私の素敵な人
1.縫わせてくれない人
立会人には怪我がつきものだ。だからみんな自然と、自分で怪我の処置を覚えていく。病院へ行くほどでもない場合には、大抵の人が本部の医務室でことを済ます傾向にあった。
中でも、弐拾八號立会人の弥鱈さんは医務室の利用頻度が高い。今も自分で腹部の傷を縫い合わせているし、私に向けられている背中にはとんでもない数の傷痕があった。銭湯とか出禁になりそうだなあ、と思う。
「弥鱈さんって、そんなんなのに、なんで立会人してるんですか?」
「はあ? 喧嘩売ってます?」
「え、違いますよ。怖いオーラ出さないでください」
「出してません」
ぷかりと漂ってきた唾風船を短い息で吹き割る。弥鱈さんは黙々と処置を続けていた。本当はあれも私の仕事なのだが、パーソナルスペースの広い彼は自分の手の届く範囲は全部自分でやりたがる。私は大抵、それを見ているだけ。
「弥鱈さんって怪我が多いから、戦闘は苦手なのかなと思って」
「つまり、私のことを弱いと思ってらっしゃるんですかぁ?」
「立会人だし弱いとまでは言いませんけど。でもなんか他の人より、」
──カラン
ステンレスのトレーへ道具を置いた音に、言葉の続きを遮られた。ただの暇つぶしの会話だったから特に言い直す必要性も感じない。お喋りは終わりにして丸椅子から立ち上がり、終わりました? と彼の元へ歩を進めた。
そのはずなのに、いつの間にか目の前に弥鱈さんがいた。私の頼りない首には、彼の片手がぐるりと回っている。少しでも力を込めたら気管がキュッと閉まるだろう。いいや、骨が折れる方が先かもしれない。
文字通り命に手をかけられている。そう思うと耳の奥で心臓の音がした。
「わ〜、ドキドキしますね。これが恋かなあ」
「馬鹿なんですか? ……貴女は張り合いがない」
弥鱈さんは吐き捨てるように言って、手を離した。
無意識に息が浅くなっていた私は、たっぷり空気を吸い込む。
「ふふ。弥鱈さん、普段もあんまり舐めプしちゃダメですよ」
「……どこまで本気なんだか」
予備のワイシャツを受け取り、彼は顔を顰めた。三白眼が鋭さを増す。
私は再び飛ばされた唾風船を目で追いながら、血の付着したガーゼ類を回収する。片付けは流石に私の仕事だ。赤い血が染み込んだそれらは痛々しい。血を見てるだけでも痛みを想像してしまう。なのに当の本人は涼しい顔。
シャツのボタンを止め、ジャケットに袖を通しかけた弥鱈さんは服に開いた穴を思い出したらしく再度腕を抜いた。血を流して少し呆けているのかもしれない。
そういうちょっとした気の緩みを見かける頻度は、多分私が一番多い。素直に可愛いなと思っているのは、今のところまだ内緒。
「少なくとも弥鱈さんにドキドキするのは本当ですよ。いつも会いに来てくれますからね」
黙って部屋を後にする弥鱈さんの背中へ笑いかければ、怪我の処置をしに来ているだけです、自惚れないでくださいと不機嫌な声が返ってきた。
無視せず返事をくれるところも好きですよと言ったら、今度こそ首を絞められるだろうか。
それも悪くないなと思う私は、たぶんきっと、今日も元気にイカれている。
2.聞き分けの悪い人
「それ、何です?」
弥鱈さんは、挨拶もなしに開口一番そう言った。視線は間違いなく私に注がれている。
「何ってテーピングですけど。なくなりそうだったので補充をしています」
答えながら、椅子を勧めた。
眉間にしわを寄せた彼は、今日も今日とて酷い有様だった。元々白かったはずのシャツには前衛的な赤黒い模様が出来上がっている。そのうえ、来た道には点々と血の跡が残る。
さらには鼻から口にかけて乱雑に血を拭った形跡が見てとれたので、また折れているのかもしれない。こう毎度負傷するのなら鼻が高いのも考えものだなと思う。
「鼻が折れてるならここより病院の方がいいと思いますよ。曲がったままになっても困るでしょうし。……いや、でもまたどうせ折れるんならもうどうでもいいんですかね? ふふ、もう四回目ですもんね」
