夜色
「ぎーんちゃん、生きてる?」
アパートの前のゴミ捨て場で、ゴミに埋もれるようにして倒れている血濡れた男の背中をつついてみたものの返事はない。かろうじて呼吸はあったので、ただの屍ではなさそうだ。
万事屋と名乗り何でも屋を営む銀ちゃんは、腕っ節にも自信があるからか、単に困っている人を放っておけないお人好しだからか、こうしてアブナイ依頼を受けることがある。そして、今みたいにボロボロになってはここに倒れ込んでいる。何度か介抱したことがあるので、味をしめてここまで来てしまうのだろう。
路地裏からアパート前まで点々と続く血の道はもはや下手な怪談話より恐ろしい絵面。ここじゃなくて病院へ足を向ければいいのに。そう思いながらも結局、自分より一回り以上大きい男を気合いで部屋まで運び入れる私は、なかなか粋狂な人間である。
近所のお医者さんに銀ちゃんを診て欲しいと無理に頼み込んで、ようやく一息つけた。人の布団でイビキもかかずただひたすら眠りこける男の頭や体にはぐるぐると包帯が巻かれていた。
「危ないお仕事は断ればいいのに」
当人の性格と良く似てねじ曲がっている銀糸をくるりと回してみても、返ってくるのは寝息ばかり。毎度毎度、好きな人がボロ雑巾みたいに転がってるのを見て、私がどれだけびっくりしてるかも知らずにいい気なものだ。
「まあでも、独りのおうちに帰ったり、どっかで野垂れ死んだりするよりかは、こうして私を頼ってきてくれてるだけマシなのかな……」
日に日に増える桜の蕾とともに草木の匂いが濃くなり始めた春先の夜半、空気はまだ冷えるものの銀ちゃんの隣に潜り込む勇気を持たない私は、冬物のコートを引っ掛けて空いたスペースに寝転がったのだった。
その後、銀ちゃんは丸々二日間寝こけて、私が軽く風邪を引き始めた頃に、そのくしゃみの音で目を覚ました。
ごそごそと動く気配があったので起きて電気をつける。眠りについたのはつい2時間ほど前だったので、寝不足で頭がくらくらするし、蛍光灯がまぶしい。でも、銀ちゃんと久しぶりに目が合うのは嬉しかった。見たところ顔色も悪くない。
「なんでお前がここにいんの」
「銀ちゃんおはよう。ここ、私のうちだよ。またゴミ捨て場に血だらけで倒れてたんだよ。覚えてない?」
「あー……あー、なんとなく思い出した。世話ァかけたな」
「ううん、拾ったからには責任持って面倒見なさいってお母さんに教わってるから」
「俺は犬猫かなにかか?」
頭にも血が流れるほどの怪我をしていた割に、受け答えはしっかりしているようだった。ようやく開いた目は死んだ魚みたいだが、これはデフォルトなので大丈夫だろう。こうして銀ちゃんを拾うたびに思うが、本当に頑丈な人だ。私なんてふた晩ですっかり風邪っぴきだというのに。
「いやあ、今回も命があって良かったねぇ……へっくしゅ」
「オイオイ、ちゃんと布団で寝なさいってお母さん言ったでしょうが!」
「いや銀ちゃん私のお母さんじゃ、わっ、ちょ、ちょっと!」
にゅっと伸びた腕に引き寄せられ、気付けば私は布団の中にいた。びっくりして視線を巡らすと、銀ちゃんは既にまぶたを下ろしていて、なるほどこれは寝ぼけてるなと、私は頭を抱えるほかない。
二人でぎゅうぎゅうの布団の中はぬくいどころか、触れているお互いの境界があついくらいだった。春を跳び越えて一人だけ夏を先取りしている気分だ。
「銀ちゃーん?」
もちろん返事はなく、腰のあたりに回っている腕が退く様子もない。力づくで引っぺがそうと努めてみたが、触れた小指に歪な凹凸を認めたので申し訳なくなり止めた。電気だってつけっぱなし、しかもこんな状態で寝られるわけない。銀ちゃんは女心ってのが何ひとつ分かっちゃいない。
そうぶすくれる私だったが、とくとく聞こえる心音を聞いているうちになんだか安心してしまって気付けば眠りに落ちていた。まったくもう、今回も生きてて良かったねぇ。
あの後しばらくして、万事屋には従業員が二人も増えたらしい。桜の花が咲く頃に現れ、散る頃に住み着いたのは眼鏡の男の子と中華風の可愛い女の子で、それ以来銀ちゃんがうちの前で死にかけてることはなくなった。
