まばたき一つで泣けてくる

 鍵はいつも通り音を立てて回ったが、ドアを開けると明るい玄関と何か美味しそうな匂いが私を迎え入れた。あいにく、ここ数週間食に気を使う余裕もなく、料理をしていないどころかまともにキッチンにも立ってない。だから、うちに竜次が来ていることは姿を見なくとも分かる。自分の帰りを誰かが待ってくれている状況は幸せの代名詞とも言えるはずなのに、最近の激務ですっかりささくれ立った私は現状を素直に喜ぶ余裕すらなかった。

「今日はこっちなんだ」

 鼻で笑うような、感じの悪い声になった。顔を合わせるなり、ただいまより先に口から滑り出たのは喧嘩腰の一言。竜次がポリアモリーであること、つまり他にも彼女がいるかもしれないことは全て納得した上で付き合っているのに。まったく子どもじみた酷い八つ当たりで、自分に嫌気がさす。
 ちぐはぐな感情を抱え胃を痛める私をよそに、礼儀正しい竜次は不機嫌をあらわにした。

「おい、帰って一言目がそれかよ。先に言うことがあんだろうが」

 彼の言うことが全て正しい。頭では分かっているのに、今の精神状態ではただの正論すらも素直に受け入れるのが難しく、「ごめん」の三文字すら喉に引っかかってスムーズに出てこない始末だった。

「……ただいま」
「おかえり。取り敢えず先に手洗ってこい」

 は? 言われなくても分かってるし。そう言い返しかけて、慌てて奥歯を噛み締めて止めた。
 悪意があるわけでもないちょっとした命令口調にも過剰に反応しそうになる。謝りそびれたままではあるが、また余計な火種を吐く前に逃げるようにして洗面所へ引っ込む。鏡越しに見た自分は思っていたよりも顔色が悪く不気味に写った。
 こんな姿見られたくなかったのに、なんで今日に限って連絡せずに来るかな……。罪のない竜次にため息の矛先が向き、次の瞬間にはまた自己嫌悪に襲われる。
 やっぱり今日は顔を合わせない方がお互い幸せだ。部屋に戻って再度相対する勇気すらなく、鏡の前にひたすら立ち尽くしていると、扉がノックされた。

「おい、大丈夫か? 開けるぞ」

 良いよなんて言ってないのにズカズカ入ってきたかと思うと、勢いよく流れている水を竜次はすぐさま止めた。一拍遅れて、自分がとっくに洗い終えていた手を延々と水で流し続けていたことに気づいた。ただでさえ冷えた空間で冷水を触り続けたせいか、手だけではなく頭のてっぺんから爪先までが雪の中に放り出されたみたいに冷え切っている。
 帰ってくるなり八つ当たりして、その上満足に手を洗うことすらできないなんて。私が自分にうんざりしているのだから、彼もさぞ呆れていることだろう。
 そう思うともう我慢できず、瞳を覆った水膜は瞬く間に決壊し、涙となってボロボロとこぼれ落ちていく。我ながら、お手本のような情緒不安定っぷり。

「今日、私なんか変だよね」

 涙を止めたい一心で目元を擦るのだが、竜次の暖かい手がそれを制した。触れ合ったお互いの指先は驚くほどの温度差で、まるで違う生き物のようだった。
 折角の熱を奪うのが申し訳なく、慌てて離れようと身を引くのだが相手はびくともしない。

