ここはあたたかい場所

 新人の教育を任されて数ヶ月経つが、なかなかどうして苦戦の日々が続いていた。自分の指導力の無さやコミュニケーション能力の低さに愕然とさせられながらも、なんとか今よりも良くなるよう模索するしかないのだから、必然的に寝ても覚めても仕事のことばかり考えてしまう。最近はプライベートの充実など遠い世界の話に思えてきた。
 何かためになるのではと藁にもすがる思いで自己啓発本などを読み漁る休日を過ごしては、やる気が空回りしている気もしている。しかし、空回りしてでも行動し続ける方が自分の中の焦燥感を慰められる。そうしているうちに止め時を完全に見失い、休息のタイミングがもうすっかり分からなくなっていた。

「悪いんだけど今週末の約束、延期させてもらえない?」
「アーン? 前回も同じこと言ったはずだが」
「ごめん。でも、上期はちょっと仕事が大変だからさ……」

 私の空回りのしわ寄せは、よく出来た恋人にも及んでいる。金曜の夜に、週末の予定をキャンセルするのはこれで何度目だろう。もちろん跡部に申し訳なく思ってはいるが、もう長い付き合いになるしなんだかんだ許してくれるだろうという甘えの気持ちがあった。
 しかし、今回とうとう向こうが痺れを切らしたようだった。

「休日出勤ってわけではないんだろう?」
「それはそうだけど……」
「明日の10時ごろ迎えに行く」
「さっきまでの話聞いてた?」
「特に準備はしなくて良い。大人しく待ってろ」

 そう言いおいて跡部は電話を切り、翌日、約束の時間ぴったりに家へやって来て説明もなく私を連れ出した。

 驚くほど乗り心地の良い車で連れて行かれた先は、彼の別荘のひとつだった。当然のようにテニスコートが併設されているここには何度か招かれたことがある。
 またいつかのようにテニスの相手をさせられるのかと身構えたが、そそくさとテニスウェアに着替えた跡部は「少し打ってくる。長くはならないから好きにくつろいでろ」と言い残し部屋を出て行った。
 ここまで連れてきておいて放置されるとは予想外だ。けれど、ここ最近散々跡部との約束を反故にしていたのは私の方なので文句を言える立場ではない。
 一人取り残された部屋で少しだけ迷ってから、持ってきた本は持たずに彼の後を追った。家の間取りは当然頭に入っているので迷うこともなく、足取りは軽い。跡部のテニスを見るのは久しぶりだ。
 どうやら樺地くんを呼び出していたらしく、コートではラリーが始まっていた。いつものような派手な技は鳴りを潜め、彼らにしては珍しくただ単純に単調にボールが行き交う。私がコート横のベンチに腰掛けても、二人ともこちらには一瞥もくれない。
 ポーン、ポーンと緩い音が響いているがそのフォームは相変わらず惚れ惚れするほど美しかった。そして何より、楽しそうな表情を浮かべている。ついついテニスに嫉妬しそうになるほどに。
 ああいう顔は学生時代から何度も見ているのに、見るたび「ああ、この人のことが好きだなぁ」と思わされてしまう。ただでさえ魅力的な彼が更に輝く瞬間を間近で見られるなんて、なんて贅沢な時間だろう。
 思えば最近は、何かに追われるように時間を消費してばかりで一息つく暇がまるで無かった。もしかしたら跡部は、せかせかと空回りしている私を見かねて、こうして立ち止まる時間を用意してくれたのかもしれない。
 楽しそうな二人をぼうっと眺めているうちに、穏やかな陽気に誘われ急に眠気に襲われた。変わらず鳴り続ける心地良いインパクト音は子守唄さながら。抗う間もなく、深く息を吸うと同時にするりと瞼が落ち、やがて何も聞こえなくなった。

§

 波が引くようにゆるやかな目覚めを迎えたとき、身体はプラスチックのベンチではなくベッドの上にあった。かすかに揺れるレースカーテンの向こう側は夜と呼ぶには早く、まだぼんやりと明るさが残る。何十時間と眠りこけていたわけでもないのに、頭がずいぶんスッキリと軽くなった気分だった。
 バルコニーへ繋がる窓際では簡素なウッドチェアに腰掛けた跡部が手元に視線を落としている。彫刻のように整った横顔をしばらく盗み見していると、彼は持っていた本をパタンと閉じてこちらに視線を寄越した。栞も挟まないあたり、私が読み漁っている若手社会人向けの啓発本など彼には退屈で熟読には値しなかったらしい。

