夏の匂いのする背中
朝晩はだいぶ冷え込むようになってきた。布団をもう一枚増やすか悩んでいる私は、最近朝方寒さで普段より少し早く目が覚める。
だから、この時期はいつもより遠回りをして学校に行く。道すがらには日の光を反射する海が見えた。ずっと向こうの方から押し寄せる波は穏やかだった。もう冬の匂いがし始めている。すんと鼻を鳴らすと同時に、肩を叩かれた。
「久しぶりじゃのう」
「毎日学校で会うじゃん。おはよう」
「おはようさん。学校じゃあ別に喋らんし」
「それは確かに」
軽く頷く私の横を、仁王が歩く。身長も脚の長さも違うのに進むスピードは同じ。私は何も言ってないのに、歩調はいつも向こうが合わせてくれる。
登校にはいささか早いこの時間帯、ここを通ると私は必ず仁王と鉢合わせた。強豪テニス部のレギュラーはストイックだから、朝練が当たり前らしい。寝具の入れ替えに迷い目覚めが早くなる冬の始まり。期間限定で、私たちはお互いの話し相手となる。
「まだ部活とは精が出るね」
歩くたび仁王のラケットバッグが重そうに軋む。夏の間に、テニス部の全国大会は終わった。結果は準優勝。全国三連覇ならず、だそうだ。準優勝なんて大したもんだなぁと私みたいなのは感心するのだけれど、当の本人たちは本当に悔しそうにしていた。それほど今まで努力を重ねてきたんだろうなとも思う。
普通ならば最後の大会が終わったのだから、3年生は受験モードに入る。しかし、立海大附属はエスカレーター式。成績が地を這うようなものでない限りは部活を続けることが許可されていた。仁王も例に漏れずテニスに勤しんでいるようだ。きっとテニスが大好きなんだろう。
「部活っちゅうか、男テニレギュラーは今日から合宿ぜよ」
「合宿? えっ、学校は?」
「俺もよう分からんけど、向こうでも授業はちょっとはあるらしい。で、学校には課題を出せばええ、と」
「へえ、もうアレだね。スポーツ特待生みたいな感じ」
「大げさな……」
仁王は苦笑いを浮かべ肩をすくめた。いつもの人を翻弄するような雰囲気はなりを潜め、陰が差している。遠くを見つめたまま、「俺、最後の試合で勝てとらんし」と言葉が続いた。ほとんど独り言だ。
「あぁ、そっか。じゃあ、次は勝てるといいね」
「……は?」
「だから、次の試合。リベンジして勝ったらモヤモヤしなくて良いじゃん」
「……次か」
「あ。ごめん、これ無神経だった……? スポーツとは無縁だから簡単に言っちゃった。気に障ったならごめん」
「いや、ミョウジはすごいのう」
仁王は猫のように目を細めて息を吐いた。「すごい」の意味を図りかねている私は首をかしげたが、彼の中でこの話題は終着したらしい。普段のような食えない表情に戻った。
「バスが来とる。じゃあ、俺は行くけぇ」
「うん、頑張ってね」
「おん」
正門をくぐったところで別れた。軽く手を挙げた彼は、軽い足取りでマイクロバスへ乗り込んでいった。
§
仁王雅治とはそう簡単に連絡が取れない。というのが、同級生の間の共通認識だ。気ままな人だから、仕方ないよねって暗黙のルールが容認される。仁王ってのは、“そういう”ヤツのはずなのだけれど。
『怪我した、暇』
気の抜けるような音と、送られてきたメッセージのせいで、危うく携帯を落とすところだった。えっ、急に何? と混乱したのもつかの間、続けて受信した画像では、彼の白い腕にさらに白い包帯が丁寧に巻かれていた。怪我ともスポーツとも接点のない私ではあるが、これが良いことでないというのは分かる。そして、仁王はテニスのことが大好きだということも、知っている。
気がつくと、通話ボタンを押していた。
しばらくコール音を聞いていると、少しずつ冷静になってくる。そもそも病院にいるであろう患者に電話って……。それに私、電話って顔が見えないから得意じゃないし。言い訳をつらつら並べてため息をひとつ。通話を切った。しかし、今のは間違いだから気にしないでとメッセージを打ち込んでいると今度は向こうから電話が来た。ビックリした拍子に指が通話を開始してしまう。
「もしもし、」
「あの! 腕、大丈夫?!」
