2.

 仁王くんに飴玉のお礼を言い忘れたことに気づいたのは、その日家に帰ったあとだった。スカートのポケットから取り出したパステルカラーを眺め、あの魔法のような手品はどういうタネなんだろうと一瞬の出来事を思い起こしてようやく自分の失態にたどり着いたのだ。
 いくら驚かされていたとはいえ、人として大切なことをおざなりにした自分に幻滅する他ない。
 謝罪と感謝の連絡を入れようとスマホを手に取ったが、仁王くんとまともに言葉を交わしたのは今日が初めてと言っても過言ではないため連絡先など知るはずもなく。丸井に聞けば済む話だけど、変に勘違いされて話がややこしくなるのは面倒だった。
 最早お手上げだと匙を投げた私は、心の中で仁王くんに頭を下げた。

§

 本を開いてはいるものの、内容はあまり入ってこない。窓枠の向こう側の廊下をチラチラ気にしているからだ。
 通り過ぎる同級生たちを何人も何人も見送り、もしかして今日はお休みなのだろうか?と不安になりかけた頃、ようやく彼は現れた。

「仁王くん!お、おはよう」
「おはようさん」

 思いのほか大きく出た自分の声に驚いて、挨拶が尻すぼみになっていく。それをきちんと聞き入れてくれたらしい仁王くんは、右手を挙げて応えてくれた。
 校内はまだまだ騒がしいが、朝のHRまであと五分もない。同じ朝練をこなしてきたはずの柳生くんはずいぶん前に着席を済ませているというのに、ギリギリの時間にやってきた仁王くんの足取りはとてもゆるやかだ。

「あ、ちょっと待って!」

 私が腕時計を確認している間に廊下を通り過ぎようとした彼を引きとめる。いつもの窓から少しだけ身を乗り出すと仁王くんはこちらに寄ってきてくれた。一見とっつきにくそうなのに、わりと親切である。

「どうした?」
「昨日言い忘れてて。これ、ありがとうございました」

 包装越しに飴のブロックを摘んで見せ、頭を下げれば仁王くんは片眉を上げた。つられて眠そうだった目もほんの少し大きくなる。

「まだ食べとらんかったんか」
「うん。お礼言い忘れてたなって家で気づいて昨日は一人反省会だったよ」
「一人反省会て。真面目か」

 形のいい唇からフフッと抑えきれなかったらしい息が漏れた。仁王くんは私の言葉を口の中で転がしては笑みを深くする。どうやらお気に召したらしい。私としては別に笑わせようと思ったつもりはないのだけれど……。

「そんなに面白い?」
「なかなかユニークな造語と思うぜよ。俺も使おうかのう」

 嫌味混じりの質問に飄々と返ってきた答えは予想の斜め上を飛ぶ。私からしてみれば仁王くんの切り返しの方がよっぽどユニークだ。

「仁王くんが反省……」

 仁王くんと反省。
 似合わない単語の並びを聞いて自分の唇の左端が歪むのを感じた。風紀委員の指導を何度も受けているのに全て右から左であることは、もう一人の当事者である丸井を通じて知っている。反省とは程遠そうなのに……。
 などと、考えれば考えるほど面白くなってしまう。奥歯を噛んで声を上げないよう頑張りつつ、このタイミングで笑い出すなんて失礼が過ぎるかもしれないと隠れるように顔を伏せる。けれども、彼の観察眼にはかなわなかった。

「なに笑よんの?失礼じゃなか?」
「ごめんなさい」
「プリッ。それがミョウジの本性っちゅうわけか」

 酷いのう……と呟く仁王くんの目は三日月を描いていて、全く悲しそうではない。昨日からずっとからかわれ続けている私もそろそろ彼の遊び心に慣れてきた。

「うん。他の人には内緒ね」

 口元に立てた人差し指を添えれば、仁王くんは少し驚いていた。私が昨日のように慌てる様を想像していたのかもしれない。詐欺師を出し抜いたと思うと少し誇らしくなってしまう。私にも詐欺の才能があるのかも。
 そんな私の心の声が聞こえたのか、くるりと振り向いた前の席の友人が「悪いけど、その内緒話全部聞こえてるから」と華麗にツッコミを入れてオチがつく。タイミングの良さに表情を崩すとチャイムが鳴った。
 廊下に出ている生徒はもうほとんどいない。

「うわ、引き止めてごめん」

 昨日の彼の行動をなぞるように片手で拝む。朝練で疲れているであろう仁王くんを引き止めてしまって申し訳なかった。
 けれども仁王くんは、怒る様子も、急ぐ様子もなくラケットバッグを背負いなおした。

