ここは天国ではないが地獄でもない
心許ない灯りが揺れる地下駐車場に、密葬課課長・真鍋匠は立っていた。憂いを帯びた視線の先には先刻まで人だった塊が伏している。
今回のターゲットは複数の潜伏先を転々としている麻薬の密売組織で、任務内容はその壊滅。警察内部の人間が関わっていると判明したため公ではなく秘密裏に葬られることとなった。
複数ある潜伏先それぞれに課の人間がスタンバイし、号令と同時に任務が開始された。人員が数人ずつ現場に派遣される中、彼は不自然にも持ち場を一人で担当し、結果として大当たりを引いた。
密葬課は、法で裁けぬ悪を葬る目的で作られた課であり在籍者ほとんどは並外れた暴を持ち合わせている。一方で、密葬課の行いを隠蔽するため死体を回収し、死人を行方不明者と偽って登録するなどの事後処理を請け負う人員も配置されている。今回真鍋に付き従っているミョウジはその非暴力部隊の一員であった。
真鍋の呼び出しに即座に応えられるよう近辺で待機していたミョウジが連絡を受け現場に踏み込むと、そこは一面血の海と化していた。むせ返る鉄のにおいに思わず顔を歪めれば、最も空気の濃い区画で佇んでいた彼と目が合う。圧倒的力でこの場の支配権を握る真鍋は、しかし浮かない様子だった。
「一人か」
「応援は呼びました。すぐに到着するかと。しかしこれは……後処理も骨が折れそうですね」
固く握られた拳から血が落ち、微かな水音を立てた。
そこらにポツポツと転がっている肉は顔の原型がなくひしゃげている。その中で唯一、彼の目下にある塊だけは傷跡も見て取れないほど綺麗なままだった。恐らく、首を一瞬で折られ絶命したのだ。
血だまりに沈むウェーブのかかった長い髪やその服装を鑑みるに、年若い女だったと予想がつく。特に念を押して抹殺指示が出ていたターゲットのうちの一人だろう。
少女から女性への変遷期の最中にあったはずのうつくしい彼女は、麻薬組織の幹部の一員であると同時に様々なネタで多くの警察官をゆすっていたのだと言う。善人とは言い難い人物なのは事前資料で知り得ていたが、こうして実物を見るとやはり大人にもなりきれていない相手の未来を奪うことに対する後ろめたさは付いて回る。
悪を裁くため、そして秩序を守るための行為とは言え女子どもまで手にかけなければならないのはやはり遣る瀬無い思いがする。仕方のないことだと判っていながらも、ため息くらいは出てしまう。
すると、それを聞いた真鍋が顔を険しくした。左目の下では獣めいた毛筋がにわかに揺らぐ。
「文句を言われても困る」
「文句なんてありませんよ」
けして彼を責めたいわけではない。突き放すように出された言葉を遮りミョウジは首を横に振った。
きっと当の本人が自分のしたことに息苦しさを感じているのだろう。そして、組織の歯車でありながら一個人の感情を抱いてしまっている事実を、苦々しく思っている。そういう、真面目で誠実な人柄であることは短い付き合いでも判っていた。
しんと静まり返った空間で、ミョウジは真鍋の傍へ歩み寄った。面白味のない黒パンプスが赤い湖面を震わす。
最低限の荷物を入れているバッグから未開封のペットボトルを取り出し、持ち歩いていたハンカチを濡らす。水を吸ったハンカチがほんのわずか色を変えた。ああ、こんな日に限って白を持ってくるんじゃなかった。
苦笑をこぼし、不思議そうに様子を窺っていた上司の逞しい手を取った。
迷いなくハンカチを滑らせると、布はすぐさま赤く染まり、代わりに血塗れだった手は人間の色を取り戻してゆく。真鍋は一瞬にして汚れていくハンカチに小さく声を上げたが、ミョウジは手を止めなかった。
拭いて、また布を水で濡らし、絞って再度拭く。濡らすたび、絞るたびに溢れた水滴が血溜まりへ落ち、その跳ね返りが二人の足元を汚し続けた。けれども互いに言葉も発さぬまま、儀式めいた行為は彼の手が綺麗になるまで続いた。