慌てた末の食い気味な大声に、電話口は沈黙。電話の向こう側でやかましいスマホから耳を離す仁王の様子がありありと目に浮かぶ。額に手を当てながら私は言葉を探す。
「ご、ごめん。写真見てビックリしたから、つい……」
「あ、ああ。まあ、大丈夫じゃ。リハビリは必要らしいけどな」
普段よりずっと近い位置から聞こえた声は、やや戸惑っていた。ペテン師を振り回すなんて、ある意味私はすごいかもしれない。自分への失望にため息が溢れる。それを聞いて勘違いしたらしい仁王が「急にすまんかったな」としおらしく応えた。
「いまのはコッチの話だから気にしないで。それより、腕、どうしてそんなことに?」
「試合に勝つためぜよ」
間髪入れずに仁王が返事をした。その解答を聞いて思い出すのは、数週間前のあの朝だ。次は勝てるといいね、なんて私の考え無しの言葉が影響を与えてしまったのだろうか?だとしたら、とんでもないことだ。怪我は癖になるとも聞いたことがあるし、彼の腕の異常はけして“無かった”ことにはできないはずだ。
「もしかして、」
「おまんのせいじゃなか」
「……」
「自分の意地を通した結果ぜよ」
仁王は容易く私の言葉を遮った。まだ何も言っていないのに、彼の頭にもあの朝が浮かんでいる。すぐに思い出せるあたり、ペテン師が優しい嘘をついている可能性も十分に考えられるが、それをわざわざ掘り下げるのは野暮だろう。
「そ、れなら良いんだけど」
「おん」
「……あのさ、勝てるといいねとか言った手前なんだけど、身体は大事にしなよね。いくら勝てても、こういうことが続くと大好きなテニスできなくなっちゃうだろうし」
「……大好き? そんなこと言うたか?」
「言ってないけど、見てたら分かるよ」
一瞬間をおいて、仁王は私の台詞を反芻した。
「見てたら分かる、か」
「うん、仁王は分かりやすいし」
「分かりやすい! 俺が!」
耐えかねたと言わんばかりの大きな笑い声が響く。普段の仁王からは想像もつかない声だった。電話の向こうで彼がどんな顔をしているのか気になって仕方がない。“分かりやすい”と言ったばかりだが、まだまだ彼は謎だらけだ。テニスに関すること以外となると彼の考えていることを推し量るのは困難を極める。
「そんなに笑うことある?!」
「いやー、すまんすまん。そがなこと言われたんは初めてやったけ、つい」
そう言いながらもくつくつ笑い続ける仁王に抗議を送ると、彼は深呼吸するように長く息を吐いた。
「そう怒りんしゃんな」
「怒ってはないけど……」
「そりゃ良かった。じゃあ、そろそろリハビリの時間やけ行くわ」
「うん、無理せず頑張ってね」
「おん。また暇やったら電話してくれ。おまんと話すんは楽しいき」
え、と面食らっているうちに電話は切れた。ちょっとドキッとさせられたのが何となく悔しくて、言葉にならない唸り声が漏れる。まぁでも。最近は登校も一人でつまらないし、たまになら電話をしてやってもいいかな。なんて、お手軽な私は思うのだった。
§
「仁王!こんなとこにいたのかよ!」
仁王が通話を終えてすぐ、屋上の入り口から丸井が顔を覗かせた。無傷の方の腕をゆるゆると挙げて応えると、丸井は仁王のそばまでやって来た。甘い匂いがする。お見舞いと称して自分が食べたい菓子でも持ってきたのだろう。
「看護師さんが探してたぜ。リハビリの時間だってよ」
「おん」
「あんま看護師さんたち困らせんなよな、不良患者クン」
「そこまで悪いことはしとらんぜよ」
「どの口が言うんだか……。てかお前それ、」
「ん?」
丸井は仁王の手元を見つめる。細い指の間で画面は時間を示しているが、その背景が意外だった。海の方を向く女の子の後ろ姿だ。画面に収まっていないものの、光源の位置が低い。朝の時間の写真だろうか。
「待ち受け誰? うちの学校の女子?」
「内緒じゃ」
「えーっ、まさかお前彼女出来たわけ?」
「違うぜよ。まだ、な。……さ、大人しくリハビリに行くかのう」
今こいつ「まだ」って言ったぞ……。
スリッパの踵を擦りながら歩く仁王の背を追いつつ、丸井は誰か分からない写真の主にお気の毒様と苦笑いを零した。
tittle by 約30の嘘