そう笑えば、“言うことをちっとも聞かない”でお馴染みの弥鱈さんはキャスター付きの丸椅子を煩雑に蹴って退かし、私の腕を強く掴んだ。わあ、利き腕に怪我が無いようで良かったですねぇ。
「頭をどうしたのか聞いているんですけどぉ?」
掴まれた二の腕はギシギシと悲鳴を上げている。巡りの悪くなった血管がどくどく一定の間隔で大きく脈打ちエマージェンシーを告げた。血を欲した末端が変に汗をかき始める。
血塗れのわりに力が有り余りすぎだ。骨折のことを煽ったから仕返しに私の腕まで折る気だろうか? それってすごくゾクゾクしますね。
なんて素直に言って前回同様人の命を左右できる彼に見惚れても良かったのだけれど、同じ話を繰り返すのも能がない。大人しく質問に答えることにした。
「これですか? 私の処置が気に食わなかったらしい新人に吹っ飛ばされて角にぶつけちゃって。見事に頭が割れたんです。いやー、新入りと言えど立会人ってやはりお強いですね」
「はあ?」
掻い摘んで説明すれば、頭部の包帯へ向けられた目がさらに険しくなった。
一体何故弥鱈さんが苛立たしげなのかがよく分からない。
普段の私たちといえば、私が一方的に喋り、弥鱈さんが自分で自分の治療を施しながらそれを聞き流すのが恒例だ。それなのに今日は向こうから話しかけてきたばかりか、この機嫌の悪さ。
逡巡の後、慣れない息苦しさに耐えかね話題転換を試みる。
「私のことより、ご自身の処置を先になさってください。かなりの出血量ですよ」
「ほとんど返り血なのでご心配なく。それより貴女の頭を割ったという立会人はどなたです?」
「ええ〜、その話はもう終わりましたよ」
「終わってません」
ピシャリと行く手を阻まれ、転換に失敗。
参ったなあ。興味も好感もない相手のことなど純粋に覚えていないのに。私にとっては脳のリソースをそんなところに割くより、弥鱈さんの鼻の骨折回数を数えてる方がまだ有意義だ。
「答えられない理由でも?」
「答えられないというか覚えてないんです。興味ないことはすぐ忘れてしまいますし」
「そんな嘘通用するとお思いですか? 私の骨折回数まで覚えているでしょうに」
「それ、同列ではありません。弥鱈さんには興味があるから覚えているんですよ?」
首を傾げると、振動が伝わったのか彼のジャケットの袖から真っ赤な水滴が落ちた。反射的に手が離れたものの、気付けば私のシャツにも血が付いている。
そう言えば弥鱈さんが私の服を汚すのは初めてだとぼんやり思う。今日の彼は、ちょっと変。
「そもそもどうして怒っているんですか?」
「自分の玩具を勝手に壊されたんですから、お礼が必要だと思っているだけです」
「んん? 私、弥鱈さんの玩具じゃないですし、怪我があるだけで別に壊れてませんけど……」
当然の如く放たれた言葉に思わず待ったをかける。壊される自分というのも、それはそれで面白いしドキドキするが、あいにくまだ死んでない。
その言葉を受けて弥鱈さんは数度瞬きをした。口元に手を当て、まるで自分の発言が信じられないと言わんばかりのレアな表情。
「ふふ、私に気があるみたいな言い草でしたね」
そう追撃してみたが、それ以降弥鱈さんは顔をしかめそっぽを向き、普段通り無視を決め込む。血の混じった唾風船が飛び立ち、すぐに割れる。改めてもう一つ飛ばされた。問答は終わりらしい。
立会人はみんな自由だなあ。感心する私をよそに、彼は勝手知ったるように必要な道具を漁り始めた。
「座ってください。仕事ですから私がやりますよ」
「収納場所は頭に入っているので結構です。怪我人は大人しくしていてください」
「それ、ツッコミした方がいいやつでしょうか?」
「……」
返事の代わりに、再度血が落ちた。
今の失言、可愛いですねって伝えたら怒らせちゃうかな。
3.私の素敵な人
十二月に入ってから弥鱈さんが中心となりどこかに卍が貼られたと噂で聞いた。その後屋形越えが行われ、お屋形様の肩書きが嘘喰いに移ったらしい。
