祝福の浜、喝采の海


“死は万人の終着ですが、同じ死は存在しない”

 扉の向こうから漏れ聞こえてきた内容にはたと動きを止めた。日々粛々と任務をこなす彼が生死にまつわる自分自身の信条を語るのは珍しい出来事だった。灰原を喪って以降、お互いにそういう話を避けていたから余計に。
 雨上がりの薄雲がかった夜空を見上げ、心の中で今の言葉を反芻する。例えば私たちが同時に死んだとして、それもやはり同じ死にはなり得ないだろうか。そう訊ねたら彼はどんな顔をするだろう。真っ先に思い浮かぶのはやはりいつものしかめ面だった。
 別に、私と同期の七海は仲が悪いわけではない。むしろ親密な関係を築けている自負がある。とは言え一度この業界に背を向けた彼があの時何を思っていたのかは今のところ聞けずじまいだ。復帰した理由についても彼は「同じクソならより適性のある方を」としか答えず、こちらとしてもどこまで踏み込んで良いものかと頭を悩ませたりもする。
 他人の腹の内が読めるわけがないことは職業柄よく分かっているのに、こと七海に関しては今のように向こうの考えを勝手に推し測って遠慮してしまう。灰原が生きていたら、馬鹿だなあ、気にしすぎだよと歯を見せて大きく笑うだろう。

 ぬるく湿った風が、ついさっき家入さんに治してもらったばかりの肌を舐めていった。暦上秋が始まっているとは思えない不快感に自分の二の腕を抱いた。呪霊の指先に撫でられるだけで容易く裂けてしまう人皮の下では、今回の任務のせいで減ってしまった血が急いで脈をうつのが分かった。広い霊安室があるだけの建物に背を預け、今日も死ななくて良かったなと今更ながら痛感した。
 都心の方では中々聞く機会もない虫の音に耳を傾けて深呼吸を二、三しているうちに室内で人の気配が動き、すぐに扉が開いた。やましい事を包み隠すように建てられた死臭の漂う部屋から出てきた七海は、見ていて清々しくなるほど綺麗に背筋を伸ばしていた。けれども、家を出た際にきっちり着ていたはずの上着もなければ、あの独特なデザインのネクタイもない。
 家入さんを通じて、かなり厄介な案件に当たり怪我を負ったとは聞いていたが一級の彼がここまで消耗している様子だとは思わなかった。想像以上に擦り減っている七海がこちらに気づき、深い海の色をした瞳に私を映した。出待ちをしていたことにも気付いていなかったらしく、眉毛が微かに跳ねた。何をしているんですかと口を開いていなくても声が聞こえてきそうだ。
 私は「大丈夫?」と深刻な声をかけそうになるのをぐっと抑え、わざと軽い口調で踏み出した。

「お疲れ。七海、いつから先生になったの?」
「なっていません。盗み聞きとは趣味が悪い」
「やだなぁ、聞いたんじゃなくて聞こえたんだよ」

 肩をすくめ笑ってみせると、彼は眉根を寄せる。二十代後半にして眉間に跡ができ始めていることに気付いているのは恐らく今のところ私だけだ。指摘すると二割は貴女のせいです、などと言われかねないため黙っている。ちなみに、私の見立てでは残りの三割が残業で五割が五条さんのせいだと思う。

「屁理屈は結構」

 へらへらとした態度で小言を切り抜ける私へ溜め息を贈った七海がそのまま歩き出したのでそれに倣った。砂利を踏みしめる革靴は砂埃で白く汚れている。続く私の足元には血と泥が撥ねた跡がこれでもかと残っている。それを見ると懐かしさと虚しさがないまぜになった心地になる。
 一つ上の先輩たちに追い付けもしない私たちは、学生の頃から泥臭く足掻いているのだ。本当は、ここにもうひとり肩を並べて歩く人物がいても良かったはずなのに。なんて、馬鹿なことを考えたくなるセンチメンタルな夜だった。

 歩きやすい石畳にたどり着いたところで歩調を早め彼の隣に陣取る。無言で横顔を見上げると、当たり前に目が合った。例え機嫌が悪くとも仲違いしていようとも、こちらが見上げれば必ず視線を返してくれる律儀なところが昔から好きだ。
 指先を死のへりに掠めた今日なら一歩踏み込める気がして、一つ質問を口にした。

「ね、“同じ死は存在しない”って、死ぬ瞬間の話?それとも、死後の話?」
「両方ですよ」

 一瞬の隙もない即答に、先ほどの会話の文脈としては前者の意味合いですがと懇切丁寧に付け加えられた。
 呪術師には様々なタイプがいるけれど、この件に関しては七海と同様の意見を持っている人間が多いだろう。日常と死が近いだけあってそれに対する思考はシビアになりがち。しかし私は、もう少しこの世に夢を見たい。

「それは残念だなあ」
「どういう意味ですか」

 七海の歩調が緩む。それを見て、今日の自分の歩みが遅く弱々しいことを知った。本日の任務で自分の見立てより多くの血を流してしまっているようだ。準一級案件でこのザマとは情けない。いつかきっと、仕事中に死ぬんだろうなという縁起でもない確信が心の隅にある。思わず自嘲の笑みが漏れた。