とはいえ、怪我をしているのはしょっちゅう見かけるので、彼の寄る瀬が私から移り変わったのだろうと思う。
寂しさもあるけれど、相変わらず居酒屋で顔を合わせたり、街で出くわした時に立ち話をすることはあるし、別に不仲になったわけでもない。だから、銀ちゃんにも新しく心休まる居場所ができたんだなと納得している。
ただ、部屋の窓からよく見える桜を、銀ちゃんと一緒に見る機会がなくなってしまったのは少し残念だけど。
§
「ぎーんちゃん、生きてる?」
銀ちゃんは器用にもゲロで返事をした。
日中の暑さにはひまわりすら首を傾げる真夏、江戸は熱帯夜にうなされていた。窓から入ってくる風さえもぬるく、世界はじっとり汗ばむ。
あまりの寝苦しさに身体を二転三転させていると、外からドサリと重い物を落としたような音がした。まさかと様子を見にきてみれば、案の定だらしない酔っ払いが落ちていたという次第であった。
「おーい、ここは銀ちゃんのおうちじゃありませんよ」
「ああ? この町じゃあ俺のいる場所が俺の家になんだよ。ったく、そんなのも分かんねえのか。世の中には段ボールを持ち歩いてそこを家にしてる侍もいるんだからな」
「ふーん、じゃあ銀ちゃんはゴミ捨て場に住んでるんだね。お邪魔しました、おやすみなさい」
「うそうそうそ! 今の嘘! だから介抱してくださ……ヴッ吐きそ……」
口元をおさえ青い顔の銀ちゃんが涙目で頼み込んでくる。捨てられた犬猫と例えるには可愛げのない顔だけど、私は今日も今日とてこのどうしようもない天パを拾ってしまうのだ。
「介抱して」と言っていたくせに、トイレでもう一度吐き切ると銀ちゃんはかなりいつも通りになった。汗をかいただのゴミ捨て場の臭いがして耐えられないだの言って勝手に洗濯機を回し、風呂に入り、パンツ一丁で人の冷蔵庫を漁っている。ダメ人間の見本市みたいで呆れてしまう。
「洗濯が終わったらおうちに帰りなよ」
「なに、お前銀さんの裸見て恥ずかしがってんの?」
「今まで散々包帯取り替えたりしてたの誰だと思ってるわけ? 今更恥ずかしいもクソもありませーん」
「ふーん、じゃあ別に泊まったって良いだろ」
そう相槌を打った銀ちゃんは冷蔵庫で見つけた安い缶チューハイを一本私に投げ寄越し、味違いの缶のプルタブを引いた。プシュッと鳴った気持ちの良い音を聞いただけで、少し夜が涼しくなった気がした。
「私は良いけど、お家で待ってる子がいるんでしょ?」
「ガキどもには今日は泊まってくるって言ってあるから構いやしねえよ」
「そうなんだ」
お酒をひとくち煽って手を止める。正面に座った銀ちゃんの身体には、古い傷跡が沢山あった。その中でも比較的新しい傷を、私は初めて見た。私の知らないところで出来て、知らないうちに治った傷。
全部を知りたいなんて重いことを言うつもりはないが、こうして知らなかった事実を突きつけられると、距離を感じて面白くない。
両手で持っていた缶が汗をかいて、滴が腕を伝う。ポトリと服に染みができたのを見とめ、日の落ちた月夜にも関わらずじりじりと焦げる胸を鬱陶しく思った。
「それじゃあ元々今日はどこに世話になる予定だったの?」
「ここだけど」
「えっ、なんで?」
「なんでってお前……覚えてねーの?」
疑うような目を向けられたが、心当たりはない。首を横に振ると銀ちゃんはこれみよがしに大きな大きなため息をついた。
「オメーこの前酔っ払って、銀ちゃんが家に来なくなって寂しい〜だの銀ちゃんを取られたみたいで悲しい〜だの言ってたじゃん。今年は花見もできなかったってわんわん泣いてよォ。コッチはあの後他の客に袋叩きにあって大変だったってのに」
「ええっ! 嘘だあ!」
「んなくだらねー嘘つくか!」
思いもしない話に思わず声を上げると、銀ちゃんも負けないくらいの声量で応える。おかげで隣から壁ドンを食らった。お互いに近寄って声を潜める。
「そんなこと言った?」
「あぁ言った言った。桜は散って花見にはもう間に合わねーけど、取り敢えず会いに行くから許してくれつって、お前をなだめすかして泣き止ませて……。はあ、なのに覚えてないだあ?」