私はというと十二月も、心なしかがらんとした賭郎本部で毎日、あってないような仕事をこなしていた……はずなのに気がつくと何故か病院のベッドの上にいた。
残念ながら前後の記憶があやふやなのだが、説明によると前回私の頭をカチ割ってくれた相手が今度は私を殴りつけてくれたそうだ。直接の暴力による怪我はさほど深刻ではなかったものの倒れ込んだ先での当たりどころが悪かった。おかげで、立会人レベルの頑丈さなどない私は数日間の昏倒。起きたら自分にとって社長にあたる人物が変わったと聞かされ、もはや浦島太郎の気分だった。
ちなみに、前お屋形様は屋形越えで行われたゲームの後遺症のため同じ院内に入院中。新お屋形様は創一様を気にかけて度々お忍びで見舞いに来ているらしい。付き添い兼ドライバーは縁あって真鍋さんが担当しているそうだ。何やら過去の二人と面識があるとかなんとか。
ここまでの話は全て、病室を訪ねてきてくれた真鍋さんに聞いたこと。お屋形様が創一様を見舞っている間の暇つぶしとして顔を出してくれたのだった。
私の方も目が覚めてからは暇を持て余していたため話し相手ができて助かった。尤も、会話は雑談というより上司が部下をたしなめるようなものなのだけど。私の方が賭郎所属歴は長いんだけどなあ。
「怪我は二度目だと聞いた。初め被害にあった時にきちんと申告すべきだったのではないか?」
「警察みたいなこと言いますね」
「みたい、ではない。警察に籍がある」
「そういえばそうでした〜」
へらへら笑って答えれば真鍋さんは真面目な顔で頷き、それきりだった。判ったのならそれで良いと表情が物語っている。なのに、真っ当な大人として真っ当な対応をする彼を見て肩透かしを食らった気分になってしまうとは。毒されたもんだなあ、と心の中でひとりごちる。
ごく自然に思い浮かべた相手は今頃何をしているだろう。怪我なくやっているだろうか。ぼうっとシャボン玉が弾けて消える様を想像する。
そんな私の片手を覆うギプスや頭に巻かれている包帯を見やりながら真鍋さんは首を傾げていた。密葬課から賭郎へと所属を変えた初日に早速医務室デビューを果たした彼であるが、しかし公務員らしく一般的な価値観も持ち合わせている。
「どうしてこうなるまで放置を? ここは風通しの悪い組織というわけでもないだろう」
「うーん……。経験則ですけど、ああいうタイプの人って立会人として長続きしないのでほっといても良いかなって思ったんです。ほら、言うじゃないですか。出る杭は打たれるって」
「それが相手の天命だ、と」
座り心地の悪そうなスツールに脚を組んで座る彼はあいも変わらず大真面目な顔だった。なにもそこまでスケールの大きい話ではない。大げさですよ、と笑って答えればその揺れが頭に響いた。傷跡は残りそうだなあ。どこか他人事のようにそう思う。
ふと、にわかに彼の手中にあった携帯が震えた。液晶に視線が落とされる。
「しかし、打たれる杭があるならばそれを打つ人間が存在するものだ」
軽く額を押さえていた私にそう告げ、真鍋さんは腰を上げた。
怪我が尾を引いているのか座っているだけなのに目眩がしてきて言葉の意味を考える余裕がない。かろうじて「もう帰っちゃうんですか?」と声を絞り出すと真鍋さんは肩をすくめた。
「ついでや暇つぶしではなく、君に見舞客が来る頃だ。私はお暇するよ」
§
窓を少し開けると具合はだいぶ回復した。
少し動いてみて利き手が使えないのを不便に感じたが、一人で歩ける分まだマシだろう。普段首に手をかけられてドギマギすることだってあるのに半端な怪我は嬉しくも何ともない。いいや、そもそもあの瞬間の胸の高鳴りは行為よりも相手が理由だろうしなあ。
レースカーテンが控えめに膨らみ部屋の中の空気がみるみる入れ替わっていく。肺を満たす冷たい空気は私の頭をいくらかシャキッとさせた。
暖房の効果が薄れ真冬の外気に全身が包まれる。病院着では寒さを感じ始めた頃、部屋の戸がノックされた。真鍋さんが去り際に人が来るだろうと言い残していたことを思い出す。さて、誰が現れるかな。返事をすると簡素な引き戸が動いた。
