲がり角を超える。ふと、痩せ細った犬が日陰で涎を垂らしていた。ポケットになにか食べ物でも入っていただろうか。
 思わず足を止め持ち物を探るナマエを尻目に、彼はスタスタと先の三叉路を右へ行く。日に焼けないよう買った白い羽織りが乾いた風で翻った。

「お前の気まぐれの施しが、本当にそいつのためになるのか?」

 綺麗事を叩っ斬られ返事ができない。善意が相手を不幸にすることも往々にしてあることを知っている。逡巡したのち、ナマエはローの後を追う。あの犬はこの厳しい陽の国で生き抜いてきたのだ。一瞬の幸福の後に残るのは、巨大な喪失感となるだろう。
 三叉路の先で白い裾が左へ泳ぐのをかろうじて確認し、ナマエは置いていかれないよう駆け出した。しかし、突き当たりを左折して現れたのは彼の後ろ姿などではなく、行く手を遮る高い行き止まりだった。


「なんか目さえちゃって眠れないから、今日の不寝番わたしがやるよ」
「お前それ、昨日も別のやつに言ってたんだってな」
「あー……」

 知ってたんだ、とナマエは視線を彷徨わせて誤魔化すように笑う。その不誠実な態度にシャチは顔をしかめた。
 旗揚げ組四人が海に出た後すぐ仲間に加わったナマエにとって、彼は最も長い付き合いの一人だ。兄のような存在でもある。自分を心配してくれているのは本人の口からはっきり聞かずとも分かっていた。けれど、眠れないし眠りたくないのだからしょうがないじゃないかと、そういう気分にもなってしまう。

「眠れないとかさ、おれはよく分かんねえけど。キャプテンに相談した方がいいんじゃねェ?」
「相談というか、薬はもらった」
「効かねェの?」
「だんだん効かなくなってきちゃって」

 はァ……、シャチとナマエの深いため息が重なる。その事実に少し笑ってしまうと、笑い事じゃねェよ、と呆れたシャチがナマエの額をはじいた。

「……ったく!ここに居てもいいけど眠くなったらすぐ寝ろよ!」

 押し問答の末結局根負けしたのはやはり兄貴分の方となった。ナマエを毛布でぐるぐる巻きにして、シャチは寒さに鼻をすすった。
 最近は浮上続きの航海が続いている。昼間は日が照りベポがすっかりへばる程の暑さだったが、陽が沈むと途端に寒くなった。ナマエは強がる隣のシャチに毛布を一枚分けてやる。暗く沈黙する水平線に目をやると、さっきの悪夢を思い出した。

「この辺、昼夜の気温差が砂漠みたいだよね」
「あぁ、言われてみれば確かに。砂漠と言えばさ、いつだったかの夏島でキャプテンが暑さ苦手なくせして一人で歩き回ろうとして気が気じゃなかったよな」
「あの人が一人で行こうとするのは、いつもでしょ」
「……そうだなァ」

 お前はそれが寂しいんだよな。そう言いかけたシャチは、慌てて口をつぐんだ。いたずらに妹を泣かせるのは趣味ではない。代わりに、波の音に聞き入っている彼女を自分の毛布に入れてやったのだった。

「別に寒くないよ?」
「おれが寒ィんだよ。気にせずお前は寝ろって」

 無理やり帽子を被せられたナマエは、瞼を閉じる。目を瞑るたびにローの傷が脳裏を掠め、胸が苦しかった。

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