世界は思うまま
髪色に映える白スーツ姿は普段と変わりないが、いつも通りでないところが一点だけ。ソファの左側が控えめに沈んだのを合図に、そのちょっとした違和感がうんと際立つ。知らないふりをしようと思っていたはずなのに、気付けば口を開いていた。
「今夜はどこかにお出かけ?」
「ん?どうして?」
彼が首を傾げた拍子に、あまり嗅ぎ慣れない香水が更にかおる。ふわりと甘いのになぜかヒリヒリ刺されるような心地がして、たまらず息を呑んだ。
本人にもそしてこの香りにも、近づいた相手を捕らえて離さないような魅力があった。それにまんまと引っかかる者はきっと後を絶たないのだろう。もちろん、私を含めて。
「今日は一段といい匂いするから、誰かに会う予定でもあるのかなって」
「いい匂い?本当?嬉しいな」
「うん、誘蛾灯って感じ」
「ちょっと!それ褒めてる?」
「もちろん」
私の素直な感想に顔を引き攣らせる。それすらも様になる常人離れした相貌に見惚れていると、彼はハッとして突如慌て出した。
「あ、でも浮気じゃないからね!そこは心配しないで!」
「それは気にしないから大丈夫」
「……俺としてはちょっとくらいは気にして欲しいんだけどなぁ〜」
本当かどうか判別のつかない、人に気を持たせるような言葉が次から次へと放たれる。微塵も浮かれた気持ちにならないと言うと嘘になるけれど、根拠のないリップサービスをいちいち間に受けるのは馬鹿馬鹿しい。
そんな私の態度に肩をすくめ、彼はいかにも高価そうなソファに深々と沈む。いじけた風に唇を尖らせる仕草には十代の男の子のような愛嬌が滲むが、彼はそんな甘ったるいだけの人ではないはずだ。
ホテルの最上階に位置するこの部屋は、いったい一泊あたりいくらになるのか。そしてこんなところでもう何ヶ月も生活している貘さんはいったい何者なのか。
正直、薄々勘付いてはいる。というか、恐らく彼には隠す気がない。もしくは、わざと気付かせるための種を撒いている。
そこまで分かったうえで知らないふりを続けているのは、深入りしすぎて嫌われることを心配しているからではなく、彼にのめり込むのが恐ろしいからだった。
「まぁでも、どこかにお出かけっていうのは正解」
含みを持たせたまま一度言葉が区切られた。手持ち無沙汰に雑誌をペラペラめくっていた私が沈黙に釣られて顔を上げると、長いまつ毛に縁取られた魔性の瞳に射抜かれる。
「……一緒に来てみる? 行先、気になるでしょ」
貘さんが梶くんたちを連れてどこかへ出かけていくのはしばしばあることだが、誘われたのは初めて。
「えっ、大きなギャンブルがあるんだよね?」
「知ってたんだ」
虚をつかれ思わずこれまで散々避けてきたワードを口にした瞬間、しまったと思ったのが顔に出たのか貘さんが楽しそうに目を細める。ついでに、懐からいつもの駄菓子を取り出して口に放り込んでいた。
「……白々しい。これまでわざといくつもヒントを出してたくせに」
「そうだったっけ?で、どーする?付いてくる?」
「……冗談。一般人は邪魔でしょ」
今までより一歩踏み込んだ特別扱いのお誘い。その甘い提案に飛び付きそうになるのを、理性で押し留めた。
たぶん、私の世界と彼の世界は全くの別物。この明確な境界線の向こう側へ入り込んでしまえば、今のようにホテルに入り浸るだけでは済まず、いよいよ自分の思う“普通”に戻れなくなるだろう。
ここぞという場面で、足がすくむ。そんなかっこ悪い部分を悟られないよう、わざと感じ悪く鼻で笑って自分の及び腰を隠した。
左隣からは長い長いため息。それにどんな意味が込められているのかなど分かるはずもなく、ただ続く言葉を聞き逃さないようひっそり息を潜めた。
「俺にとってはさ、これも一種のギャンブルなわけ」
「?」
「君が俺の世界に入って来てくれるかどうかの賭け。……俺に巻き込まれる覚悟はある?」
問いかけとともに雪のように白い手が差し伸べられた。成人男性にしては華奢な細腕だ。危ない世界を渡り歩くには心許ないのに、“お出かけ”をしても彼はいつも足取り軽く帰ってくる。
「貘さんはどっちに賭けるの」
「もちろん、君が頷いてくれる方。願いを込めて、ね」
きっと、類稀なる勝負師なのだ。そんな彼がこの問答をギャンブルと呼んだ。賭け事と縁遠い世界しか知らない私に勝ち目はないし、そもそも勝ちたいとも思わない。
「……貘さんには敗けて欲しくないな」
「安心して。俺は勝ち続けるからさ」
貘さんが、流れるように私の手を引き耳元で囁く。彼の色気のある香りに包まれると、思考が痺れ不安も迷いも霧散していった。我ながら、誘蛾灯とは上手いことを言ったものだ。 引き寄せられたら最後、来た道は戻れない。運命は彼の思うまま。
今夜、私の世界は一変する。