「詐欺師にナイショ話とはいい度胸じゃな」

 不穏なセリフを残した彼はそしてまた、ゆったりとした足取りで教室へ向かうのだった。


§


「これ助かった。ありがとさん」
「うん。……うん?」

 そう言って机に置かれたのは地理の教科書と100円玉だった。横からにゅっと伸びてきた骨張った指を辿ると、案の定銀髪がキラキラ光って見えた。
 先日の一件以来、仁王くんは味をしめたらしく度々窓枠越しに私を訪ねてくるようになった。勉強熱心というほどでもない私の教科書は軽くマーカーが引かれているくらいなので、柳生くんに借りた方がためになるんじゃない?と聞いてみたら、あいつはぐちぐちうるさくてかなわん!とか何とか言って彼は肩をすくめていた。
 探偵顔負けの鋭さで私たちのやり取りに気づいた柳生くんは、彼を甘やかしてはいけませんよと至極真っ当なことを言った。けれども頼みごとをされると断れない日本人気質の私は、別に乱暴に扱われている様子もないため、仁王くんに教科書を貸し出している。もちろん無料で。
 しかし今日はなぜか、返却に金銭が発生してしまっている。別に対価が欲しくて親切をしているわけでもないのに。私は去ろうとする仁王くんの手首を掴んだ。
 細くて華奢に見えていたがそれは紛れもなく男の子の腕だった。内心ちょっと面食らう。

「仁王くん、100円お忘れですよ」
「それはお前さんにやるわ。教科書昨日のうちに返せんかったけ、利子じゃ」
「別に昨日私は地理の授業なかったし何も困ってない。利子なんていらないよ。貰えない」
「真面目じゃのう」

 軽く笑い、仁王くんはするりと私の手から逃げ出した。強く振り払われたわけでもないのに、また魔法みたい。慌てて追いかけようとしたが、チャイムと共に教師が入室してくる。腰を浮かせかけていた私は大人しく着席するほかない。

 昼休みに仁王くんの教室を訪ねてみたものの、結果は空振り。まぁそう簡単には捕まらないだろう。最近少しだけ分かってきた。追えば何故か逃げる、そういう人なのだ。
 教室、学食、屋上。めぼしい場所を探索していると、売店の向かいの自販機でようやく彼の姿を見つけた。ちょうど財布を取り出そうとしている。
 背後から抜き足差し足で忍び寄った私はすかさず自販機にお金を入れた。そして左を見上げる。

「どれ買うの?」
「おっと、今のはちくとビビったナリ」

 そういう割に仁王くんは全部分かっていましたと言わんばかりの涼しい顔。
 一体どこから私に気付いていたんだろうか。後頭部に目でも付いているのかな。

「これで貸し借りなしね」
「プリッ。ミョウジのオススメどれ?」
「えっ?」
「オススメは?」
「私はいちごミルクたまに飲むけど……」
「へえ」

 マイペースに会話を続け、軽く相槌を打った仁王くんはピンクのパックのボタンを押す。音を立てて落ちてきたそれにストローを刺した彼は口をつけた。
 襟足を縛るゴムに良くピンクを使っているからか仁王くんとピンクという配色はとてもお似合いに見える。
 ごくんと喉を鳴らした仁王くんは、顔をしかめた。

「あま……」
「だっていちごミルクだもん」
「これおまんにやるわ」

 差し出されたパックを条件反射で受け取る。我に返った私が断るより先に、仁王くんは隣のオレンジジュースのボタンを押していた。それも甘いんじゃないのってツッコミも間に合わなかった。
 問題の100円で買ったジュースが私の手元に収まってしまっている。なんと表現すればいいんだろう、狐につままれた気分?これは絶対、確信犯ってやつだ。

「もー!意味ないじゃん。貰えないよ」
「俺に詐欺で勝つにはまだまだじゃな。あと、貰ってもらわな困るぜよ。俺、二本も飲まんし」
「じゃあ丸井にでもあげなよ、友達でしょ」
「これ以上肥えさせたら可哀想じゃろ」

 失礼極まりない発言だなと思う一方、確かにと納得した自分がいたことも否定できない。柳くんに痩せるよう指示されたと嘆いていた丸井を思い出して笑いが私を追いかけてきた。目を逸らし奥歯を噛み締めていると隣からは、今笑い堪えとろう?と的確な茶々が入った。

「俺の台詞に笑ったっちゅうことは共犯ナリ。酷いやつじゃの……。告げ口れたくなかったら大人しく受け取りんしゃい」
「……どうもありがとう。あーあ、仁王くんにはなかなか勝てないな」
「今後も勝たさんぜよ」

 結局丸め込まれた私は苦し紛れに自分を茶化す。仁王くんの気の利いた返事に対し私たちはまたフフフと笑い声を漏らすのであった。

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