かろうじて白さの面影があった四つ角の一角を用いて親指の爪を磨き上げ、ミョウジはようやく綺麗になった真鍋の手を解放した。
見上げると、上司はいまだ部下の奇行に戸惑っているらしく、顎に手を当て今の時間の意味を考え込んでいる。
答えを急いたりせず、相手を解ろうと時間を割くところに好感が持てる。彼は善い人だ。少なくとも自分にとっては。そう思いながら、ミョウジは口を開いた。
「この任務は密葬課に与えられたものです。汚れ仕事だからといって課長一人だけでしなくて良いと思いますよ」
「……何の話かな」
真鍋は目を閉じ肩をすくめた。言葉と裏腹に観念したような響きを含んだ声だった。
各々の配置決めの際、彼は自分の持ち場が最もハズレの可能性が高いだろうと言っていた。だから一人で十分なのだ、とも。あの場で“ハズレ”の意味を正しく理解していた者はそう多くはないはずだ。ミョウジも、ついさっきまでは騙されていた。
個性しかない面子の集う密葬課において曲者たちを率いる長に起用された男は、他の場所では上手く生きれなかったあぶれ者たちを人間として扱おうとしている。その気持ちに報いたかった。
「部下思いの上司を持てていることは鼻が高いです。ありがとうございます。だから、今度からは私たちにも課長のことを大事にさせてくださいね」
真っ直ぐ見つめながら伝えると、真鍋は考えも付かなかったと言わんばかりに目を見張った。多くの部下に好かれている自覚がないらしい。
真面目で実直なのに、課の皆を惹きつけてやまないのはこういう天然で憎めないところも要因の一つだろう。
ミョウジは苦笑を漏らしたが、その声が地下に響くことはなかった。地上へと続く出入り口から響き始めた複数の足音に紛れてしまったからだ。呼んでいた応援が到着したようだ。
念のため近辺は交通規制を行い人払いしているが、作業は手早く済ますに越したことはない。力仕事も山ほどある。
ミョウジは五体満足の真鍋に向かって使い捨ての手袋を投げ渡した。当然、上手くキャッチされる。
「課長も手伝ってくださいね」
足音がぴたりと止み次の瞬間には、この空間が一人によって生み出されたことに対するどよめきが起こる。無理からぬ話だ。
しかし悠長に驚いている場合でもない。まずはいまだ体液を流し続けている死体の回収だ。
場の惨状に驚く同僚たちへ指示を出すべく踵を返したミョウジだったが、その腕を強く引き止められた。
パシャリと水音が鳴って、お互いの足が生み出した波紋が血の中でぶつかり合う。
「それ、借りても構わないかい?」
「借りるも何も、捨てるだけですよ?」
「そうか。なら私に任せてくれ」
ししどに濡れたハンカチは引き抜かれ、返り血の跳ねたスーツに納められた。訝しげなミョウジをよそに、真鍋は先の頼み事に応えるべく物言わぬ死体を拾い上げたのだった。
§
一生見つかるはずのない“行方不明者”のリストに三十人以上が追加された。秘匿された火葬場で今頃灰と化しやがて忘れられていくだろう。
一方、件の年若い女は幸か不幸か天涯孤独の身だったらしく、最終的に事件性のない自死として片付ける流れとなった。人間として死んだ記録が残るなど破格の扱いだ。尤も、死人である彼女にとってそれが意味を持つかはあずかり知らないところだが。
形式上必要となる書類を作成し、報告書も書き上げたミョウジは自席でうんと伸びをした。長時間の集中がたたり腰の関節がパキパキと鳴る。周りのデスクは既に無人となっていた。自分も早く帰ろう。
「ミョウジ、少し良いかな?」
「っ、ハイ!」
背後から突然声をかけられ、ミョウジは肩を跳ね上げた。振り向いた先には長の姿。
彼に限った話でもないがこの課の者は物音を立てずに人の背後を取るのが上手い。職業柄褒められるべきところとは言え、心臓には悪い。