「えへへ、酔って記憶なくして、記憶なくしてることさえ忘れてたのは生まれて初めてだな。てへ!」
「てへ! じゃねーんだよこのお騒がせ女が!!」
厚い手のひらがペチンと頭を叩いていった。明らかにイライラしている銀ちゃんは、すっかり温くなっているはずのチューハイを一気に飲み干して「不味い!」と吠える。ぐしゃりと潰れた缶から、滴が落ちた。
対して、私の手元もすっかり濡れそぼっていた。もっとも、これが結露のせいなのか、今の話を聞いて変な汗をかいてるせいなのかは定かではない。気温に変化はないはずなのに、背中にはホラー番組を見たときくらいの寒気を覚えていた。
よもやそんなことを本人に口走っていたなんて。素面では会話を続けられそうになかったし、いつの間にか口内はカラカラに乾いていたので、甘ったるいアルコールを無理やり流し込んだ。不味い。
口の端を拭いながら、言葉を選ぶ。
「まさか私の我が儘に付き合ってくれたとは……。振り回してごめんね?」
「まったくだ。大体、花見くらい普通に声掛けてくれりゃあ行くわ」
「普通に声かけるったって……迷惑じゃないかなとか考えちゃうんだもん」
言い淀むと、銀ちゃんはしまりのない口を開けたり閉じたりした後ガシガシと自分の頭をかき回した。湿っていてもなお四方へ跳ねていた威勢の良すぎる銀色が、よりいっそう乱れる。
言いたいことがありそうなので黙って待っていれば、私の手からまだわずかに中身の入っていた缶チューハイが抜かれていった。
その拍子に彼の小指に小さな傷を見た。アレは一昨年の秋口、私のストーカーを退治してくれた時に出来たものだ。自分が巻き込んで怪我をさせてしまった件なので良く覚えている。下手くそな応急措置をしたのも私。そのせいで傷が残り余計に目立つことになった。
まだ知り合ったばかりの頃私を庇って出来た、万事屋の新顔の子たちも事情を知らないであろう傷だ。じりじりと私をさいなむ感情も、元を辿ればここに行き着く。
素直じゃないけど、助けを求められると手を差し伸べてしまうお人好し。どれだけ嫉妬に焦がれようとも寂しさが積もろうとも、あの小さな傷がある限り銀ちゃんは私の大好きなひと。その事実は変わらない。
だからなにも寄る瀬の移ろいに落ち込む必要はなく、私は今まで通り、日常にきちんと戻ってくる銀ちゃんに「生きてて良かったねぇ」と笑いかければ良いのだろう。
そう思い至った頃、私の残したお酒を飲み干し、緩慢な動きで空き缶をテーブルに置いた銀ちゃんが振り向いた。礼を伝えようとしたが、口を開くより先に一瞬にして世界が回った。
「迷惑? まさか。呼ばれたら地這ってでも行ってやらァ。俺ァなんとも思ってねー女を布団に引きずり込むほど尻軽じゃあないんでね」
背中には何度も寝返りを打ったせいでぐちゃぐちゃになっていた布団。目の前にはちゃらんぽらんの、滅多に拝めない真面目くさった顔がある。
ピーッピーッと間抜けな音を立てて停止した洗濯機を気にするそぶりもなく、銀ちゃんの赤い目が私を見下ろしていた。
「逃げるんなら今のうちだぞ」
湿った手が私の手首を床に縫い付けているが、確かに力を込めれば簡単に動いた。甲高く鳴っている警告音は洗濯機の幻聴か、それとも私の賢い理性か。
ゴクリと唾を飲むと、緊張が部屋中に響いた気がした。酔っぱらいの私は花見だけではなくこんなことまで強請ったのだろうか。いいや、ここまでを求めて言葉にする経験値などはない。
呼吸すら忘れている私の返事を律儀に待つ様は忠犬の如き行儀の良さだが、その真っ直ぐな瞳は刃のように鈍くひかり、私の強張った顔を映している。息継ぎついでに伏せた視線の先、レースカーテンの向こうで桜の葉がやわく揺れた。
意を決して握っていた拳を開き力を抜くと、銀ちゃんの喉が上下した。乾かされていない髪から落ちた滴が、私の頬を滑る。
再び、目がかち合った。
「その……この状況、まんざらでもないって言ったら……?」
「……後で文句言うなよ」
ぐんと近づいてきた世界一好きな顔をこれ以上見ていられなくて、きつく目をつぶる。これは都合の良い私の夢で、目蓋を上げたら覚めるんじゃないかと思ったが、今を夢と言い張るには肌を伝う熱があまりにリアルだった。