3.
仁王くんが私の席に座っている。私はそれを斜め後ろから眺めている。同じ教室に仁王くんがいるって、なんだか不思議。
彼の丸まった背中を見ていると少し嬉しくなってしまうのはどうしてだろう。
試験的に数学のみ習熟度別の授業展開をするということは中間テストの返却とともに私たち生徒へ告げられた。特進クラスの者としてなんとか一番上のクラスに滑り込んだ私は、掲示板に張り出されていた座席表を見て目を丸くした。
偶然にも、いつも私が座っている席を表す四角には仁王くんの名前。そして私の名前はそのふたつ斜め後ろにあった。
そういえば、彼は様々な教科書を借りに来るけれど数学だけは貸してくれと頼んできたことがない。数学が飛び抜けて好きなのかもしれない。
「おーおー、特進のやつを一人引きずり出してしもうたみたいじゃの」
「仁王くん、文武両道ですごいね」
「たまたまぜよ」
突然上から会話を投げかけられるのにはもう随分と慣れた。振り返れば、銀色が眩しい。片眉を上げた仁王くんは私の右肩に左腕を乗せて体重をかける。
「私は肘掛けじゃないんだけど…」
「前から二番目とはツイとらんの」
「聞いてないし。それに、前から二番目でもけっこう内職だってしやすいよ」
「へえ、優等生のミョウジもそんなことしちょるんか」
「私は優等生のフリしたわるい子だからね」
「演技派じゃな」
したり顔で目を合わせて数秒。私たちはどちらともなく噴き出した。彼の薄いくちびるがこんなに綺麗な弧を描くのはレアだなとこっそり思った。
§
同じクラスの柳生くんが「仁王くんは困った人ですよ」と教えてくれたのはつい最近のことだった。けれども仁王くんは授業中に舟をこぐこともなく、時折くるりとシャーペンを回しながら先生の話に耳を傾けている様子。少なくともこの授業では“困った人”ではなさそうだ。そもそも、忘れ物が多いところが柳生くんの言う困ったところなのかもしれない。折角私が知らない仁王くんの一面を見れるかもしれないと思ったのに、残念。
がっかりしつつシャーペンを持ち直した私は大人しく黒板の文字を追うことに専念する。
チャイムが鳴り、黒板用の大きなコンパスを肩に担いだ先生が教室を出て行く。それを尻目に教材を抱えた私は席を立った。仁王くんはまだ左手を動かし何かを書いている。
銀色の尻尾が掴めそうなところまで寄ると彼は顔を上げてニヤリと笑う。
「あっ」
「なかなかの画伯じゃ。これ、なん?うさぎ?」
「いや、ネコ……のつもり。自信があったとかじゃなくて消し忘れで……」
仁王くんの長い指が机の端の落書きを指した。消し忘れていた私の落書きの隣には、同じ顔をしたイラスト。きっと仁王くんが真似したのだろう。またそういうことをするんだから。
そう思いつつ、壊滅的な絵心のなさが浮き彫りになっている自分のイラストを見て、私は額に手を当てた。自分が生み出したものだというのに改めて見ると、本当にこれはネコなのかと不安になるレベルだ。
「ネコ、ネコか。ネコは、こんな感じかのぅ」
「うまい……」
くつくつと笑った仁王くんは、机にペンを走らせた。左手はよどみなくスルスルと線を繋いでいく。ものの数秒で誰が見ても分かるであろうネコのイラストを描きあげた彼は得意げに目を細める。その様子がネコそっくりだと言ったら、仁王くんは嫌な顔をするだろうか。
「脱画伯のポイントはな、観察力じゃ」
「観察力」
「おん。対象をよーく見てそれを再現する。やき、対象のことを好きにならんといかんかもな」
「なるほど」
「試しにおまんでも描いてやろうか」
そう言って仁王くんはひとつ丸を描く。その中にいわゆるニコちゃんマークを、さらに外径の四時と八時の方向から毛のようなものを二本加える。
その様子を眺める私のトレードマークは、二つに結った髪の毛なわけで。さては仁王くん、また私のことをからかっているな。
「ほら、完成ぜよ。似とるじゃろ」
「もー、私で遊ばないで。それに、人の机にそんなにいっぱい落書きしないで!」
「ハハ、すまんすまん」
心のこもってない謝罪を残した仁王くんは、シャーペンを筆箱に突っ込んで腰を上げた。ひらりと手を振って去っていく猫背を見送る。
椅子に残る彼のぬくもりはなんだか落ち着かなくて、何度もお尻を浮かせては座り直す羽目になったというのは私だけの秘密である。
魔法のような手のひらにより賑やかになってしまった机は、私の心を浮き足立たせる。落書きが見つかったら先生にお説教をされてしまうかもしれないのに消すのがもったいない気がしてしまうのだから参る。やっぱり、柳生くんが言ってたように仁王くんは“困った人”かもしれない。
苦笑いをこぼし、彼に似たあのネコをそっと撫でた。