「もう起きたのか」
「うん、よく眠れたよ」

 ひがむ気など毛頭ないが社会人としての出来の違いは顕著に感じられる。仕方のない事実に苦笑いしつつ、ようやく上体を起こした。上等なベッドは軋みもしない。通りで寝心地が良かったわけだ。

「樺地くんがここまで運んでくれたの?」
「何が嬉しくて恋人を他のヤツに触らせるんだ。俺様が運んだに決まってんだろ」

 恥ずかしげもなくストレートに想いを伝えてくれるのは今に始まったことではないけれど、久々のやり取りなのでちょっとむず痒かった。

「……貴重な機会なのに寝てたのが悔やまれるよ。勿体無いことしたなぁ」
「抱えるくらい今からでもやってやろうか」

 冗談だと分かっているだろうに、すぐ側までやってきた彼は私の背中と膝裏に手を回そうとする。無駄なく鍛えられた腕をやんわりと押し留めた。

「やだな、今のは照れ隠しだよ。運んでくれてありがとう」
「フン、どういたしまして」

 首を横に振って提案を固辞すると、跡部は口角を上げる。そしてそのままベッドのふちに腰を下ろし、目元までかかっていた私の前髪を払う。細く長い指が丁寧に額をなぞっていくのがこそばゆかった。

「顔色もだいぶ良くなったな」

 異国を思わせる青い瞳に覗き込まれ、そのやさしい輝きを浴びながら、眠りに落ちる前に考えていたことがあながち間違いではなかったと思わされる。

「心配かけてごめんね。気にかけてくれてありがとう」

 しかし、跡部は一瞬の間を置いて私の思考を否定した。

「…………特に心配はしてねえ」
「いや、しろよ」

 肩透かしを食らった気分になり思わず勢いのまま突っ込んだが、それには取り合わず彼はマイペースに言葉を補う。

「空回りや遠回りはするが、いつも最後には目標達成まで自力で行き着くのを見てるからな。確かに、行き詰まってそうだと気にはしてたが取りたてて心配する必要もないと判断していた」
「……あのさ、もしかして私今褒められてる?」
「ああ」

 その頷きひとつで飛び上がるほど嬉しくなり、頭の中では歓喜のファンファーレが派手に響く。非の打ち所がないあの跡部が、私のことを信じて評価してくれている。正直言って、自分にとっては上司に褒められるより何倍も価値があり自信につながる事実だった。自然に背筋もピンと伸びるというもの。ついでにベッドの上で正座なんかしちゃったりして。

「ありがとう! 週明けからもっと仕事頑張れそう!」

 浮き足立ったまま彼の手を両手で握り、激しい握手よろしく上下に揺らす。何ならこのまま手を引いて二人で踊りだしても良いくらい。
しかし、勝手に盛り上がる私とはうらはらに跡部はニコリともしない。今度はこちらが青い宝石を覗き込む番だった。

「跡部?」
「……仕事を頑張るのは結構だ」

 うん、と素直に相槌を打つと、長い長いため息を吐かれた。

「だが、休日くらいは仕事じゃなくて俺の相手もしろ」
「そ、そんなこと言って跡部、今日は私を置いてテニスしに行ったじゃん」
「呼ばなくても見にくるだろ、お前は俺が好きなんだからな。それより、今朝無理やり迎えに行かなかったらあと何度約束を破る気だったか言ってみろ」

 ごもっともな正論に刺されぐうの音も出ない。あまりのばつの悪さに目を逸らすと、すかさず跡部に顎を掴まれる。マルガレーテでもこんな扱いを受けたことはないだろうに。でも、この件に関しては自分が悪い。

「それに関しては申し開きもございません。……ごめんね、これで許して」

 尻尾を振る代わりに身を乗り出し、形の良い唇に口付けた。わざとリップ音を立てて離れながら目を開けると、視線が絡み熱が弾ける。美しいブルーから不満の色はとうに消え去り、鈍感な私にも先の展開が読めた。

「足りねえな」

 笑った跡部が深いキスのついでに覆い被さってくるものだから、当然ベッドに逆戻りである。

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