七海先輩に髪を切ってもらう

(※高専生時空)

 後輩が先輩術師に投げ飛ばされている。組み手というよりは苛めと呼んだ方がしっくり来る一方的な光景だった。呪術高専生にとっては業界の繁忙期が落ち着く頃の、つまり夏の風物詩でもある。
 ぎらぎらと太陽の照りつける中、木陰で傍観に徹している七海の隣にボロボロの後輩が腰を下ろした。既に先輩たちに可愛がられた後なのだ。戦績の程は聞かずとも分かっている。

「ねえ七海先輩、髪の毛邪魔になりません?」

 ポンポン投げられる別の後輩を黙って見ていると、不意にそう問いかけられた。脈絡のないうえ、不穏な話題提起だ。

「……新手の脅しですか?」
「いや、別に羅生門のババアやろうってんじゃないですよ。先輩、いつにも増して前髪が長くなってるなって思いまして」

 彼女は笑って、自分の黒い前髪を摘んだ。艶めく黒髪に触れる指先は健康的な小麦色をしている。
 日に当たってもひりひりと赤くなるだけの七海と違い、彼女の素肌は夏らしく黒く焼けていて、半袖の隙間からくっきり残る日焼けの境界があった。
 日々鍛錬を積んでいるのだろう。殊勝なことだ。七海は目を逸らした。

「問題ありませんが……そうですね。少し長くなりすぎていますし、近いうち整えます」
「私がやってあげましょうか」
「結構です。自分でやります」
「えっ、七海先輩って髪の毛自分で切れる人ですか?」
「前髪を少し整える程度ならできますよ」

 日陰がじわりと移動して、いつの間にか半身に日光を受けている。もう一度陰に入り直すと、少し近くなった後輩が「ついでに私の髪も切ってください」と目を輝かせた。ああ、面倒くさいことになった。額を手で覆ったが、もう遅かった。

§

 彼女は躊躇いもせず七海の殺風景な部屋に入ってきた。無防備にも程があるだろう。しかし、男の部屋に簡単に上がるなと自分が説くと何か意味を持ちそうで、切り出せなかった。
 窓を開けていても部屋の中は風通りが悪く、暑い。何もしていなくとも肌はじっとり汗ばんでいた。居心地の悪い夜だ。しかし後輩は、不快な思いなど何もないと言わんばかりに浮かれた様子だった。
 百均で買ったのだという安っぽい派手色のケープを被った彼女を椅子に座らせた。床には新聞紙を敷いている。

「後になって文句を言わないでくださいよ」
「言いませんよ。自分でやるよりは絶対マシになりますもん」

 そう言われて思い出すのは、数ヶ月前、前髪を一直線にしていた彼女の姿だった。あまりにも堂々としていたため、男には分かり得ないオシャレなのかと思ったものだが、違ったらしい。確かに、あれよりは器用にこなせる自信がある。

「目は閉じていてください」

 刃物を持った七海を前にして、後輩は何の迷いも緊張もなく瞼を下ろした。それ合図に、その黒髪へ縦にハサミを入れる。じゃき、と音を立てて粉のようなサイズの髪の破片が落ちていった。指で軽く髪を梳くと、細くて軽やかな黒が水のように指先を流れていった。
 切り落とすのを勿体なく思うほど、手入れされた綺麗な髪だった。これを、ただの先輩である自分に触らせて良いのか。
 あの歌うような声で、信頼していますよと囁かれている思いがした。妙な緊張で力が入る。
 額に指がぶつかる度彼女の長いまつ毛が震えた。不意の衝撃に驚いているというよりは、痛み覚えているような反応に見えた。ハサミや爪でどこか傷付けてしまっただろうか。
 いまだ長く、目元までを覆っている前髪をより分け確認すると額には長い切り傷が走っている。原因はこれか。任務で出来たものか、訓練で出来たものかは分からないが、こんな学校にいなければ出来なかったであろう痕だった。
 何故、アナタは呪術高専なんかに。そう問いかけようとしている自分に気づき、七海は息をとめる。深入りなんてするもんじゃない。
 黙って手を動かし、室内にはしばらく小さなハサミの音だけが響き続けた。

「終わりましたよ」

 ぱちりと目を開けた後輩は、七海がハサミについた髪を落としている間に、持参した鏡を覗き込んでいた。大袈裟に感嘆の声が上がる。

「七海先輩すごいですね!美容院で切ったみたいです」
「言い過ぎでしょう。切った髪が付いていますから、顔を洗ってきては?」
「そうします。ケープが暑くて喉渇いたんで、自販機にも寄ってきます」
「別に報告しなくて結構ですよ」
「お礼に何か買ってきます。先輩、何がいいですか? あ、片づけは私がやりますから先輩は休んでいてください」

 もう用は済んだというのに男の部屋に戻ってくる気なのか。無防備にも程があるだろう。そう呆れたはずなのに、ややあって七海の口からは「甘くないやつで」とオーダーが出た。
 お任せくださいと笑った彼女のまるい額はもう見えなくなっている。あれは、本人と七海だけが知っている秘密となった。
 子どもだろうが何だろうが、容赦なく人が死ぬ世界を征くにおいて、一人に深入りなんてするもんじゃない。けれども、再び戸を叩くであろう彼女へ、その傷はどうしたんですかと問うくらいは、許されるだろうか。

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