胸を落ち着けつつ、上司の話を聞くため丸まった背筋を伸ばしたミョウジは用事の続きを促した。
「先日借りたハンカチなんだが、」
そう言って差し出されたのは先日真鍋が持ち帰った件のハンカチだった。縁がほんのり黄ばんでいるようにも見えるが、かつて吸った夥しい血液の面影はなく、このまま使っても問題ないように思える。
任せてくれ、とはそういう意味だったのか。てっきり捨てたものだと思い込んでいたミョウジは上司のマメさに目を丸くした。
「洗ってくださったんですか? すごく綺麗になってる……。腕の良いクリーニング店をご存知なんですね」
「いや、これは私が洗った」
「えっ」
「君の行為に報いたいと思ってね。こうするのが最もしっくり来た」
振り払われなかったのを良いことに甲斐甲斐しく彼の手を取った記憶が蘇る。あの日の出来事を反芻しては恩着せがましいお節介だったかもしれないと内心反省していたため、真鍋があの行動に嫌悪感を示していないと知れてホッとした。
自分の発言を返されたようで少しむず痒い言葉選びではあったが、真鍋に悪気がないのも判りきっている。
「課長が手ずから……。ありがとうございます。大事に使わせていただきますね。……課長?」
頭を下げて目の前のハンカチを受け取ろうとすると、真鍋は手を引っ込めた。空を切った格好のつかない姿勢のまま、ミョウジは首を傾げる。
「結局、汚れが少し残ってしまったんだ。これは私がもらっても構わないだろうか?」
「……良いですけど。じゃあ結構綺麗になったよって見せびらかしに来たんです?」
唇を尖らす部下を一瞥し、真鍋は首を振った。頬の特徴的な体毛がやわらかく踊る。
「そうではない。お詫びに食事でもどうかと思って、誘いに来た」
「そんな、お詫びなんて結構ですよ! 見返りが欲しくてやった訳ではありませんし、そもそも捨てるつもりだったので」
たかがハンカチ一枚で大袈裟だ。慌てて辞退を申し入れると真鍋は腰をかがめミョウジの瞳を覗き込んだ。何かを見極めるように顎に手を当てるのは彼の癖だろうか。
息を吹きかければ頬の毛を乱してしまえそうな距離にそのかんばせがある。たびたび女性職員の中で話題にのぼるだけあって、近くで見ても年齢を感じさせない美しさだ。
波打つ眉の下で、切れ長の目が細められる。狙いを定めるような仕草に、思わず息を呑んだ。
「……これ以上しつこく誘って口説くと、パワハラになるかな?」
口説く。
予期せぬ単語を出されギョッとするミョウジとは対照的に真鍋は顔色ひとつ変えない。何の冗談ですかと問い詰めそうになったが、あまりにも真面目くさった表情を前に、あり得ないと一蹴するのも躊躇われた。
目を泳がせ回答を模索するばかりの獲物に「やはり駄目だろうか」と真鍋がたたみかける。ミョウジの喉が卑しくも小さく鳴った。
「い、いえ、私は別に……。むしろ、その……嬉しいかもしれません」
「それは良かった」
しどろもどろになりつつ本音を零せば、彼が満足そうに頷いた。
「今日の仕事は終わっているな? では行こうか」
慌ててパソコンの電源を落とし立ち上がると、当然のごとく腰に手を添えられる。あまりにも慣れない出来事なので思わず飛びのきかけたミョウジだったが、添えられた腕がやんわりそれを阻止する。普段鷹さんの尻に敷かれてしまっているかわいい人とここにいる彼は本当に同一人物だろうか。
おずおずと見上げた先にはほほ笑む真鍋の顔がある。このタイミングでこんな表情をしてみせるのはズルい。ちっとも敵う気がしない。
耳の先まで上る熱を隠すように俯けば、頭上からはくつくつと満ち足りた笑い声がするのだった。
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