「起きたんですか」
「あれ、弥鱈さん? 何しに来たんです?」
「……まだ退院したくないようでしたら手伝いますよ」
入室早々不穏な台詞を返した弥鱈さんは、けれども私が両手を擦り合わせているのを見るなりすぐさま窓を閉めた。風が止んだだけで体感温度はガラリと変わり寒さもやわらぐ。怪我人に優しくする良識があったとは。
「早く退院したいので結構です。怒らないでくださいよ」
「怒ってませんー」
視線も合わせないまま彼は何の断りもなくベッドに腰掛けた。動作にぎこちなさなどは一切認められなかったがスーツの足元に血痕らしきシミがうかがえたので仕事終わりなのかもしれない。二十日を超える連勤を終えたばかりにもかかわらず立会人は皆よく働く。私なんて欠勤が一週間に及ぼうとしているのに。
「ちょうど弥鱈さんのことを考えていたのでタイミングに驚いただけなんですよ。それにしても真鍋さんが言っていたのは弥鱈さんのことだったんですねえ」
「……真鍋立会人が? 彼に何か聞きましたかぁ?」
話しながら携帯を操作する器用な様子を眺め、漫然とした質問の答えを思案する。聞いたことといえば、基本的には寝ている間起こった賭郎での出来事くらいのもの。
「取り敢えずお屋形様が変わったって話は聞きましたよ。あと自分が入院することになった経緯も」
「貴女に怪我を負わせた立会人については?」
「ああ、それは失念していました。彼、どうしてます?」
「死にました。つい先ほど」
「へえ〜すごくタイムリー」
感情の乗っていない説明に、やはりそうなったかと納得の声が出た。彼は些細なことで感情を揺らす激情家だったので良くて掃除人への転向、悪くて消される結果を予測していたが、悪い方が当たってしまったようだ。立会人を長く続けるのは難しいことだなあと思う。
その点、弥鱈さんなんかは優秀だ。あとは医務室の利用頻度が下がれば言うことなしなんだろうけど。
「驚かないんですね」
「あの手のタイプでこの仕事が長く続く方、いませんし。ちなみにどうして亡くなったんです?」
「號奪戦を挑まれたので返り討ちにしました」
お得意の唾風船がぷかりと飛んだ。真鍋さんの言っていたことはこれだったのか。私は目を丸くする。
號奪戦は数ヶ月前から従来の方式に戻ったと聞いているが、それ以来弥鱈さんが誰かにハンカチを落とされたのは初めてなのではないだろうか。加害者が死んだことよりもそっちの方が驚きだった。彼の性格を考えると十秒縛りで行われる格下との號奪戦はそれほど楽しめないだろうし、向上心に満ち溢れていた件の立会人ならばもっと若い號を持つ相手に目を付けるはず。
「ええ〜、弥鱈さんがやったんですか? 本当に?」
「何かご不満で?」
「不満なんてありません。ただ、弥鱈さんが號奪戦を挑まれるのは不思議だなと思いまして。勝っても貰える號数は弐拾八なのに」
「はあ? 喧嘩売ってますー?」
振り返った弥鱈さんが目を三角にした。こういうやり取り前にもあったなあ。首元にありもしない指の感覚がよみがえる。熱っぽくなった喉に触れると指先までもが急速に熱くなった。馬鹿になりかけている体温調節機能を嗤った私は前回とそう変わらない答えを返す。
「売ってません。だいたい弥鱈さんはわざとその號数を保ってるんでしょう? 私だってそのくらいの情報はキャッチしてますからそうつっかからないでくださいよ。そうではなく、亡くなった方は結構ギラギラしてらっしゃったので弐拾八號では満足できなさそうなのになって話です」
「相手のこと、覚えていないんじゃなかったんですかぁ?」
「早死にしそうなタイプだなって印象くらいは残っていますね」
「はあ……」
非難めいたため息が零される。ペラペラと喋りすぎるきらいのある私と対照的に、彼は言葉足らずな部分がある。これみよがしに呆れられても何が問題だったのかを察するのは少しばかり難しい。
リアクションに困っていると、弥鱈さんは片足をベッドに乗せ上げてこちらへ身体ごと向き直った。革靴がシーツを黒くする。行儀が悪い。それは私の寝台なんですけど。