「術師ってたぶん一人きりで死ぬでしょう? だからせめて、あの世では七海と一緒にいたいと思ってたんだけどな」

 石畳を蹴る音が止む。人の気配を感じ取ったのか、鈴虫か何かの声すらも止んだ。
 静寂の中、ポーカーフェイスの奥で微かに火花が爆ぜる。

「……こういう話、嫌だった?」
「いえ……。貴女が死生観を語るのが珍しかったので少し面食らっただけです」
「それならもう少し話をしても良い?」
「どうぞお好きに」

 盗み聞きをした私と似たような感想を述べた七海が再度歩き出す。ゆっくり、気遣うように、二人の足音が重なった。
 昔は、こうやって気を使われるのが悔しくて嫌いだったことを思い出す。脚の長さの違い一つで二人の同期より全てが劣っている気分になったものだ。そんな些細なことでイライラする暇があったならもっと日々を噛み締めていれば良かった。
 せめて同じ轍を踏まないように、今日はたくさん話をしよう。

「七海にとっての“あの世”はどんなところ?」
「縁起でもないこと考えませんよ」
「会話終わっちゃったじゃん」
「話をしても良いかとしか聞かれていませんから。貴女の話をしてください」

 境内と呼んで差し支えなく、ともすれば緊張感のあった帰路の視界は開け始め、遠目に校門が見えてきていた。疲労困憊の七海は送迎用の車を呼ぶ素振りも見せず、このまま歩いて帰るつもりのようだ。
 つまり、私の話にちゃんと付き合ってくれるらしい。先の言葉は突き放しているように見えて、言外に話を聞くという意味か。大した内容とも思わないけれどお望みならば仕方あるまい。

「私? そうだな、私は結構死ぬ時のこととか死後の世界とか考えるよ。信仰というよりは妄想って感じで、自由なやつね。例えば、死んだ時行く場所は海辺がいいなあ……とか。日本っていうよりは年中あったかい南国かな。砂浜も綺麗でさ。私は今みたいな黒ずくめの格好じゃなくて、防御力の低そうなペラペラのワンピース着て、打ち寄せる波間を歩く」

 波を蹴る仕草をしてみせると、思った以上に足が上がらずローヒールがアスファルトを擦った。ザリ、という都会的な音のせいで想像の海辺はすぐに霧散する。残念。
 七海にも私の妄想の片鱗くらいは掴めただろうか。そう思って見上げると、呆れ顔がこちらを見下ろしていた。訳がわからないというよりは少し想像してしまってバツが悪い、みたいな雰囲気。

「随分具体的ですね」
「あはは、こんな仕事してんだから楽しいことくらい考えさせてよ」
「……死を美化するもんじゃない」

 彼が途端に声を鋭くし、私をチクリと諭す。お互い何人も同僚を亡くしてきているのだから当然の反応だ。嫌な記憶に爪を立ててしまったのなら申し訳ないと思う反面、自分の思考がけして後ろ向きではないことも知っておいて欲しくて言葉を繋ぐ。

「まあそう言わずに! 別に死にたいわけじゃないよ。でも、頑張って頑張ってもう無理だって崩れ落ちた末にたどり着ける綺麗な彼岸で、灰原が「お疲れ様」って笑って手を広げてハグ待ちしてたらさあ、もう最高だと思わない? 灰原に迎えられたら、ああ頑張ったよなあって自己肯定できそうだし」
「相変わらず灰原が好きですね」

 飾り気のない言葉の端に、わずかな燻り。流石にそれは予想外で笑みが溢れた。

「当たり前じゃん。たった三人の同期なんだから。もちろん七海のことも好きだよ」
「そうですか」

 ニマニマと笑う私を一瞥し、七海は前方へ視線を戻す。多分、失敗したと思っているんだろう。私としては嬉しい事この上ないのだが、その辺は異性には分からない部分なのかもしれない。

「そこは「私も好きです」って言うところだと思うけどな」
「職場でプライベートの話はしません」
「真面目〜」
「駄々を捏ねてないでさっさと帰りますよ」

 軽くつついてみてもポーカーフェイスを取り戻した彼は歯牙にも掛けない。
 雲が流れ、露わになった月がほんのりと夜を明るくした。誕生日にあげた腕時計は、無傷のまま彼の手首で月光を反射する。
 何か食べたり休養をとったわけでもないのに、七海と合流した瞬間より随分とまともな足取りになってきた。病は気から、なんて時代錯誤な根性論も馬鹿にできない。
 話をしたのは私ばかりだったが、自分のことをより深く知ってもらえたのならば今までためらい続けていた一歩を縮められたのと同義だろう。勢い任せに踏み込んだ距離は、私が浮かれるには十分過ぎるほどだった。

「手繋いでもいい?」
「……職場を出てからにしてください」
「はーい」

 どうせ帰る家は同じなのだから、急ぐ必要もない。
 校門まではもう5メートルも残っていなかったけれど、上機嫌の私はそれを律儀に待って彼に手を伸ばした。

 七海も、死後の世界に拘りがないなら海辺を想ってね。もし私の方が先だったら、灰原と待ってるからね。

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