「……今日は喧嘩になっちゃいそうだから、悪いけど帰って欲しい。頭冷やしたい」
「こんな状態で置いていけるかよ。それにもう十分すぎるほど冷えてるし」

 そういう意味じゃないよと言い返すつもりだったのに、竜次に抱きすくめられた私は力なく閉口した。

「だいぶ疲れてんのは見てすぐ分かったけどよ。腫れ物扱いすんのも逆効果かといつも通り接したんだが、追い詰めちまったな。悪い」

 弱り切った心にじわりじわりと細やかな優しさが染みる。あやすように背中をさすられながら、涙はとめどなく溢れ続けた。

§

 泣き腫らした目もそのままに、温かいうどんに口をつける。

「おいしい」
「そりゃ良かったな」

 独り言のように呟くと、竜次はテーブル越しに微笑んだ。
 ひとしきり泣いたことで精神的にも落ち着きを取り戻し張り詰めていた気持ちはほどけた。しかし、その一方身体の方はそう簡単に付いてこない。涙が落ち着いてなお胃は相変わらずシクシクと内側から鈍く痛み続ける。
 自分の生活を大事に出来なかったツケとして食事のサイクルもすっかり狂ってしまったためか、キッチンから漂う香りを嗅いでも食欲は復活しない。
 正直にそう伝えると、竜次は私を椅子までエスコートした後キッチンに戻り一切の曇りなくテキパキ動き回った。

「今日は何作ってくれてたの?」
「元々作ってた分は冷蔵庫に入れとくから、明日のお楽しみにしとけや。今日はこっちだ」

 ひどい鼻声で問いかけた私に差し出されたのは温かい月見うどん。ほんの少ししか待っていないのに、手際よく作ってくれたらしい。
 亀のようなスピードで食べ進める間、彼は私に「忙しくて飯はちゃんと食えよ」と説いたが、今日の癇癪の理由は聞かなかった。
 年は一歳しか違わないのに、心の余裕に差がありすぎる。だからこそ好きになったんだけど。自嘲とはまた違ったベクトルの苦笑いを浮かべると、「何笑ってんだし」と目ざとく嗜められた。
 時間をかけて器を空にし手を合わせれば、頷いた彼がそれを引き取って流しへ運ぶ。気の毒になるほど至れり尽くせりだ。
 手持ち無沙汰の私がシンクまで着いていくと、手を拭いた竜次は私の頬に手を添えた。

「なに?」
「少しは生気が戻ったな」
「竜次が甘やかしてくれたからだね」
「こんなの甘やかしのうちに入らねえだろ」

 これでまだまだだと言うのなら彼が本気を出した暁には、彼なしでは生きていけなくなりそうだ。気になるがある意味怖い。
 冗談とも本気ともつかない彼の考えにぽかんと口を開けて黙れば、彼は呆れ顔を浮かべた末、むにと私の頬を摘んだ。

「我慢強いのは長所なんだろうけど、もう少し頼れって言ってんだ」

 引き続き目を丸くしたまま、ひとまず頷き返す。私が我ながら頑固で可愛くないと思っている部分を、我慢強いとプラスに表現してくれた。
 冷静に考えれば、就活時期山ほど書いたエントリーシートの、長所短所の言い換えと大差ないただの言葉遊びだ。でも、たったそれだけのことなのに、彼がそう言ってくれたと思うと、少しだけ自分のことが好きになれる気がした。

「ま、無理しすぎんなよ」

 言い含めるようにおでこにキスを落とされる。ちくちくとした髭の感覚を痒がる間もなく離れた竜次は「いっぱいいっぱいになる前に俺を呼べや。好きなだけ甘えさせてやるし」なんて言って余裕たっぷりに笑う。
 幸せで胸がギュッと苦しいくらいだった。身体の内側からポカポカしてくるのを感じながら、勢いづけて目の前の恋人に抱きついた。

「じゃあ、今の業務が無事終わったら目一杯褒めて欲しいな」

 体当たりレベルの私の勢いを軽々と受け止めるところにも大好きが溢れそう。ぐりぐりと頭を押し付けるように腕の力を強めると、彼が優しく髪を撫でた。

「今でも十分よく頑張ってるし」
「ま、また泣いちゃうからまだ褒めないで!」

 既に返事はほぼ涙声。まだ枯れていなかった涙を引っ込めようと反射的に天を仰いだ私を見下ろし、竜次は満足そうに笑う。俺の前でくらい、我慢せずに泣けば良いだろ、と。

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