流石に文句を言ってやろうかなと息を吸ったが、言葉はすんでのところで遮られてしまう。
「最初から、相手について少しでも私に伝えていればこんなことにはならなかったんですよ」
伸ばされた手が頭の傷にやんわり触れ、そのままくだって私の髪を掬った。頭に迫った影に対し本能的危機感を覚え身構えた私は、拍子抜け。まるで壊れものを扱うような繊細な手つきは普段の彼からかけ離れたものに思える。
命を簡単に奪えてしまえる手が、私を慮っている。その事実がただでさえガタの来ている頭を更に沸騰させた。ああ、困った。
パチリと目の前で風船が爆ぜる。ハッとして意識を現実へ引き戻した。
「……もしかして、弥鱈さんの方から號奪戦になるよう仕向けたんですか?」
「まあ、そう言えるかもしれません」
「それ、」
「前にも言いましたが」
人差し指に巻き取られた髪がくるくると弄ばれる。やめてくださいと言わねばならぬほどのことでもないが、前回会った時とは態度に温度差がありすぎて落ち着かない。
怪我のない方の手で彼の動作をたしなめれば、すぐにそれを絡め取られる。
思えばお見舞いに訪れた時点でらしくないのだ。彼は今日も、変。
「自分のお気に入りを勝手に傷つけられたことを不快に思っただけです」
「あの、間違いだったら申し訳ないんですけど、弥鱈さんって私のこと、」
「好きですけど?」
それが何か? と言わんばかりの顔で手の甲をわざとらしく親指で撫でられる。こんなことってあるんですねえ。ちょっとそれは読めていなかった。
一体どういう風の吹き回しですか。なんて普段通りを演じきれないくらい思いもしなかった告白にすっかり浮かれてしまっている。
自分はなんてお手軽なんだろう。思わず笑って、繋がっている手を引いた。弥鱈さんはびくともしなかったけれど、私が身を寄せれば良いのだから問題はない。
目を閉じてほんの数秒。頬を掠めた鼻先がくすぐったい。こういうときも鼻が高いのは考えもの……いや、私が下手くそなだけかも。そう思いながらリップ音を立てほんの少し身を引けば、至近距離で弥鱈さんと目が合った。
ひそめられた眉とは裏腹に、瞳に翳る動揺。そういう素直な一面を知っているのが私だけだったらいいなあ。
「……何のつもりですか?」
「ええ? 今、怒るところ? 何か問題でも……あ、接触がダメなタイプでした?」
「は? ……貴女、私に気でもあるんです?」
「気があるというか、普通に好きですけど。前にも言ったじゃないですか、ドキドキするって」
「……」
「あれ? 弥鱈さーん、聞いてますか?」
「はあ……」
気の抜けた声がしたかと思うと、一瞬のうちに一段と距離を詰められた。目をつむる余裕もないままゼロ距離で視線が交わる。行為自体は先と何ら違いないのにドッと心臓が喚き出して息だって止まる。普段そっぽを向かれるばかりだったからか、私は彼の視線に弱いらしい。
びっくりしているうちにそっと離れた弥鱈さんはそのままベッドから降り立ち上がった。シーツに残る革靴の汚れを軽く払いながら唾玉を飛ばす。
「さっさと復帰してください。医務室が開いてないと不便なので。それに、貴女の顔を見るためにここまで来るのも手間ですから」
寝台は元の白には戻らなかったが、彼はポケットに手を突っ込み来た道を戻る。
つまり、今日は私の顔を見るために来たとわざわざ言っているに等しい。號奪戦をして、その足でここを訪れてくれているのだろう。捻くれた言い回しから垣間見える甘さに我慢の限界。ずっと控えていた単語が転がり落ちた。
「……弥鱈さんって可愛いですよね」
「そう言っていられるのも今のうちだけです」
またお見舞いに来てくださいねと言う私の声を無視して後ろ手に扉が閉められていく。
案外怒られはしなかった。あまり嬉しそうではなかったけれど。
暖かい部屋の中に一人取り残された私は時間を持て余しながら物思いに耽る。ああ言われたが、好きでい続ける限り結局彼のことを可愛く感じてしまうんだろうなあ、と。